夜。
ひめかわとまこっちゃんは広いリビングの床になんとなく並んで正座しながら秒針の音を聞いていた。
だんだんとそれが秒針の音なのか自分の心臓が脈打っている音なのか分からなくなりながら。
どちらとも口を開かない。
思い切って顔を上げたひめかわは、隣のまこっちゃんが案外と澄ました顔で前を向いているのを確認して、おや、となった。
「もしかしてまこっちゃん、こういうの怖くない系?」
その質問にまこっちゃんは前を向いたまま小さく頷き、
「ん。だって殺されるわけじゃないし」
情けない顔をしているひめかわを横目で見て、割といつもどおりに笑った。
そっか、とその時は安心しつつひめかわはやはり不安な気持ちを抑えることができない。
気晴らしに自分達のいる室内をぐるりと見渡してみる。
高校生が一人で暮らすには広過ぎる部屋だった。
白い壁。
観葉植物。
汚れの無いソファと、硝子のテーブル。
英字雑誌が数冊載っている。
ベランダに洗濯物はない。
(あ、そっか。もしかして、)。
ひめかわは違和感の原因に気づいた。
(モデルハウスのような家だからか)。
つまり、生活感のまったくと云っていいほどない部屋だった。


ア ン ド ・ ア ン ・ ア ッ プ ル




「なんで正座してるんだよ、おまえら」
リビングに一歩足を踏み入れたところでふと立ち止まった響信哉は、自主的にかしこまっている西高生ふたりを怪訝そうに見るとソファへ座るよう促した。
店員に万引きを見つかった子どものようにふたりはソファへと移動する。
ひめかわはちょっとだけ顔を上げ、信哉と目が合うとあたふたと俯いた。
しばらくの沈黙の後、信哉がテーブルの上に何かを置く。
「没収品、返すよ」
それは、幽霊同好会会長であるまこっちゃんのデジカメだった。
廃墟探検には必ず持参するその愛機には名前さえある。
「悪いけど、中に入ってるデータは全部消去しておいたから。念のため」
言葉と裏腹にその口調は当然のことをしたまでだと云わんばかりだ。
「……は、はいいいっ」
まこっちゃんが返事をしないのでひめかわが慌てて代弁した。
テーブルの上を見ると、硝子に信哉の顔が映っていた。ちょうど下から仰ぐような角度だ。その目が自分たちをじっと見ている。ひめかわは背筋が冷たくなっていくのを感じた。シャツの下、背骨の上をひんやりと汗が流れていく。
響信哉。
色素が薄いせいで印象は涼しげだが、その顔立ちは日本人離れして彫りが深い。
そのせいか、黙っていても深刻そうに見える。
このひと、どういう時に笑うのかな。
それくらい余計なことを考えていなければ気が遠くなるくらい、ひめかわは緊張していた。
と同時に、オージのことが心配だった。

そもそも、ひめかわとまこっちゃんが今いるこの部屋は、目の前の東高生・響信哉の住居だ。彼は現在、親元を離れて一人暮らしをしている。
そんな彼の部屋に来ることになった経緯とは……。
今日の午後、廃墟探検に行った先の屋敷の入り口付近でオージが突然倒れた。手を握ると冷たく、背中をさすると息を切らしていることが分かった。まこっちゃんの判断でひめかわがオージの携帯電話から信哉への携帯電話へと連絡をしたところ、ものの十数分で現場にセダンが横付けされた。運転席を降りてきた信哉は精鋭の救助隊員のように無駄の無い動きでオージに駆け寄りその体をひょいと抱え上げ後部座席へ横たえた。その間、ひめかわとまこっちゃん、信哉との間にやりとりは一切無しだ。とても何か云える雰囲気ではなかった。所在無くひめかわはおそるおそる信哉の肩越しに様子を伺った。オージの制服の前をくつろげた信哉は小さなトランクから取り出した薬を口に含ませた。オージの顔色が明らかにおかしい。大変なのはオージのほうなのに、ひめかわは自分が泣きたい気持ちになった。ふにゃふにゃと「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返すひめかわをギロリと鋭い目で振り返った信哉に「乗れ」と簡潔に命令形で告げられるまま、ひめかわとまこっちゃんは、高校生の持ち物とは思えないセダンの後部座席と助手席に分かれて同乗し、二十分ほどでこの高層マンションの入り口に到着したというわけだ。
で、今に至る。
なお、高校生の信哉がどういうわけか車の操作に長けているということには言及しないこととするから、あしからず。

