駅。
右耳にだけイヤフォンを突っ込んだひめかわは、乗り換えのため連絡橋を渡ろうとしていた。
前から歩いてくる女子高生の顔が心なしか紅潮して見える。
いつもすれ違っているのに家族よりも顔を合わせているのに他人みたいだ。他人だが。
ぶつかり合うことなく交差する波。勝手知ったる有機物の群れ。
さて今日は2月14日。
chocolate panic
(2月14日、か)。
女子高生の、いつもより短いスカートから伸びた輝く太股を見ながらなんとなくひめかわは思った。
ピッチピチだ。
しかし彼の転機はすでに逃されていた。
学校へ行けばチョコレートのひとつやふたつ、と云わず10や20は例年通りもらえるだろうがそのことは彼を慰めないだろう。
(うう。オージから欲しい。けど、ぜったいむりだ)。
ひめかわの瞼の裏には電車に揺られるひとりの少年の、一見「こいつまだ中学生くらいか?」と疑ってしまうような、眠そうな表情が浮かんでは光にさえぎられ、現実に引き戻される。
オージは男。
おれも男。
できないことはきっと何もないけど思いを伝えるわけにはいかないんだ。
諦めるよう自分に云い聞かせながらひめかわはゆっくりと階段を下りる。
考えることをやめればいい。対処法ははっきりとしている。ただそれができない。できないというだけのことだ。
諦めると決意したところで翌朝にはまた電車の中で見かける。
諦めた。いや、諦められない。
その繰り返しがかえって自分を苦しめているのではないかとひめかわはうんざりする。
自分の乗るべき電車がすし詰めの状態で待機しており、それを見てまたもやうんざりとする。
おれの30分。
貴重で幸福な天国の30分は乗り換え前の電車内にしか存在しないのだ。
(オージ。って……本名、なのかな?)。
初めて見た時は野暮ったさしか感じなかった。黒い髪。ぼさぼさで。ウケ狙いかよとつっこみを入れたくなるような黒縁のめがね。その大きさばかりがやたら目に付いた。
(家ん中で本ばっか読んでそ)。
第一印象はこうだ。
(なんか汚い)。
これが、第二印象。
(だいたいめがねのサイズ合ってねえし。ピントも合ってねえんじゃねえかな)。
第三印象。
(……観察しても、つまんね)。
結論です。どーん。
オージはひめかわの乗る次の駅から乗ってくる。
時刻は7時10分。それから40分かけて電車は中央駅へ行く。
その間、窓の外を流れていく風景は畑、畑、かかし、畑、かかし、畑。
このへんから乗ってくってことは、オージの家も農家やってんのかな。
なんとなく勝手に設定した。
こうもオージオージと呼んでいるがひめかわが「オージ」という名前、らしきものを知ったのはつい一か月ほど前のことだ。
雨だった。
ひめかわはオージの乗ってくる駅に停車中の車内にて側頭部を手すりにもたせかけ右耳のイヤフォンから流れてくるロックに体を揺らしながら「早くドア閉めて。寒い」と思っていた。
(どうせ、あいつ待ちだろ)。
小さな駅のことだから、車掌も乗客をひとりひとり覚えている。
いつもなら改札口を出てすぐ横の赤いベンチに腰掛けて電車を待っている彼がまだ来ていないからだ。
携帯電話で時刻を確認すると出発時刻を3分経過していた。
(早く来いよ、めがね)。
ひめかわは目を瞑ったまま心の中で悪態を吐いた。
その時、電車のドアが閉まる音がした。
(やっと来やがったか。遅刻だぞこのやろう。どの面下げて来た、睨んでやるぞこのやろう)。
そう思い顔を上げたひめかわは呆然とした。
走り出した電車が線路のつなぎ目で揺れても胸の動悸はなかなか静まらなかった。
イヤフォンから流れ込んできているはずのロックがまったく聞こえない。
「あ。すきかも」
ひめかわがやっと搾り出せたことばがこれだ。
さっき駆け込んできたのはつやつやの黒髪をした裸眼の学生だった。
(こんなにキレイだったんだ)。
ひめかわの耳にはさっき誰かが彼を呼んでいた声が、そう、「オージ」という声がこびりついてはなれなかった。
そうか。
オージって、いうんだ。
……ん、王子?
