2/14 記念小話
「何やってんだよ」。
背後で舌打ちが聞こえた。
両隣の列が順調に進み、自分の後ろの人間の苛立ちが増していくのが気配で分かる。
「何やってんだよ」。
二度目は幻聴だったかも知れない。平日の朝。券売機が混むとは予想していなかった。
深呼吸をして再び料金表を見上げると、投入した硬貨が不足していることが分かった。慌てて財布をひらいた時、列を走って横切る会社員の肩が当たった。音を立てて小銭が散らばる。
呆れたような溜息が上から降ってきて、震えがとまらなくなった。
指先が冷える。鼓動が、乱れる。
人の流れが、その速度が虫の群れのように押し迫ってくる。
急がなければと思うがのぼせたようにくらんでしまい立ち上がることもできない。
やっぱり、だめ。
だめだったんだ。
切符を買うだけなのに。
まだ何も回復していなかった。
心配されたとおりだ。
(信哉さん!)。
両耳をふさぐように頭を抱えてオージはうずくまった。
こめかみに触れた手のひらに汗がにじんでいる。
苛立った男が何か云う。幻聴じゃない。何か云って、オージを越した。
いっそありがたいと思った。
おかげで列が進み始める。
後でもう一度、やり直そう。
オージは自分を奮い立たせるように頷くと、床に散らばった硬貨を一枚ずつ集めた。
拾わずに立ち去ることもできた。帽子を深くかぶっていたものの、周囲の視線を痛いほど感じた。立ち去りたいと思った。逃げたい。見られたくない。見られてはいけない。
だけどそれをしなかったのは、これくらいで逃げていては意味がないから。絶対大丈夫だからと兄を押し切った意味が。一人で、出てきた意味が。
なんとかしてすべての硬貨を拾い集めたオージはもう一度、列の後ろに並んだ。落ち着いて料金表を眺める。前方の人間がどのようにして乗車券を買うのかを見てイメージトレーニングする。反芻する。できる、と云い聞かせる。
やがて再び順番が回ってきた。
並んでいる間、手の中に準備していた硬貨を投入口に入れる。
おとな、ひとり。
いちまい。
うん、と小さく頷き、一つ一つの動作をクリアしていく。
順調にいっているつもりだった。スムーズなはずだった。それでも、オージの動作は周りに比べると緩やかだった。
その時、まるで自然に、隣から声をかけられた。
「どこ行きたい?」
顔を向けると、高校の制服が目に入った。これってたしか西高のだ、とオージは思う。視線を上げると、なれなれしい声をかけてきた男は横顔を向けていた。茶色い髪は生まれつきなのか染めたものなのか今はまだ知らない。常に微笑んでいるような目がもう一度オージを向いた時、髪と同じ色合いで、ああもともとなんだ、と分かった。
「あ、えっと」。
オージは行き先を告げる。用を済ませて列から抜けた男は、すすいっ、とオージの横に立つと、これだよ、と一つのボタンを指した。オージは何の疑いも無く押す。待っていると求めていた乗車券が出てきた。
「あ・・・・・・」、ありがとう、と云うつもりだったが声が出なかった。
初めて、と男が訊ねてくる。何のことだろう、と思って黙っていると疑問を察したのか、切符買うの、と補足される。
もしかしなくとも子供だと思われている。
オージは「ちがう」と否定しかけ、やめた。切符を買うのは初めてじゃない。もちろん何度か経験はある。だけど、だめなんだ。一度すべて忘れてしまったみたいに、やり方が分からなくなることがある。担当医も、兄達も、時間をかけて平気になっていこう、と優しい。彼らの前でオージは頷く。そう、元に戻っていかなくてはならない。だけど、一つ異論がある。時間は、かけない。オージはひそかにそう決めている。そうすることで、逃げたかった。忘れたかった。何も無かったみたいに、元に戻りたかった。多少、無理をしてでも。間違いでも。頷きが嘘になっても。
