第 7 回 男 子 会 !
天気予報で一週間先までの最低気温が零度を下らないことを確認した今朝より、ひめかわの脳内は早くも春の予感にざわついていた。
春。
さくら。
オージっ。
「・・・・・・気持ち悪い、それ。吐くし」。
ひめかわは一瞬、その言葉が自分に向けられたものかと勘違いして身を凍らせた。だが向かいに座り珈琲が冷めるのを待っているオージの視線は、隣の同級生がオリジナルに『調合』する抹茶ラテのほうへと注がれており、過剰に投入されたガムシロップがグラスの底辺に沈殿している様子を見ればオージの発言にも素直に共感できるというものだ。
ほ、と安堵のため息を一つ吐くとひめかわは頬杖をついた。
オージは定期的に美容室へ行くようになった。ひめかわが愛する黒髪を無駄に伸ばし、その黒髪よりさらにワンランク上の情熱で愛する黒い瞳をいたずらに隠してしまったりはしなくなった。オージの瞳には、以来いろいろなものが映る。空、街並み、猫、ごはん、おいしい何か、そして、オージにとってもはや他人ではない、敵ではない人々。
(よく育ったなあ)。
親の心境である。
達成感のようなもの。それは、育児に追われる親が、子の睡眠時間に得るつかの間の休息のようなものかも知れない。何を云っているのか。
とにかくひめかわはあえて向かいの二人の会話に口を挟まず、客観的事実として端正な顔に、ほよほよと痴れ者のような笑みを浮かべていた。
「待たせたな」。
十分もするとオージの兄の一人である信哉が到着してひめかわの横に腰を下ろす。隣のテーブルの若い女性達が会話を止めると驚いたような視線を彼へ向け、また誰からともなく喋り出す。
「・・・・・・おれ、信哉さんが背後から来ても分かるようになりました」。
そう云ったひめかわに訝しげな視線を送りながら信哉はオージと同じ珈琲を注文する。「ニコまたおまえそんなもん食って」と、お向かいの甘党に呆れた視線と言葉を投げかけることも忘れない。
「あ、おれ、ひめの云いたいこと分かるっ」。身を乗り出したのは甘党ニコだ。「ざわ、ってなるもんな、店内とかだと」。
「そうそう」。
「音声じゃなくて、感触? 空気? 周囲の人間の毛が立つような感じがする」。
「でしょでしょ」。
同意同意、とひめかわはニコに向けて数回頷いた。その様子をオージは不思議そうに見比べている。呆けた表情がたまらんっ、とひめかわがオージのスニーカーをつま先で突つくと三倍くらいの力で蹴り返される。そういうつもりじゃないのにと抗議の声を上げたいところだが隣人が隣人だけにあらわにできないひめかわだった。
「ところで今日は何の集まりだっけ」。
ガムシロップの入れ過ぎで心なしかとろみのついた抹茶ラテをストローでかき混ぜながらニコが首を傾げる。
きらん、とファンタジーな音を立てて星がこぼれるような仕草だった。
この笑顔の持ち主がポケットから両手を出すことなく自分より体格の大きな男を三、四人、土の上にのしてしまうことに何の苦労もしないなんてよほど突飛な発想の持ち主でなけりゃ想像もつかないだろう。もともと体格も華奢なほうだ。その点、喧嘩の際はなめられることもあるだろうが普段は愛嬌のある一男子高校生として健全な生活を送っている。そもそも、飼い主にけしかけられなければ無益な暴力沙汰には手を出さない性質だ。
飼い主とは云わずもがな、西欧の血筋を引く、琥珀の髪色と瞳の男だ。