「なに見てんだよ」
走ってきたため頬の赤いオージに睨まれる。
めがねの縁に隠れて分からなかったがもともと大きな目をしていたのだ。睨みにはそれなりの迫力がある。
「ご、ごめんなさい」
反射的に謝ったひめかわだがやはり気にしないではいられなかった。
オージが座席に座ってかばんから何か取り出し、髪に塗りつけていく。ヘアワックスだ。全体をかきまわし最後に前髪をひっぱって目元にかぶさるようにした。それからふたたびかばんの中に手をいれ、例のめがねを取り出しさっと顔に掛ける。
ひめかわの知っているいつものオージが完成する。
それが日常だった。
それでいつもどおりだった。問題ない。
(いや、問題だらけだっ)。
ひめかわは二つの意味で頭を抱えた。
ひとつはオージが冴えないのは本人によってわざわざ作られたキャラであったこと。なぜそんなことをしているのか?
もうひとつはひめかわの体がいつまでもどくんどくんとしていたこと。その感覚につける名前を自分がもう知っていたこと。
この日以来、ひめかわのオージを見る目はそれまでとはまったく別のものになった。
髪の毛に隠れた輪郭もめがねをはずした時の素顔も知ってしまったから。
アンニュイな青春と無縁の恋は若竹のように成長する。
三日後、ひめかわは当時付き合っていた彼女と別れた。
彼にとってオージの素顔はそれくらい衝撃だった。
まもなく2番ホームから電車が出ます。
それを聞いたひめかわは歩調を速めた。
これを逃したら次は10分後だ。たかが10分、されど10分。10分が命取りになる。
「おい、あんた」
乗り込もうとしたひめかわの腕が後ろから強い力によって引き戻された。
振り払おうとして振り返り、ひめかわは思わず声を上げた、「ああっ、オージだあっ!」。
ぼさぼさ頭の相手はめがねの奥で一瞬ぽかんとしていたが肝心の用件を思い出したようにふたたびきつい目をして、
「ほら、これ」
ひめかわの前にぶっきらぼうに差し出されたのはピンクの紙袋だ。
「……て、なに?これ」
「だから、あんたに。チョコだよ」
ひめかわの頭の中でさまざまな単語がめまぐるしく回る。
(おれは何を聞き間違えた? 今、「チョコだよ」って聞こえたぞ)。
「これ、あんたにだろ。さっきすれ違った女子高生がおれのかばんに突っ込んできた。ちょうどあんたが前歩いてたから、あんたと間違ったんだと思、って……って、ちょっと、おいっ」
ひめかわの耳にはもはやオージの声は届いていなかった。
「ありがとう。おれ、ひめかわ。姫川一馬っていうの。ひめって呼んでな」
「はあ、何云ってんだおまえ頭やられちまってるわけ?」
「ちっちゃい。ほっそい。くちわるい。かわいい。いいにおいがする。うん、受け止めた。うんうん、受け止めたよ」
「あんたまじで何云ってんの? 酔ってんの? も、だめだっ、ちょっ、離せってばおい!」
状況が分からないままオージはじたばたともがく。
腕力はそこそこあるのだが体格差の不利でなかなか脱出することができなかった。
ひそやかな白昼夢は時としてカラフルなクラッカーのように弾ける。
強引な誤解から始まる物語の扉はとっくにふたりを飲み込んでいた。
「だめ。逃げられないよ」
「は、もしかしてやばい系? ちょ、誰かっ。か、顔なめんな! うわああっ」
叫ぶオージの背後で扉が閉まる音がした。
走り行く電車はそれぞれのこれまでの日常をのせて行ってしまいもう二度と戻ってくることはなかった。
090220
なんかの出会い編。みたいな。