「・・・・・・うん。はじめて」。
短い言葉なら、わりと平気だ。
オージが頷くと、男は「そっか」と納得したように頷いた。その顔は笑っていたが、決して誰かをばかにしたり、嘲るような類ではなかった。雑踏から誰かが、おそらく友人だろう、が彼に呼びかけた。
「まつばせ、おはよー! ・・・・・・あっちに友達いた。じゃ、またね」。
男は走って行った。友人と出会い、ふざけたように肩を組みながら歩いていく背中を見送りながら、オージは呟いた。
「また・・・・・・って、あるのかな」。
(ねえ、信哉さん)。
オージは心の中でその名前をときどき呪文のように呼ぶ。
一日の報告をノートに書き留める子供みたいに。
(いま、うれしいよ)。
忘れていたことを思い出すように、ではなくて、知らなかったものに初めて出会った、子供みたいに。
キッチンでチョコレートを湯煎にかけていると、玄関から「ただいま」と声がして、北高に通う兄の光が甘いにおいにつられてやってきた。
「おおっ、オージがクッキングタイムだ。何やってんの」。
「溶かす」。
「うん。チョコレート溶かしてるね。そんで、どうすんの」。
「入れる」。
オージは鍋の隣に並べて待機させてあるカップを指した。
「ほうほう」。
光はにまにまとオージの手元を覗き込んだ。
「それは、明日のためかな?」。
フードをかぶった頭はしばらく微動だにしなかったが、ようやく質問が耳に届いたように、こくん、と頷く。その反応を見た瞬間、光は満面の笑みを浮かべる。学校では優秀な生徒会長。全校集会の壇上で、廊下で、教室で、通学路で、常に保っている、落ち着いた模範生としての笑みとは種類の異なる、素直な表情だ。笑おうと思って浮かべた笑顔でなく、どうしようもなくこぼれてしまう笑みというものは、なんだかだらしない。
「そっか。ありがとな、オージ、おれのために・・・・・・」。
光は長身をかがめてオージの体に腕を回す。顎の下に、びくっとした反応を感じるが離さない。
「光さんの、ため、じゃないです」。
「もう、ごめんってば。今日に限って生徒会終わるの早くって帰ってきちゃったもんだから。明日になって、驚かせたかったんだよな?」。
「いえ、そうじゃ、なくて」。
「はいはい。分かってるよ、オージ」。
「・・・・・・」。
いいや、放置しよう。
オージはチョコレートがすっかりとろとろになったのを確認すると鍋を傾け、型に流し込んでいく。慎重になるところだったが光がコアラのようにくっついて離れない。続行した。
「・・・・・・光さん」。
「うん?」。
「あの、いつも、ありがとうございます」。
「・・・・・・オージっ」。
光が目を潤ませる。
オージは鍋を下ろして、息を吐いた。
「正直に云うと、光さんのぶんは、ほんとうに、無いんです。忘れていました。ごめんなさい」。
「じゃ、これぜんぶ信哉に?」。
光の瞳に剣呑な色が広がる。彼は、異父兄弟として、ほぼ同い年の同じ境遇の片割として、オージのことを慕い護り愛する家族の一員として、良くも悪くも信哉をひどく意識する。敵対であったり、共感であったり。二人はよく似た、鏡に映った一人の人間のような共通点があるからこそ、それでも二人であるとき、どうしようもなく別人で、かと云って離れ離れにもなれず、たがいに目が離せない存在となっている。
「いいえ。これは、けじめのチョコレート」。
「けじめ?」。
「あの時、お礼を、云わないといけなかった」。
「うん?」。
「云えなかった」。
「うーん?」。
「気が済まないから、けじめをつけるんです」。
「なあ。それ、危ない話じゃないよな?」。
オージに回された光の腕に力がこもる。心配してくれているのだろう。
「何か困ったことがあるなら云えよ? おれ達が、必ず何とかしてやる。遠慮すんな」。
