駅裏の小路に入ると見つかる、木の看板に彫られた『ベリベ』の文字。
狭い入り口をくぐるとそこは薄明るい喫茶店だ。
灯りはすべて青みがかっている。
ランチタイムを過ぎ、客はまばらだ。読書をしている人が多数を占める。
カウンタの横にはオーナーが趣味で集めた海外の雑貨や絵本が所狭しと並んでいた。
店の入り口から一番離れた席でオージは機嫌の悪い顔をしていた。
向かいにはオーナーの甥である西高のアイドルこと姫川一馬が満面の笑みで体をテーブルに乗り出している。
「……近いつってんだろ」
のけぞるスペースもなくなったオージがひめかわのおでこを小突く。
テーブルのコーヒーが揺れた。
ベ リ ー ・ ベ リ ー
ひめかわは伯父にあたるオーナーの経営する喫茶店『ベリベ』で隔週週末、不定期にアルバイトをさせてもらっている。「お小遣いが欲しいときのお手伝い」程度にだ。来店客にも顔見知りのほうが多く、もう一つ掛け持ちで平日夜に行っている飲食店のバイトよりかなりリラックスできるところが魅力だった。そうして稼いだお金はまこっちゃんと行く廃墟探検の旅費として消えていくことがほとんどだった。
「きみがうわさのオージくんか。ははあ、たしかに一馬の云う通りだね」
クリームブリュレをサービスしてくれたオーナーには当たり障りのないよう会釈したオージは席へ着いたひめかわを睨み付けた。
「……おれのこと、うわさにしてんのか」
エプロンを外したひめかわは「何?」と、すっとぼけた。
オージはそのお気楽笑顔を十数秒睨み続けた後、ふいと目線を外し鞄の中から勉強道具を取り出した。
えー、とひめかわが抗議の声を上げる。
「オージ、休みの日にそれはないっ」
無視。
こいつ、どこよりも集中できる勉強場所を提供してあげるからって約束でおれを誘ったこと忘れてんだろ絶対。
ちっ。
ひめかわよりも自分に腹が立った。
ひめかわはバカで仕方がない。
だけどおれはそのバカの手にのせられた、もっとバカな男だ。
「……ねえ、オージ」
「……」
好きな子に構ってもらえないとなると構ってもらえるまでなんとか粘るタイプだ。
ひめかわはテーブルの上に投げ出した腕に顔をのせ、問題集に目を落とすオージを下から見上げた。
今日もお決まりのスタイル。
分厚すぎるめがねに、ぼさぼさの頭。めがねと前髪とで顔の半分近くは埋もれている。
ひめかわは無視されているのをいいことにその顔をじっと見つめることにした。
鼻と口は、なんかまだ赤ちゃんみたいだな。
「あのさあ、おれさいきん気づいたんだけど。オージって、目っていうよりも黒目がおっきいんだよね。動物の赤ちゃんみたい。かわいい」
「……」
「いいなあ、おれのすきなタイプ」
シャーペンの芯がパチン、と折れて破片がほっぺたに飛んできた。
「痛っ」
大袈裟に痛がってみるもオージは微動だにしない。
こうなると我慢比べだ。
窓の外には通りを歩いている親子連れなどが見えた。
ひめかわは、オージのお父さんとお母さんってどんな人かなあ、と考えた。
ひめかわにとってオージはまだ誰とも繋がっていない。それはつまりひめかわがオージの家庭について何も知らないということ。
おとうさん。おかあさん。そして、オージ。
家族は必ずいるはずで、小さい頃はあったはずで。
赤ちゃんは泣く。
子どもは笑う。
いつからだろう、オージが今のオージになったのは。
いつからだろう、自分が今の自分になったのは。
ひめかわは食べかけのクリームブリュレに目をやった。
銀色のさじに青い光が反射している。
鏡よ鏡、この国でいちばんしあわせな男子高校生はだあれ。
「……それは、おれ」
今オージのいちばんそばにいる、この、おれ。
ひとり自問自答に満足してひめかわは自然と頬が緩んだ。
筆記の手を止めたオージはその様子をげんなりと見下ろす。
その時、入り口の鈴が鳴った。
オーナーが対応しているのが聞こえる。
(お客さんかな)。
頬杖をつきながら声のする方を見ていたひめかわは、カメラを構えた女性に「あっ、きみ!」と指を差されてきょとんとした。念のため後ろを振り返るが他に誰もいない。
「お、おれ?」
「西高のひめっていうのは、きみのことだね?」
「そ、そうですけど」
「私、エム・オーのカメラマン。ちょっと、時間、ある?」
エム・オーならひめかわも聞いたことがある。
書店やコンビニに置いてある、若者向けの地域情報誌だ。
「エム・オーに掲載されてるイケメン写真館っていうコーナー、知ってる?」
「はあ……」
そうしている間にも店内の一角が撮影用に片付けられていく。気前のいいオーナーはコーヒーとケーキを並べ始めた。
「次回の特集、スイーツカフェで働くイケメン、で組んでるんだけど、携帯アンケートでこのお店の名前がちらほら上がってたんだよね」
喋りながら女性はエプロンをひめかわの首にかけた。
手にはグラスののったトレンチを持たせ、シャッターを切る。
段取りがいいというか強引というか。
何より今いる他のお客さんに迷惑じゃないか、と周囲を見渡すと案外楽しそうに撮影風景を眺めている。
オージを見ると、シャッターの光を避けるように俯いていた。