「あのっ、オージは……だ、だいじょぶ、ですか」
思い切って質問してみたひめかわは信哉の冷たい目に見下ろされ悲鳴を上げたくなった。
他人の冷たい目。
ひめかわが、世界で怖いと感じるものの一つだ。
笑っていても、喋っていても、人はふと真顔に戻り、それまでの感情表現が偽りであるかのように何も無い冷たい目をする。それを知ってしまうくらいなら見なければいいのに、ひめかわはそれを見てしまう。見つけてしまう。子どもが複数いてもその中で必ず一番星を見つける子どもが決まってくるように。体育の授業でペアを作るよう先生から指示され、毎回余ってしまう生徒のように。
些細な法則。微細の方程式。
その点でひめかわは、他人の冷たい目に気づきやすかった。
理屈ではなく、そういう性質を持っていた。
冷たい目。
第三者や、よもすると当の本人にさえ明白でない複雑な思考回路や、彼彼女の生い立ち、一層でない起伏や計らいやその他もろもろ人が人であるゆえんであるところの多角的な構造性が、そうさせるのだろう。誰にも。誰にでも。そしてそれは時として、ほとんどの場合、本人の意識とは関係なく無意識に顕著化する。
だから、まだマシだ、とも思う。
露骨な方が。
そういうふうに感じさせてやろうと思って造られた行為の一つとしての、冷たい目のほうが。まだ意味があって、意味が分かって、意味が無くはなくて、安心するから。
だからひめかわは、目をそらさずにいられた。
信哉の薄い色をした瞳を、まっすぐに見上げることができた。
「……薬が効いて、寝てるさ」
簡単な質疑応答の間に何度も心臓を破壊されそうになりながらひめかわは頑張った。
その頑張りを評価してか、まこっちゃんが後を継ぐ。
「あの、おれ達のせいですか?」
ぎゃあっ、とひめかわは心の中で叫んだ。
(なに核心に迫っちゃってんのまこっちゃん!)。
だけどそれはひめかわにできない質問だった。
それでいて、いつかは訊ねなくてはならないことだった。
「まあ、今回の件について、結論から云えば、そうだね」
背を向けた信哉はキッチンからリンゴとナイフを手に戻ってくるとテーブルの前に立ったまま剥き始めた。
ふたりの目の前に赤い皮がするすると蛇のように下りてくる。
蜜の詰まった黄色い球体はしゃりしゃりと甘い液体を飛散させた。
「……オージは、おまえ達を友達だと思ってる」
さっきリビングでふたりが正座をしている間にオージと何か言葉を交わしてきたのだろうか、信哉の口調がオージという名前を出した以後、比較的柔らかいものになる。
もちろん、だからと云って付け入る隙などどこにもないが。
「だからおれも最低限のことは伝えておこうと思う。そちらに聞く気があるならの話だが」
最、低、限。
その言葉は信哉がオージに関して最高まで知っていることの証明のようなものだった。
抑えられた感情。
それは、それも、造形物?
ひめかわはすでにほとんど涙目になりながら膝の上で両手を握り締めた。
「……は、はいっ、ちゃんと聞きますっ。心して聞きますから、聞かせてくださいっ」
熱を込めるひめかわの隣でまこっちゃんは「姫川と同じです」と簡単に返事した。
ひめかわはその冷静さの根拠が分からなかった。
「オージは、今、ぎりぎりの所にいる。生命力うんぬんの話じゃない。人間として、だ」
ひめかわは単純に意味が分からずに「はあ」と首をかしげた。
その様子を見ていた信哉がリンゴを転がす手を止め、笑みのようなものを零した。

「ところでこの暗い物語を、ほんとうにすべて聞くかい?」

心臓が空虚になった。
血は消えた。
鼓動は途絶えた。
ほんものだ。
くらいものがたり、それはほんものだ。

ひめかわは首を横に振った。
信哉は目を伏せ、それがいい、と初めて穏やかな表情を浮かべた。
もし今その話をせがんでいたら、このひとは決してもう二度と自分達とオージが交流することを許さなかっただろう。
その部分だけはひめかわにもはっきりと分かった。