瞬きや眼球の動きが無ければ無生物かと思わされるような横顔はいっそ芸術的で、黙っていれば落ち着いた振る舞いが身に付いたどこかの貴族のように見えるだろう。が、その実、彼の中には凶暴な獣が眠っており、普段はおとなしく毛づくろいをしているのだがあるシチュエーションに俊敏に反応し、敵と認めたターゲットはおろか周辺さえ鋭い牙と全身のオーラで薙ぎ倒してしまう。この場合、牙というのはもちろん比喩で、ひめかわがこれまでに見ただけでもそれは校庭の隅に打ち捨てられた金属バッドであったり、工事現場に積んであった鉄パイプであったり、なぜだか民家の塀に立てかけてあった木材であったり、単に彼の拳一つであったり、膝であったり、脚や踵であったり、たまにはお茶目におもちゃの鉄砲であったり、シンプルな脅迫の場合は咥え煙草の先端の赤いともしびであったり、かと思えば有無を云わせぬ甘い猫撫で声、時として瞬きをしない瞳から放射される眼光、鍋の席ではただの箸、じゃあ喫茶店では何がどうなるんだろう? ひめかわはテーブルの上に置かれたものの何がどうなるか、ちろん、と考えてみる。
カップ。ソーサー。呼びボタン。ラミネートされたメニュー。使い捨てのおしぼり。
普通の使い方をすれば凶器になるべくもないが、信哉の手の届く範囲に並んだ時点で立派な凶器だ。
(特にストローとかっ)。
ひめかわは静かに混乱している。
何度同席しても慣れない。それに、本日の信哉は香水をつけているような良い香りを漂わせている。
「あ、あの信哉さん。シャンプー変えましたか?」。
ひめかわはそう口にして、しまった、と思う。
「何でだ」。
「良いにおいが、します」。
信哉は、ふん、と鼻を鳴らした。
ダメージを受けたひめかわは、おど、と目を伏せる。
二人の様子を見ていたニコが、によ、と笑みを浮かべた。
「ねえねえ信哉、シャンプー変えた?」。
「同じ質問をするな」。
「変えた? 良いにおいが、する」。
ニコは、よし、と頷いた。何が、よし、なのか。
それからオージの脇を肘でつつく。同じ質問をかぶせろ、と合図しているのだ。
「・・・・・・信哉さん」。
ニコに促されわけが分からないまま名前を呼んだオージに信哉は他の二人には決して向けなかった穏やかな視線を向けた。そして告白したのだ。
「ああ、シャンプーを変えたんだ。分かるか?」。
ニコが、ほらね、と嬉しそうに手を叩いた。
ひめかわは遠い目をして頷いている。
(今日もお見事な待遇差別だ・・・・・・)。
他愛も無いといえば何から何まで他愛も無い男子会の光景にその時一瞬、稲妻が走った。
ひめかわは最初それを幻覚だと思うつもりだった。
ひめかわが察知したということはニコも当然感づいたわけで、ニコが気づいているなら信哉ももちろん反応している。
ひめかわは他のテーブル席に素早く視線を巡らせる。取り立てて怪しい人物は見当たらない。まあ、いかにも怪しい人物がいればとっくに注意を向けていたんだろうが。
「・・・・・・くそっ」。
「ど、うしたんですか信哉さ・・・・・・」、ん、までは云えなかった。
ひめかわの隣で信哉が突如、卓球のサーブを打ち込むような腕の動きをした。お向かいのニコは既に体をずらしている。
「え、なになになんですか二人とも今の動きっ」。
こんなとこでいきなりエア卓球なんか始めなくてもっ。笑顔でそう云いかけたひめかわは、奥の壁に突き刺さっているフォークを見て表情を凍らせた。
(えーと。何だろう。あれ、フォークだよな)。
見ると、信哉が来る前にニコが食べ終えていたケーキ皿にのせてあったフォークが見当たらない。
ひめかわはテーブルの下を覗き込んだ。ない。テーブルの上をもう一度確認。やはり、無い。だがさっきまであったのだ。さて、と視線を奥の壁へ移す。
(ああ、あれだな)。