「……オージ」
そうしている内に撮影は終了し、短いインタビューを受ける段階に。
「ふんふん、名前はひめかわかずまクンね。年は十六歳、っと。……彼女は?」
「いや、今はその……」
「おっけい。彼女募集中、と」
話を聞け。
「好きな子はいるのかな?」
その質問にひめかわは顔を赤らめ、います、と小声で答えた。
「ふんふん、片思い中か。同じ学校の子?」
「違います」
「じゃ、中学校時代の同級生とか?」
「あ、あの、いえ、通学の電車内で、一緒になって、それで、えっと」
「通学の電車内!」
彼女はひめかわの回答を繰り返し、鼻息を荒げた。
これ以上訊かれたら困るんだけどなあ、と思いながらむげにもできない性格のひめかわが、掘り下げられたらどうしよう、と頭を悩ませていると彼女は質問の形を変えてきた。
「じゃ、ひめかわクンの好きなタイプについて教えてくれるかな」
「えっと……ちっちゃくて」
「うん」
「……いいにおいがして」
「清潔感も大事だもんね。うんうん」
「……目つきが悪くて」
「えーと、つまり、かわいい系ってよりもキレイ系ってこと?」
「いや、うん、キレイだけど、でも、どっちかっつうと、キレイよりもかわいいんですっ! うちのオージはっ!」
ひめかわの熱のこもった訂正に彼女は目を丸くした。
「え、王子?」
そーなんですっ、と力説するひめかわを彼女はひとまず肯定してやりすごすことにした。
「ん、なるほどなるほど」
「そんで、あとは、言葉遣いが汚くて、くそとか死ねとか平気で云っちゃうような子で、でも、とにかく……そういう子が今おれの一番すきな子なんですっ」
彼女は首をかしげ、ひめかわの云う通りの人物をイメージしようと試みたがどうもうまく像にできなかった。
手帳をぱたんと閉じ、終了、と笑顔で取材を切り上げた。
店内が再び静かになってから、えっへん、と席を振り返ったひめかわはそこにオージの姿が見当たらないので泣きそうになった。
オーナーに教えられ、店を出る。
急に明るい外へ出たためしばらく眩暈がした。
空は青く太陽は照っているが風は冷たく肌に心地よい、最高の休日だった。こういう時期は長くはない。
「……オージ」
オージは向かいの八百屋の軒下に立っていた。
渡ろうとし、右から車が来ていたので一時停止を食らう。人目もはばからず、トイレを我慢する小さい子のように、その場で足踏みをした。
ようやくひめかわがオージの元に辿り着いた時オージはかご盛のじゃがいもを手に取りまじまじと眺めているところだった。
「もう、オージってば、黙ってひとりでこんなとこ来てっ。おれの一世一度の大告白きいてなかったわけっ?」
せっかく恥ずかしさをこらえたのに、と訴えるひめかわの声もオージには届いていないようだった。
じゃがいもをかごに戻し、隣のトマトを手に取る。
「見ろよ、ひめかわ。ここの野菜は全部に土が付いてる」
拍子抜けした。
てっきり気を悪くしているものと思ったからだ。
「……え、土?」
「つまり、直送ってことか」
オージはその答えをさも重大そうに呟いた後、八百屋内をぐるぐるし始めた。
ひめかわは不思議に思いながらその後をうろうろと付いて回る。
「これは……きゅうりか。ものすごく不恰好だ」
こんな調子だ。
次第にひめかわも慣れてきて一緒になって八百屋内を散策する。
「……あー、オージと一緒に今日の夕飯の買出し気分。一緒に暮らしたらこんな感じかな」
ひめかわがそう云うとオージは我に返り、つんつんと八百屋を出て行ってしまった。
「なあ、オージってさ、もしかして、実はおうちがお金持ち?」
ベリベに戻り、カプチーノを注ぐ。
やる気を失ったのか勉強道具を片付け始めたオージは「何でだよ」と突っかかるように訊ねた。
「だってさ、庶民の暮らしを知らないひとみたいだったんだもん、さっき」
「……へんな例え方すんな」
「そうだ。おれん家、農家なんだけどさ、今度遊びに来ない?」
「は、あんたの家? 何でだよ」
「畑、見せてあげる。犬も三匹いるよ」
オージが素直に「行きたい」と云えないことくらい、ひめかわには分かっている。
カプチーノの表面に爪楊枝で猫の顔を描き、
「食事しに来る半野良猫に子どもが生まれたんだ。ちょうかわいいから、見てあげて?」
最後に、チョン、と鼻を付け足した。
オージはひめかわの手によって器用に描かれた猫にとても感心したが表情は決して変えなかった。
「……くっだんねえ」
ひめかわがオーナーに呼ばれてキッチンに入っていく後姿を見送り、ひとりになったところで爪楊枝を取る。
猫の顔にヒゲを描き足した。
「……なんだ、かんたんだ」
それからオージは、ひめかわに見つからないよう、カップに口をつけてカプチーノの泡をすすった。
誰も助けてくれない。
誰も。
オージの心に刻まれたその言葉が少しずつ薄れてゆく。
救済は劇的じゃない。
こういった、ささいなささいな、どうだっていいくだらないことの積み重ねなんだきっと。
青い光。
お冷の入ったグラス。
オージは静かに瞼を閉ざした。
どうしてだろう。
今日は、水が、怖くない。
とても、とても、満たされて。
090505