あまりに真剣な声にオージは少し、笑いそうになる。光にしろ信哉にしろ、何とかすると云ったら本当に何とかしてくれてしまう。甘えないように気をつけないと、と肝に銘じている。二人の兄はいつだって、特に三人暮らしを始めてからというもの、甘いチョコレートにグラニュー糖をまぶしたみたいに甘いし、その上からさらにカスタードリームをのせたように心配性なのだ、こと弟のオージに対して。いや、もっぱら弟のオージに対してのみは。
それに、いつもは信哉のことを極端にライバル視する光が、自分のことに関してはいやいやながらも手を組んで一時的に休戦してくれることも、オージは知っている。
そういった意味では、たまには心配をかけたほうがいいのかも。
とさえ、思ってみたりなんかした。
「ううん、ちっとも、あぶなくないです」。
オージはそう云って、肩に埋められた光の髪を撫でてやった。大きな犬のようだ。学校での光を知る人々が見たら、何と思うだろう。数ある委員を取り締まり、行事に付随する諸事をそつなくこなし、壇上では演説をそらんじ、人望も厚い彼が、家では弟にへらへら抱きつき、一匹の犬となり果てることなど、想像しようとしてもできるものではない。
「そか。なら、いいんだけどな」。
オージは光の返事を確かなものにするために頷いた。
「はい。だいじょうぶですから何も心配しな・・・・・・あれ、光さん?」。
つい今しがたまで体にまとわりついていた光の気配が消えている。忽然と。まるで幽霊だったみたいに。
オージはかぶっていたフードを脱ぐと、背後に目をやり、事情を察した。
「おかえりなさい、信哉さん」。
東高の制服姿で立っていたのは、もう一人の兄、信哉だ。具合によって金に近しい琥珀の髪と同色の瞳は物憂げに細められ、引き剥がし投げ飛ばした光のほうへ向けられていたが、オージに呼びかけられた途端、ころりと、瞬時に殺気を濯ぎ落し、聖母のように神々しい微笑を浮かべる。
「ああ、ただいま、オージ。・・・・・・帰るのが少し、遅かったりしたんだろうか」。
信哉は、ちら、と光に目を向ける。
「信哉、てめえ・・・・・・!」。
どこをどう攻撃されたのか、光がふらふらと立ち上がり、腹の底から低い声を出して威嚇するものの、信哉の注意はすでにオージの作るチョコレートのほうへと吸い寄せられていた。
「珍しいな。オージがキッチンに立つとは。・・・・・・で、これは?」。
基本的に表情の乏しい信哉の目に、微かにだが確かな期待の色が兆したのを光は見て取り、にんまりとした。
「はい、ざーんねん。しんやくーん。それはおれたちへのチョコレートではありませんでしたー」。
「・・・・・・うちどころが悪かったか」。
信哉が光を振り返り、げんなりした顔でうんざりしたような言葉を漏らした。
「信哉さんには、べつに、用意してありますから」。
秘密にしておくつもりだったが今ここで戦闘を開始されても困る。オージは「光さんにも」と付け足した。さっきは、からかって、すいません。オージが謝ると何故か信哉が光の頭を叩いた。「オージに謝らせてんじゃねえ、この馬鹿が」。「・・・・・・むちゃくちゃだろ」。光は髪をかき混ぜる。
その日の夕食は信哉が当番だった。
食卓につくと三人は一日の出来事を報告し合う。信哉と光が時折、小さな口論を勃発させているのは通常の証で、その他は同じところで笑ったりもした。オージは主に頷いて聞いているが、病院で受けた診察についてはしっかりと伝えた。その時ばかりは信哉と光は口を挟まず真剣な面持ちで耳を傾けている。明日は学校に行きます、とオージが宣言する。信哉と光は弟の手作りチョコレートの宛先を内心ひどく気にかけつつ、物分かりの良い兄を演じて「ああ」と外面上は穏やかに微笑んだ。本来の姿を潜ませて、己の意図するふうに完璧に振る舞えるものが俳優であるとするならば、信哉と光の両名は紛れも無く真の俳優だった。
どんな幸福な、誰にやるんだ?