半分まで皮を剥かれたリンゴはその皮を実に繋げたままで信哉の手の中にある。

「このリンゴは、三日前に買ったものだ。皮を剥くと、ほら、まだ瑞々しいだろう。剥かなければまだ数日間はもっただろう。だけど、剥いてしまったものを放置しておけばあと数時間で表面は変色し、果実は乾燥する」
不謹慎だけど、今のオージも、当然のようにこれと、つまりリンゴとおんなじなんだ。
「だから分厚い眼鏡は必要だし、髪型も変える。そうしないと、オージはぼろぼろになってしまうだろう。何度も、何度も。ぼろぼろにされてしまう。しかし空気はリンゴを朽ちさせることを悪いことだとは思っていない。それは、空気の持った、仕方の無い性質だからだ。そもそも意思など介在しないし。リンゴのほうだってなんとも思わないだろう。空気を怯えて逃げたり空気を呪ったとしてそのことで自ら蝕まれたりもしない。……だけど、オージは違う。オージは人間だから、ぼろぼろにされれば痛いんだよ。おれは、オージがそういう目に遭うのを見過ごせない。まあこれは、おれの勝手な、庇護欲なんだけど」
前後の文章がどう繋がってくるのか具体的に分からなかったが、繋げようと試みた信哉の意思は痛いくらいひめかわに伝わった。
いつかその意味がすべてはっきりと分かる日はくる。
だけどそれは、今ではない。
今はそれだけで十分だ。
「悪かったな。軟禁して」
本気か冗談か分からないが真顔でそう云った信哉は掌の上という限られたスペースだけを使い手品のように切り分けたリンゴの半分をひめかわとまこっちゃんにくれた。
ふたりは義務のようにそれを食した。
信哉はそれで気が済んだように年上の笑みを浮かべた。
「残りは、オージの分」
そう云い残しオージが寝ているのだろう部屋へと再び向かった信哉。
三分経過。
しばらくして戻ってくるとひめかわを手招いた。
「ひめかわってのは、おまえだな。来い」
「……えっ?」
「オージが、呼んでる」


寝室には暖色系の室内灯が一つあるのみだった。
窓は遮光性の強いカーテンで閉ざされ、外の明かりはほとんど入ってこないようになっている。
あいかわらず殺風景な、そこもやはりモデルルームのような寝室のベッドでオージはアイボリーのブランケットに埋もれながら入り口に立つひめかわを見ていた。
「……オージ」
大きなベッド。
ふかふかのベッド。
静かな場所。
ここは自分を絶対に裏切らないひとの領域内。
安全。
オージ、良かったな、オージ。
こんなふうな場所が準備されてて、良かったな。
おれ、あのひとのこと怖いけど、あのひとがオージの敵じゃなくて良かった。
ひめかわの胸に一気にこみ上げてくるものがあった。
大きな黒い瞳が怪訝そうにひめかわを見ている。
その目つきはなんとなく信哉に似ていた。

「何やってんだよ、突っ立ってないで早く入れよ、そういう目が気持ちわりいんだよ、変態かあんたは」
(うう。口の悪さは健在だ)。
ひめかわはオージのベッド脇にひざまずくとそれ以上は近寄りがたい感じがしてシーツには触れることができなかった。
「オージ、だいじょうぶ? もう、気分悪くない? 死なない? ねえ、死なない?」
ぶわあっと涙が溢れてひめかわはついに泣いた。
ほんの一時間弱離れていただけで一週間会えなかったような寂しさだった。
それはまるで中毒。
もうほとんど中毒。
「……おまえのほうが、だいじょうぶかよ。ったく」
だってえええ、と云いながらひめかわはオージの赤いほっぺたに顔を擦り付けて殴り飛ばされた。
鼻をすすりながら元の位置に戻り、今度は笑う。
「は。めそめそしたり、かと思えば殴られてへらへらしたり。きっもちわりいな」
「えへっ。もうどんな文句も効かないもん。だってオージ、口悪いけどそこがかわいいもん」
沈黙が続いて、その間は何もなかった。
何も。
まこっちゃんと信哉さん、リビングで何話してんだろ。
ひめかわは残されたふたりを考えた。
あのふたり、にらめっこしたら永遠に続きそうだな。

とか。
考えた。

「ひめかわ」
「……へっ、何?」
「いいんだからな、べつに。面倒くさかったら、もう、いいんだからな」

何のことだか分からず、ひめかわは首をかしげた。
オージの大きく黒い瞳は光の加減で、潤んでいるのか乾いているのか分からなかった。
目の前にあるものを見ていない目。
いつもどこか、ここではないどこかを見ている目。
捕らわれて、逃げ出せなくて、窮屈で、寂しくて。
だけど怖くて、自信がなくて、また繰り返されるかもと思ったら、かごの中がずっと良くて。

ねえ、オージ。
錯覚かも知れないけれど、知っている。
おれ、知っているよ、それを。
ずっと前から。
ねえ、オージ。
教えさせて。
おれに、この言葉を、きみに、教えさせて。

