第 3 回 男 子 会 !
無数のちいさな音に目を開けた。
何の夢を見ていたのだったか思い出せなかった。夢と夢じゃない世界を器用に半々ずつ見ていたつもりだったのに。音は、体の左側から、つまり窓のあるほうから聞こえてきていた。何かがぶつかっている。それは丸い。ぶつかって、弾けている。丸いことを、やめる。
「お、雪」。
寝惚け眼のひめかわの隣で松橋が顔を上げた。やべ、傘持ってきてねえし。
「あ、雪。傘いらないんじゃない? ほわほわしてるし」。
今朝見た週間予報では雪だるまが連なっていた。現在、昼の二時。雲は多いが晴れ間に見えている青空。雪が降るには似つかわしくない青さであるのに。当たることもある予報。
ひめかわは寒さが苦手ではない。雪が積もると嬉しくなって、夜だろうが明け方だろうが足跡をつけに家を出ずにはいられない。童謡にも見られるような典型的な犬であった。しかし今ひめかわには雪を見ると嬉しさより先立つ感情がある。
「オージ、寒がってないかなあ」。
思わず漏れたひめかわの言葉に松橋が空咳に似た笑いを零す。いつものこと、と可笑しくなったのだろう。そこには僅かながらも揶揄が含まれている。悪意の無い揶揄が。
「ひめ、だんだん信哉さんの病気がうつってきてんじゃねえの」。
「え、そうかな」。
「だってば」。
松橋は椅子の背に凭れると、さっきまで数式に取り組んでいたシャープペンシルを指の間で器用に回した。松橋の持つ数少ない特技の一つである、シャーペン回し。これだって彼の永遠のライバル(と一方的に認識している)であるエースにしてみれば大したことは無い。松橋の二番手ぶりは板についている。強いて云えば二番手であることにおいてエースは松橋に敵わない。当然である。それはこの国において、寒いと雪が降ってくること、夏は蝉が鳴くことと同じようによくあることである。常識である。通説である。うん、痛切であるな。が、普遍ではない。この国で雪は夏に降るようになるかも知れず、別の虫が夏の風物詩になる未来が、いつか、そのうち、たぶん、きっと、なんとなく、来るかも知れない。その確率と同じくらい、松橋が永遠のライバル(と一方的に認識しているだけである。ここ繰り返すが念のため)であるエースに対し何かで勝るというその日が、来たとしても、それは、太陽が昇り沈む方角を気まぐれに変えてしまう日より早く来るのではないだろうか。だがここまでくると二番手であることは松橋という男子高校生のアイデンティティの一部と既になってしまっており、そのかけがえない部分を喪失して得られるものがかつて持っていたものよりかけがえないポジションを築けるかというとそうとも限らず、かえって虚しさが募り尊さが悔やまれるのではないだろうか。と、最近の松橋は考えたりもする。漫画だってそうだ。主人公を愛さない読者もいるのだ。悪役や脇役や、いっそ背景にのみ出現しうる人物にしか心動かされない読者もいるのだ。そこを狙っていこう。と、松橋は思う。年の瀬にこんな決意を抱く十代で良いのか、おれ。だが我に返っては負けだ。思い込み無しに成功した偉人はいないハズだ。松橋はやがて考える。もしかすると自分はすでに某物語の作中の登場人物の一人であり、残念な若者として登場しており、だとしても、どこか憎めないような、最終的にはやっぱこういう人間が一番なんだよ、と一瞬でも思ってもらえるような、そんなやつかもしれないよなおれって。
などと考えている間に隣席の友人は携帯電話に出ている。
「あ、はい。大丈夫ですっ」。
ひめかわの背筋が瞬間的にのびる。椅子が鳴る。がたっ。
(ああ、やっぱひめってば分かりやすい)。
松橋にはひめかわの握り締める携帯電話の向こう側にいる人物が見える気がした。いや、見えた。
「・・・・・・ふう」。
およそ五分後、携帯電話を閉じたひめかわに松橋は身を寄せる。
「信哉さん、何だったんだ」。
「リップクリーム」。
「え?」。
「リップクリームちゃんと買ったか、って。乾燥してるからね」。
しばし松橋は自力で考えてみた。
顎に手をあてる。
眉根を寄せる。
格好ばかりではなく、努力もしてみる、とーぜん。
「・・・・・・わからん」。
努力は、実らなかった。
「どういう意味だ、リップクリームって」。
松橋の問いにひめかわは答えた。
「ああ、オージのこと。安いやつだと乾燥しちゃうんだって。いつも使ってるメーカー教えてもらってた」。
ぴろん、と顔の前に差し出された紙切れを松橋は読む。
そこには、リップクリーム、ボディークリーム、風邪薬、葛根湯、生姜湯、などのアイテム名が縦にずらずらと連なっており、それぞれの右側にメーカー名がメモ書き記されていた。
「・・・・・・まさかこれ全部オージくんの御用達?」。
松橋は身震いした。
「悪いが本格的に信哉さんが恐い」。
正直な感想を述べて松橋はひめかわをうかがった。
「え、そうかな。すごく助かるけど」。
「・・・・・・えー、何その“手間がかかるけどかわいいでしょうちの子”っていうペット自慢してる人物の顔みたいな顔。至福の苦笑。ひめじゃなかったら腹立ってたわ、その表情まじで」。