母の峰子が通販で購入したコラーゲンの原液とやらに似ている、とひめかわが思うほどにとろみを持った抹茶ラテを強引にストローで吸いあげていたニコが、ばちっと目を上げた。
「どしたの、信哉」。
うん、それだそれ。それを訊かなきゃ。ひめかわも顔を向ける。
無駄な肉の削げた輪郭が、これぞ黄金比率と周囲に知らしめるかのように整ってそこにある。張り詰めたような緊張感がより一層彼の姿を無生物めいて見せる。博物館や美術館に厳重に保管しておくべきものなんじゃないだろうかと思う。この、歩く黄金比率は。
「・・・・・・っけ・・・・・・んな」。
僅かにできた唇の隙間から低い声が漏れる。ニコはなんだかうずうずしている。まるで信哉が睨む先に誰がいるかおれもう分かっちゃったんだもんね、ってなことを云わんばかりに。
奥の席に、こちらに背を向けて座っていた男がゆっくりと立ち上がる。壁に突き刺さったフォークを引き抜くとそれを手に、ひめかわ達のテーブルへ歩いてきた。
ひめかわは見た。
日に焼けた男の顔が、無精髭に包まれているもののまだ若くあることを。
ひめかわは聞いた。
命知らずとしか思えない男が、信哉のことをちゃん付けで呼ぶのを。
そしてひめかわは感じ取った。
傍らの信哉が、間違いなく放電しているのを。ぴりぴりとした刺激が、風呂場でセーターを脱ごうとした時に発生する静電気のようなその刺激が、絶えず全身から放たれている。びびびび。
「・・・・・・んのやろう」。
信哉の声は怒りのためか低く震えている。今までにひめかわが目にしてきた他のどんなものへ対する嫌悪感よりも強い嫌悪感を露わにする信哉に疑問を抱くがまさかこの状態の本人に質問するわけにもいかずひめかわは途方に暮れた目をオージへ向けた。オージはひめかわの視線に気づかず、突然現われた男を見上げた視線を固定させたまま動けないでいる。
「今さら現われて何が目的だ」。
いくらか平常心を取り戻した信哉が口にする。星は白いほど熱く燃えているという。なまじっか平常心を取り戻した信哉がまさに白い星のような状態だった。炎でいうならば青い炎。静かに、ぶれることなく、燃えている。
フォークを持ってきた男はそんな信哉の様子には無頓着に、片方の口端を上げて笑った。笑った時、少し困ったような顔になるところがたまらないの。彼に付き合った女性はみな口をそろえてそこを評価するんじゃないだろうか。スイッチが乙女モードに入ったひめかわが思ってしまうほどに、憎めない表情をする男だった。もっとも、信哉に至ってはそれこそ仇に出くわしたように敵意を隠さない。
「目的って、お前ねえ」。
男は手にしたフォークをすっと持ち上げると、ショートケーキのいちごをすくいげるように信哉の顎を持ち上げた。
「おおっ」。
ふいに声を上げたのはニコだった。目の前で一触即発のやり取りが交わされている様子を、朝顔の開花の瞬間を今か今かと待ち構えるけなげな小学生のように曇りの無いまなざしで見学している。
「初めての男とン年ぶりに偶然の再会を果たして、その態度はないんじゃないか?」。
誰が、と信哉が即答する。「だ」と「れ」の間には小さな「つ」が入っている。男の発言内容の真偽がかえって分かりづらくなった。
ひめかわは何も聞かなかったことにする。というか、頭がついていかないのだ。
「おお、オージも大きくなったねえ」。
「見るな。オージが腐る」。
「だあからあ。信哉ちゃあん。そおゆう態度があ」。
男は急に声のトーンを変えた。完全に、からかわれてる。あの信哉さんがからかわれてるぞ。ひめかわは固唾をのんだ。
男が握ったフォークの先はあいかわらず信哉のおとがいにつきつけられている。