人間は、ひとつだけど、ひとりじゃないよ。

「……今回みたいなことって、よくあることなの? 貧血じゃ、ないよね」
「ばかやろ、おれが病人みたいに云うな。初めてにきまってんだろ」
「何が原因なの?」
「……」
「あの、家?」
ひめかわのその言葉でオージの目が、傷を負った獣のような瞳になった。
「……あんたには、関係ない」
自分がしているのは、オージが望まない質問。
オージを苦しめるだけの、質問。
ひめかわはそれでも彼の好奇心のために最後の質問をしなくてはならなかった。

「おれがよく見てた、オージに似てるっていう女の子、あの子ももしかして、関係ある?」

聴こえない、でも、何かが、えぐれる音が、確かに、した。

オージ、とひめかわは優しい声で呼んだ。
ひめかわ、と呼び返す声はなかった。
だけどそれは声無き返事だった。
堰き止められて溢れ出しそうになっていたもの。
自分の欲望に忠実過ぎることが問題だ、って、知らないわけじゃない。
だけど、完璧なまでのストイックの果てに何がある?
触れなくても伝わる。
不十分な言語で一つ一つ伝えていけば。
余さず、とまではいかなくても。
何かが少し伝わる。
重ねていけばいい。
白に白を塗り重ねていく行為。
黒に黒を塗り重ねていく行為。
同じ色だろうが、一度目と百度目は、まったく同じものじゃ、ないだろう?
そう、続いていかなくていい。
いつか終わったっていい。
今ここに確かなものがあった、って、いつか思い出せる日がくるなら。
分からないままでいい。
暗号のようでいい。
ほぐせないでいい。
正直に伝えたつもりで、伝わったつもりで、満足するくらいなら。
いつだって不確かで、嘘偽りの雁字搦めで。
それでも祈ろう、願おうよ。
神様がいないなら空に。
おれの手に。
きみの名前に。

オージ。

おれがきみを欲するように、
きみがおれを欲していること、
もう、知っていた?

「やっぱ……むりだよ。オージ。途中でもういいとか、面倒だったら投げ出すとか、そんなの、もう、むり。だって、おれ、ずっと忘れらんないもん」
白い手。
黒い目。
自分のためじゃないわがまま。
還元を期待しないよ。
「……まじで、いかれてるんだな。あんたって」
一方通行同士、伝え合って。
反復法で、確かめ合って。
怖くなったら、突き飛ばして。
「オージの、せいだし」
そしてまた、引かれ合えばいい。


(だって、そうだろ?)



信哉の申し出を断ってひめかわとまこっちゃんは歩いて駅まで行った。その途中、ふたりはそれぞれ別のことを考えていた。夜空には星が薄く見えた。バラバラに切り崩された欠片はやっぱり一枚の絵だったみたいだ、と、まこっちゃんが、ひめかわには意味の分からない言葉を呟いた。

「なあ、ひめ」
コンビニの前に差し掛かる時、まこっちゃんはひめかわの横顔を見た。
オージが倒れた時に見せた不安そうな様子はもうどこにもなく、ずっと落ち着いて幸福そうに見える。
応援すると決めた恋なのに、まったく正反対の気持ちも生じてくる。
どうして素直に共感してあげられないのか、まこっちゃんは自分の心のつくりに不満を抱いた。
「ん、なに、まこっちゃん?」
「信哉さんとオージくんの信頼関係を見てさ、ちょっとは凹んだ?」
(なにこのイジワルな誘導は)。
コンビニのレジで同じ年くらいの男の店員同士が談笑している。
まこっちゃんはそういう他愛もないものを今はどうも見たくなかった。
「ううん。どっちかっていうと安心してる。あのひと、頭良さそうだし他にも色々としっかりしてそうだし、オージのこといろいろ分かって動いてくれているし。おれね、たぶん、オージを自分の物にしたいわけじゃないみたいなんだよね。なんていうかな、オージを取り巻く世界とオージが平和なら、その世界の中に自分がいなくてもいいと考えてる、っていうか、」
まだ何かしゃべっているひめかわの言葉を、そっか、と、まこっちゃんは遮った。
「どうも、ごちそうさま」
まだ何かしゃべりたそうにしていたひめかわは少しの間いじけた声を出してふざけていたが、別の話題を振られてすぐに機嫌を直した。

「あー、明日の学校さぼりたいし。なんか、学校がない日に普通に休むのと学校がある日に休むのと、同じ休むでも全然意味違うって考えたこと、ない?」
「分かるかも。おれでよければ付き合うよ、おひめさま?」
「え、まじでっ。まこっちゃん、だいすきだっ」
「どっか行く? それともおうちデート?」
「……えっとね、えっとね」

春の夜。
明日はもう、夏のにおいがしているかも知れない。
もう繰り返されることのない春は、この一瞬一瞬を散ってゆく。


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んー、強いて云うなら、添い寝したかったなあ。(byひめ)