ひめじゃなかったら。
ひめかわには免罪符がいくつも用意されている。同性からも異性からも教師からもその他もろもろ。松橋はそんなひめかわを羨んだことはあるが恨んだことはない。嫉妬というものがまるで芽生えないのは、それもやっぱり『ひめだから』。二番手が板につきつつある松橋は一番になる人間とは大きく分けて二種類いると現時点で思っている。高校三年の冬。受験間近。正直、無駄話してる時間など存在しないはずのこの時期、現時点で。一つは、天然。もう一つは、人工。以上。無自覚か意図的かと云い換えても、よろし。ひめかわの場合、前者である。エースの場合、後者である。いやこれは、一番になる人間のみならずすべての人間にあてはまる分別かも知れない。皆、何かの役を背負っている。背負おうとしている。なりたいふうに、なろうとする。なりたい、という明確な意思があろうと無かろうと、日々築いている。そうして人は、できていく。はず。
「え、だってオージ教えてくんないんだもん」。
「構われたくないんじゃん?」。
「・・・・・・え、おれ知ってもそんなに構わないよ。男らしく放任主義だからっ」。
何この子。天然っておそろしい。や、おもしろいの間違いでした。
「でもさ」、松橋はシャーペン回しの手を休め、体を前に乗り出す。机の上に上体を預けると、ひめかわに顔だけ向けた。仰ぎ見ると窓の向こうに散らつく雪も目に入る。学生服姿も、残り僅か。おれが今ひめに好意を寄せる女子でこのアングルのこいつを見上げられたら、もう卒業式のボタンとかまで欲しがらないぜ。松橋はほんのり恋する乙女な気分を味わっている。ひめかわは「ん」と松橋の言葉を促した。茶色い瞳は誰に対しても柔らかく、女子が騒ぐのも、というか、和まされるのも、おおいに頷ける。おれは幸せ者なんだよなあつまり、と松橋は今頃寒さを思い出して微かに体を震わせた。外の雪が、視覚に白く小さく入ってきて、自然そうなったのかも知れなかった。
「でも、の続き?」。
「うん。聞きたい」、ひめかわは目を輝かせる。
「じゃ、云うけど。信哉さんはそういう心配、どうしてオージくんに直接云わないのかな、って。何でひめ経由になるわけ?」。
「それはおれを信頼してるからだと思うっ」。
「うん、そういう見方もアリだと思うけど、なんか、信哉さんって」。
「な、何」。
ひめかわに詰め寄られた松橋はもったいぶるように目を伏せた。
「ちょ、まつばせっ。そういう途切れさせ方ずるいっ。寝るなよっ」。
反応が思っていた以上に面白く、ついつい寝たふりをしてしまった松橋だったが、背中と後頭部に降り注ぐ、ポカポカと情けない音を出すひめかわの拳に、だんまりを中断した。
「信哉さんって、オージくんに気い遣ってる、よな」。
松橋の発言にひめかわの手が止まる。
「あ、分かる」。
「だろ」。
「弟なのに御主人様みたいじゃん」。
「え、今のたとえはよく分かんない」。
「あ、そ」。
「うーん、でも、気を遣ってるって云うよりも・・・・・・」。
頬杖をついたひめかわに向かい合って松橋も一緒に唸る。
「うん、ひめの考えてること分かる。なんかニュアンスがまだどんぴしゃじゃないんだよな、気遣いってんじゃ。そういうんじゃなくて、こういうの、何て云うんだっけ。負い目を感じてる、じゃなくて、あ、でもそういうのもありそうだな」。
「えーと・・・・・・」。
ひめかわは考えをめぐらせた。
ふと窓に視線を移すと雪のかたまりがくっついていた。ふわふわとして、溶けない。空から降ってくる分はもうおしまいになっていたらしい。僅か数分の、降雪。ケーキの最後の仕上げのグラニュー糖みたいだ。神様。
ひめかわは雪に顔を近づけてみた。そして目を丸くした。
「松橋、松橋っ」。
「どうした、ひめっ」。
「見て、これっ」。
「何だっ」。
ひめかわの肩越しに松橋が身を乗り出す。窓に顔を近づけ、同じように目を丸くした。
「おお、雪の結晶って肉眼で見えることもあるんだな!」。
二人は先ほどまでの会話を忘れ、しばし奇跡の六角形に見入った。
「やばい。ひめ。おれ、なんか、こいつらに愛着わいてきたかも・・・・・・」。
「お、おれも。うん、なんか、トゲトゲしてたりしてかわいいよな・・・・・・」。
顔を見合わせ、互いの頬が赤らんでいることを確認する。
「お、お持ち帰りたいっ」。
声をそろえたひめかわと松橋を、斜め後ろの席からまこっちゃんが見上げ、静かな溜息を吐いた。
(壊れ物を扱う、って云いたかったんだろ)。
オージと信哉の関係は、まさにそれだ。
(あの人は、オージくんがまた壊れてしまうことを、恐れてる。それが、正解だ)。
けど、教えてやんね。
視線を戻したまこっちゃんは答案用紙に自己採点で丸を付け続けた。
「・・・・・・ばっかみてえ」。
誰に云ったセリフか、発言者のまこっちゃん自身にもそれは分からない。マルバツが簡単に付けられる、答案用紙のような人生を送りたいだけなのに。どうしてこの世はなかなかややこしい。
つづく?