誰が容易く振り払えるフォークをいつまでも咽喉元につきつけられたままでいるか。まして信哉だ。彼が屈辱を感じながらそのままの格好でいるということは、男のほうが一枚上手ということだ。ひめかわには理解できないが、下手に動けない仕組みになっているのだろう。
「そうゆうとこが信哉ちゃん、かっわいいんだよねえ」。
どちらかが血を流すことになるのじゃないか。最悪、流血沙汰を想像していたひめかわは突然の展開に目を見張った。三十の一歩手前もしくは前半かと見える男が信哉の頭を五つか六つの坊主と間違っているのだとしか思えない遠慮の無さでがしがしと掻きまわしている。
「ああ、海外留学なんてするもんじゃなかったなあ。信哉の美少年時代を見逃してしまったってわけだ」。
「触るな。腐る」。
「って云っても、ま、今こんだけ美形だから堪能するに遅くはないけど」。
「悪いことは云わない・・・・・・ただ死ね」。
男と信哉のやり取りを見ていてひめかわは気づいたことがある。今までオージの口調は誰に似たのかと思っていた。そうか、信哉さんか。不機嫌になると最低限のことしかしゃべらなくなる。そして最終的には「死ね」に落ち着くのだ。
もっとも、オージと違って信哉は本当に相手を殺しかねない。
男はしかし、ただならぬ殺気に怖気づくこと無くタフな笑顔を保ったまま初めてひめかわに向かって自己紹介した。
「あ、おれカズサね、上に左と書いてカズサ。オージとは、えーと、何だっけ」。
「たしか・・・・・・従兄弟。ですね」。オージが答える。
「そうそう、従兄弟ね。一緒の家に暮らしてたこともあったんだ。家ってか屋敷? 屋敷ってか敷地内ね」。
おれが高校中退して海外行くまではね、とカズサは指折り数える。が、途中で面倒になったのかやめた。
「あ、ニコちゃんってこの子? 光から聞いてるよ」。
「光が?」、信哉の目が刃物のように閃く。あの反逆者めが後で八つ裂きだ、と舌打ち。
「いや、おれが無理に聞き出したってのもある。ま、それだけだな。だから光は悪くない。それよりお前ら、三人で大変だったんだろう」。
学生が引越作業について語るような軽さに信哉の眉が、ぴく、と痙攣する。眉の下の青い血管が。
「でも、宮沢を憎むなよ」。
信哉の薄い唇が、嗚咽を漏らすみたいにわななく。だがそれも一瞬のこと。瞼が下り、目は静かに細くなっていく。
「あいつらは可哀想なやつらなんだよ。一人じゃ生きてけないからあんなに団結してる。もちろん、たった三人でも生きてけない。な、可哀想だろ?」。
「で。てめえはどっちだ」。
信哉が腕組みをする。脚も組む。相手を見上げるのも嫌なようで余所見をしていたが、そんな自分に苛立ったように顔を上げる。少しずつだが確実にいつもの水準に復帰しつつあるのが向かいのニコにも見てとれた。
「おれはどっちでもない」。
カズサの答えに信哉は肩を揺らした。
「はっ、都合のいいことで」。
「そ。だから、同席していい?」。
はあ、と思わず大声で訊ね返した信哉は珍しくうろたえて座り直した。
「見ての通りここは満席だ。別のテーブルへ行け」。
「店、変えようぜ」。
「お前が仕切るな」。
「おれ、信哉が好きな場所で良いけどなあ、だって信哉がいる場所がおれの好きな場所だもん」。
「ああそいつは嬉しくて反吐が出るな」。
それから云い合いはしばらく続いたがついにカズサが言葉を切って、
「はーあ、昔はあんなに素直だったのになあ」。
火に油を注いだような反応を期待したのだろうが、信哉は俯く角度を深くしただけだった。
「・・・・・・いろいろあったんだよ、お前がいない間に、いろいろとな」。