訊きたいことは訊かない。物分かりの良い兄であるため。
信哉と光はひそかに、同じ思いを抱えた者同士、労わりをねぎらうような視線を秘密に交わす。この時ばかりはがっちりと連帯している。
そんな彼らの内情にオージが気づくことはなかった。
一度溶かされたとろとろの甘い液体は今、冷凍庫の中で来るべき明日の日に向けて少しずつすこしずつかたまっている。
まもなく2番ホームから電車が出ます。
駅構内にアナウンスが流れた途端、前を歩く男の歩調が速くなった。
見失わないよう、オージも慌てて後を追う。
行き違いに人の波に押し戻されそうになるが、前へ進まないわけにいかない。
誰かと肩がぶつかる。
舌打ちされる。
そして悪態。
気にしない。
気にするもんか。
今だけは。
背中へ手を伸ばす。
届かない。
オージはふと、自分は何でこんなに必死なんだろう、と思う。
相手は絶対に忘れてる。
忘れたっていい程度のこと。
だけど、あの日、助けてくれた。
誰が忘れても、助けた本人さえ忘れていても、おれが覚えてる。
だから、けじめなんだ。
そうか、だから、けじめなんだ。
「おい、あんた」。
捕まえようとして掴んでおきながらオージはぎょっとした。まさか、という気もした。夢から覚めたようだった。自分はここで何をしているのか? と、ふと我に帰ったような。だが、握ってしまったものは仕方無い。声をかけてしまったものは仕方無い。後に引けない。引いちゃ、いけない。
男はびっくりしたように振り返る。
ああ、おんなじだ。
本当だった。
うそじゃなかった。
またね、って云ったから、あんたが云ったから。
「な、んだよ」。
おれは、もいちど、会いに来たんだよ。
「ああっ、オージだあっ!」。
怪訝そうに振り返った男が次の瞬間、飼い主の帰りを待ちわびた犬が飼い主の姿を見つけたみたいにはしゃいで、はしゃいで、はしゃぐものだから、オージは一瞬、呆けた。人違いをしているんじゃなかろうか。だが、オージという名は自分のものだ。とすると、やっぱり自分だ。
わけが、分からない。
が、気を取り直し。
「ほら、これ」。
紙袋を突き出す。
「なにこれ」。
男はようやく落ち着いて目を丸くする。
「だから、あんたに。チョコだよ」。
オージは早口で捲し立てるが、男はぽかんとしている。その目が勢いよく突き出されて揺れる紙袋と、オージの顔の上とを行き来する。じりじりと後退したい気持ちを押さえオージは、走ってきてズレていためがねの縁をせわしなく調整した。レンズの厚いめがね。学校ではフードをかぶりっぱなしでいることはできない。その代替としてオージが必ず身につけるものだ。これが無くては、学校へは行けない。外出ができない。
「これ、あんたにだろ。さっきすれ違った女子高生がおれのかばんに突っ込んできた。ちょうどあんたが前歩いてたから、あんたと間違ったんだと思、って・・・・・・」
オージは用意しておいたいいわけを並べ立てた。
けじめ。
どこが、けじめなんだか。
いいわけを準備して、とにかくチョコレートを渡しさえすれば、恩が返せたことになるなんて。
「って、ちょっと、おいっ」。
みじめな気分に浸っていて、身の上に何が起きたのかすぐには分からなかった。
オージはかかとが浮くほどの強さで抱きしめられていたのだ。
「おれ、ひめかわ。ひめかわかずまっていうの。ひめって呼んでな」。
いきなり自己紹介される。
突然の展開に頭がついていかず、オージは必死でもがく。人と接するのは苦手だ。怖い。触られて平気なのは、信哉さんと光さんくらいだ。それなのに、こいつは。この、男、ひめかわは。オージは力の限り逃げようとするのだが、どうしてなかなか手ごわい相手で、その腕から抜け出すことができない。ふざけ合っているように見えるのか、通行人の間からは時折笑い声が聞こえた。
ひそやかな白昼夢は時としてカラフルなクラッカーのように弾ける。
強引な誤解から始まる物語の扉はとっくにふたりを飲み込んでいた。
「あのさ、ドア閉まったけど・・・・・・」。
オージが指摘するとひめかわは「いいよ、もう遅刻で」と気にしない。
「パニック状態だもん、おれ」。
そんなもんじゃないけどな、とオージはどこか冷めた意見を思いながら、浮いたかかとが地につくまでおとなしくしていることに決めた。今だけは。
110214
なつかしい初心へ戻る。チョコパも2年目。