思わず疑問をぶつけそうになり信哉は焦った。
どうして一度も助けに来てくれなかったんだよ、と。
その言葉はカズサを調子に乗せるだけだ。信哉は奥歯を噛み締めて衝動をやり過ごす。
だが次の一言で信哉の目の色が明らかに変わった。
「なあ。どうして助けてくれって連絡おれに寄越さなかったんだよ」。
突き付けられたフォークの危険性を無視して信哉が立ちあがった。カズサは傷一つつけるつもりなど最初から無く、信哉の動きに合わせて武器を元の皿に戻す。
身長差はほとんど無いが、鷹揚に構えたカズサのほうが心なしか数センチ高い。
二人はしばらく見合い、残された三人はそれぞれの表情で二人を見上げた。
ニコは顔を輝かせて。
オージは表情を曇らせて。
そしてひめかわは泣きそうに目を潤ませて。
「ちょっと、煙草」。
静かに告げた信哉がカズサの手首を握り店の外へ引きずって行くのを三人は目で追った。仕方無いなあ、と云いつつカズサは嬉しそうについていく。その時ひめかわは見た。信哉の手が、冷水の入ったポットを空いた手にひっつかむのを。
数秒後、入り口のガラス越しに無声映画が繰り広げられる。
信哉は外に出るなり手にしていたポットの蓋を開けるとさかさまに持ち、カズサの頭頂部から滝を降らせた。小春日和とはいえ風は冷たいだろう。私物じゃないことをわきまえているあたり信哉も冷静を失わないよう努めているのだろう、空のポットを地面に置くと首をゆっくり左右にひねった。カズサが何か話しかけているが気にせず手首をひねる。めげるどころかカズサは余裕綽々の表情で弁解するような仕草を見せていたが次の瞬間、脚の間を押さえてうずくまった。
「・・・・・・え、何が起こったんだ」。
「蹴り入ったね」。
事態を掴めないひめかわの呟きに答えたのは興奮気味のニコだ。
「ええっ、キック見えなかったけどっ」。
「ね、信哉すごいだろっ。さすがおれの師匠っ」。
ニコが歓声を上げる。
えー、と驚きつつニコから目を離したひめかわは再度振り返り、その光景に下顎を落とした。
妙に晴れ晴れとした表情で信哉が入ってくる。空になったポットを通りかかった従業員に手渡し、まっすぐに席へ戻ってきた。
「おお、信哉さんの歩くとこだけ赤い絨緞が見えるぞ・・・・・・」。
閉まったガラス戸の向こうでは、赤と黒の塊が横たわっている。
「あ、あの、あの」。
云い澱むひめかわに信哉が至上稀有な微笑を見せる。安心させようという心算だったかも知れないが白い滑らかな頬に謎の赤い飛沫を付着させ、琥珀の瞳孔が開いたままではかえって逆効果だった。ぴゃっ、と情けない悲鳴を上げて後ずさったひめかわと対照的にニコが身を乗り出す。ニコにとって喧嘩の強い人物ほど尊敬に値するものは無かった。横でオージは信哉をきょとんと見ている。
「・・・・・・信哉さん、血」。
オージが手を伸ばし赤い飛沫をぬぐおうとする。そうかあれ血だったのかでも誰の血かなあおかしいなあ怪我人なんてボク見テマセンケド。ひめかわはぶつぶつ念仏を唱え始める。なんとなく松橋に傍にいてほしかった。へたれ同盟の彼を召喚したい。なぜならばここはおかしい。どうやら人種が違う。ようだ。
「いい。オージが、汚れる」。
身をそらせた信哉はオージの手を下げさせ、おしぼりで何度も顔をこすった。そんなにこすったら跡が残るのじゃないかと、こちらの様子を気にかける女性客の十割は赤の他人だ。信哉はその気配に無頓着でおしぼりを擦り付け続ける。察するに彼の顔に散ったのはよほど忌まわしい液体であるらしい。
「あ、あの、きゅ、きゅ、救急車とか呼ばなくていいんですかっ」。
思い切って声を振り絞ったひめかわを信哉の視線が射抜く。再び、ぴゃっ、と咽喉を鳴らして非常事態に身の安全を確保する定番としてテーブルの下にさっと潜り込みたくなるのをこらえ、だってだってカズサさんが、と震える声で続けた。
真顔を保った信哉は一分近い沈黙の後でようやくひめかわの訴えの内容を理解したように大きく一度頷くと、
「分かった。モンブランだな」。
ひめかわのためにこの店の一押しデザートを注文してくれた。
「あ、ありがとうございますっ。ちょうどモンブラン食べたいなあって思っ・・・・・・てんじゃないです、信哉さんそうじゃなくてっ」。
だがそれ以降ひめかわのどんな発言も黙殺されるようになった。
自分以外の三人が、まるで何事も無かったかのように食事を再開することにひめかわは多大な違和感を感じつつ、やがて飲まれていった。
帰途、ひめかわはオージにカズサという人物について訊ねた。オージはただ「信哉さんはすげえ嫌ってる」と答えた。そんなの誰にでも分かるよ、とひめかわは云って、他にも質問したいことがあったはずだがオージの横顔を見ていたらキレイさっぱり忘れてしまった。家に帰る頃には春に収穫予定の農作物の話をしていた。
数日後ひめかわは、光に会う機会がありこの日の出来事を話して聞かせてみた。光は最初のうちこそくすくす程度だったが信哉がおしぼりで顔を拭き続ける段階に差し掛かったところではすでに腹を抱えていた。
「そか、ひめ、おもしろいもの見れたなあ」。
「いいえ。怖いものです」。
「カズサはねえ、昔から信哉のこと好きだからなあ」。
「信哉さんは嫌悪しているようでしたよ」。
「あいつも所詮は宮沢側とみなしてるからだろうな。実際は陰で手助けしてくれるんだけどね、あの人が」。
「どういう意味ですか」。
「おれ達の家出を、最後まで反対してくれていた人がいるってこと。信哉は断固として認めてないけどな」。
家出って、とひめかわは首を傾げた。
ひめかわが分かっていないのを見てとっても光は何も云わず、教えようともしなかった。
「おれ達って親戚多かったからさ、初恋は大抵親族内で済ませてると思うよ」。
「ええっ。それって・・・・・・」。
「幼い初恋だってば」。
じゃあオージの初恋も親戚の誰かなのかな、と予想するひめかわの隣で、光の頭にはある光景がよみがえっていた。
信哉と光、そして双子が一緒に遊んでいた頃。幼女にして女王の威厳を備えた(要はとてもわがままで頑固だった)小町の提案により四人は庭でままごとをして遊んでいた。役どころは、信哉が小町の妻、光が信哉の不倫相手の男で、逢引しているところに小町が出くわして二人を問い詰めるというようなものだった。大路は小町の家に飼われた猫だった。言い逃れしようとする信哉(妻)に小町(夫)が証拠を突きつける。動揺する信哉に光(不倫相手の男)が助け舟を出すが小町にウソを見抜かれ泥沼にハマっていく、というような内容だ。小町が金切り声を上げて二人を問い詰める間、大路はごろごろ鳴いていた。
罰としておまえらは埋まれ!
小町の命令で信哉と光は地面に穴を掘り始めた。子供が一人横たわるスペースを掘るだけでも、子供が掘るのなら時間がかかった。それでも小町は飽きなかった。穴を掘る二人の横で大路はちょうちょと戯れていた。
ちゃんとにゃーにゃーしていなさい! と云われたのはついさっきだ。
ようやく穴が完成した時は日が暮れていた。信哉と光は自分達の堀った穴に首から先だけ出して埋もれるよう命じられ、その通りにした。信哉の体に光が砂をかけ、光の砂は小町と大路が固めた。
おれはしばらく実家に帰るからおまえたちはしっかり反省しとくんだぞ!
無茶設定にもほどがある。
が、小町は猫の大路を連れて行ってしまった。大路は二人のことを心配そうに振り返り振り返り、引きずられるようにして去った。
埋まっちまったな。
一番星が見え出した頃、光が云う。春の日だったとはいえ夜風はまだ肌寒い季節だった。あたたかかった砂も次第に冷たく重く感じられてくる。そして何より、手も足も出せない状況に先に不安を露わにしたのは信哉のほうだった。
どうしよう。こんどはオージもたすけてくれないぜ。ダンナにつれてかれちゃったもん。
光にも自分と同じ恐怖を伝染させるつもりで信哉は云ったが少なくとも目に見える効果は無かった。だがその時目を合わせていたなら信哉にも分かっただろう。光が軽口をたたくことをやめないのは、すでに同じ恐怖を感じているからなのだと。表現の仕方が異なっているだけだ。
二つの小さな顔が地面からにょきりと浮いていた。空腹を訴えようとした信哉に尿意が迫っていることを訴えたのは光だ。
いよいよ辛抱の限界が来た頃、砂に埋まった二人をよみがえらせてくれたのが、学生服の上左だった。上左は最初、ぎゃっと悲鳴を上げて肩に担いでいた部活のボストンバックをどさりと落とした上に尻もちをついた。無理も無い。地面に子供の顔が二つ並んでいれば、そしてそれが夜の暗がりにぼうっと浮かんでいれば。
なにやってんだおまえらかよおどかすなよ。
ぼくたちはんせいしてるんだ。
はんせいって。
ふりんのはんせい。
はあ? ふりん?
おまえこそなにやってんだ。
おい、しんや、おまえってなあ、おれはおとといからちゅうがくせいなんだからな。
ふうん、だから。おとといまでしょうがくせいだったんだろ。
あんまりかわいくないとふむぞ。
踏むぞ、と云いながら上左の手はすでに光の体を発掘していた。続いて信哉を引っ張り出す。
体に付いた土を払いながら改めて上左の姿を見る。有名私立中学の学生服は確かに上左を少し大人に見せていた。助けられた直後だったから二人にはそう見えたのかも知れない。
おまえらはいつもたのしそうだなあ。
かず兄にはそうみえるわけ。
みえるよ。うらやましい。
羨ましい、と云った上左の顔を光は前にも見たことがあると思った。何度も。
いつも四人だけで遊んでいたからな、と思う。他の子供を仲間に入れることはなかった。
そして、上左が信哉を見る目には、信哉が小町を見る時にたまにあらわれる、ほのかな熱のような輝きがあった。だがそれは一瞬の錯覚で、三日月が落とす淡い月光のせいかも知れない、他から見れば自分の瞳にも同じような光があるのかも知れない。
そう思った。
「光さん」。
ひめかわに呼びかけられて光は我にかえった。
「ぼうっとしてましたね、今」。
「うん、ひめに見とれてた」。
「またまたあ。どうせ好きな子のことでしょ。あ、電車来たんで乗っちゃいますね」。
「ああ。オージによろしく。おれはもちょっとぶらぶらするから」。
ばいばい、と手を振ったひめかわの笑顔は正しい。生きてると色々なことが、ひねくれてしまいたくなるような、やさぐれてしまいたくなるような色々なことが予告無しに起こるから、正しい笑顔は必要だ。光は思う。そういう人物を知り合いに持ち、落ち込みそうなことに出会うたび、ポラリスみたいに思い出せたら。勝手にポラリス。それはなんて幸せなことだろう。人懐こい犬に感じるのと同じような親しみをひめかわに抱きながら光も手を振り返す。彼の乗った電車がホームを出て薄闇に点と消えた頃、好きな子のこと、と光は苦笑いして踵を返した。断じて誤解だ、と云える根拠は体のどこにもありはしないと分かっていた。
つづく?