毎朝のように電車はひめかわの地元を走り出した。
田園風景は一面の緑に覆われている。
殊、雨の降った翌日の風景は青々としている。
制服も今日から半袖に変わった。
心地良いリズムの中、ひめかわは次に来る「乗客」を待ちわびて自然と頬が緩んだ。
ワ ッ ツ ・ ユ ア ー ズ
「……うそだあっ」
乗車してきたオージの姿を見るなりひめかわはそう叫んだ。
何が、と訊ねつつオージは目も合わせずに離れた場所へ座る。
「あー、もー、楽しみにしてたのにいっ。夏服じゃないなんてっ。なんだよっ」
他の乗客はいないので車両内はふたりの貸切状態だ。私語を慎む必要もない。
「あー、テンション落ちたっ。もう、やってらんねえしっ」
ほっぺたを膨らませてぷりぷりしているひめかわにオージは一瞥をくれた。
「ひめかわ……あんたさあ、男に何を期待してんだよ」
「おれはオージの夏服姿が見たかったんだっ」
「……近々見られるだろ、そんなもん」
「うう、そうだけど」
(そうだけど、オージ、いろいろ分かってないなあもうそこがかわいいんだけどめろめろ!)。
結局デレデレのひめかわを尻目に、長袖シャツに紺ベスト姿のオージは鞄の中からヘアワックスを取り出すと今でさえぐしゃぐしゃの髪をさらにかき混ぜながら眼鏡のレンズもわざわざ曇らせた。
ひめかわは涙目でその動作を見守る。
去年の今頃は、オージを見ても何も思わなかった。
あの頃もオージはこの車両で、ぼさぼさの頭で、漫画に出てくる冴えない登場人物のような分厚い眼鏡で、膝の上にひろげた本を一心に読んでいた。
一方その頃のひめかわはこの車両で、明るい色に染めた頭で、緑色のシートにふんぞり返って、中学の頃から使っているプレイヤーのイヤフォンから音楽を溢れさせながら、流れ行く景色をうたたねの合間に見ていた。
それが、何がきっかけだったか、そう、今年の2月14日の「チョコレート・パニック事件」(後にひめかわが命名)以降、それまで「その存在を認識してはいるものの何らかの感情を抱くほど親近感を覚えていない者」として他人同士だったお互いが、まるで別の意味を持った。
それにしても今日のオージはいつもより念入りだ。
目立ちたくないからやっているのか、目立ちたくてやっているのか。どっちなのか。どちらとも判明しない。
詮索をして疎まれるのも哀しかったので何気なくオージの鞄に目をやると開いた口から同じヘアワックスの容器が三個見えた。
(まさか予備まで持参してるのかな……)。
ひめかわは無意識に身を乗り出していた。
視線に気づいたオージが鞄のチャックを閉める。
「……なにじろじろ見てんだよ」
「え。だってオージが同じワックスいっぱい持ってるから、気になって気になって仕方なくって、つい」
「……あのな、見るから気になるんだろ。見なけりゃ気にならない。だから見るんじゃねえ。わかったかぼけ。見、る、ん、じゃ、ね、え。な?」
ははあ確かにその言い分は一理あるな、と、オージから発せられた皮肉を皮肉とも思わないひめかわだった。
対角線上で睨み合う。
と云ってもひめかわのほうは睨み合いだろうがなんだろうがオージとそうやって見つめ合えるだけでしあわせだった。
オージが夏服で現れなかったことを惜しんでいたことを忘れてしまうくらいに。
ぐしゃぐしゃの頭。
眼鏡の大きさ。
かろうじて見えている唇は、きゅっと「へ」の字に結ばれている。
「あー、オージ、今日もかわいいっ。すっごいかわいいっ。どうしてだろ、なんかもういっそ感心してきた。オージどうしてそんなかわいい生き物として生きてんの? 神様に会ってお礼云いたい」
ひめかわのその言葉にオージは、不可解と書かれた顔をぷいと横へ向ける。
「……死ねば会えるんじゃねえの」
だから死ねば、と吐き捨てたオージは自分で云いながら冷たい気持ちになった。
『死ねば』。
冷たい。
光跡。
何も聴こえない、何も。
たくさんの質問。
時折聞こえてくるのは同情を示す言葉。
その時ふいに耳元に寄せられた誰かの唇から。
『あんたが死ねばよかったのに』。
振り返る。
正体は無い。
誰が云ったか。
本当は誰でもいい。
もしかするとそれは、自分だったかも知れない。
「……ごめん」
謝ってくるオージにひめかわは目を丸くした。
「えっ、なななななにが?」
「……死ねば、とか云って、ごめん」
フリーズしたひめかわは数十秒後に解凍されるとオージの前に移動して、
「ううん、気にしないでいいからもっと云ってよ」
「……マゾかよ」
「違うと思う。けど、でも、オージが云いたいと思ったことは全部云ってよ。普通はそういうのってわがまま扱いされると思うけど、おれにとっては、オージのわがままが大好物なの」
「……は?」
「おれ、オージのことでもっと困りたい。もっと、困らせてよ。西高のひめかわかずまを困らせていいのは、オージだけだよ?」
眉間に皺を寄せたオージは、いつの間にか足元にひざまずいて熱烈アピールしてくるひめかわのその屈託の無い茶色の瞳に映るぼんやりとした自分を見ていた。
「ねっ、オージ」
「……どうしてあんたはそうクサい台詞が云えるんだ? 口にして、恥ずかしくないのか?」
「云わないとずっと伝わらないじゃん」
「……まあ。仕方ねえのかな」
「うん。そう。仕方ないんだ」
そうか。そうだよ。
というやり取りを数回繰り返した後、オージはなんだかすっきりとした気分になった。
のどにつっかえていたものが消滅していく感じ。
気分が晴れると、窓の外に目を向ける余裕も出てきた。
青い田園。
「だから、オージも、云いたいことがあったらその時にすぐに云って。おれ頭悪いから云ってもらえないとちゃんと分かんない。自分が無意識にオージの嫌がること云ってたりしてたりすると、それでオージがこっそり不愉快になってたりすると、そういうのって、すっごく哀しいから。指摘されたらちゃんと直すし、もうやめろって云うならやめるから」
「……だったら今すぐこの距離をどうにかしろ」
「へ? ……あ、そうか。もう、オージってば貪欲なんだから」
「……ちょ、こら、乗り上がってくんなっ。え? って、ちっげえ! 近いから退けって云ったんだ、逆だ逆っ。自分に都合良く解釈すんなっ」
「もー、照れなくて良いのにっ。ま、照れた顔もかわいいから全然どっちでも良いんだけどっ」
「……照れてなんかねえし。てかさ、あんたのそういうとこまじでイラつくから、もうやめてくんねえかな」
「あー、そうやって全然素直じゃないとこももう全部かわいいっ。ちっちゃくてかわいいのに超絶口悪いとか、どんだけっ」
「……だから、人の話を聞けってこら死ねこのぼけ!」
直後、車両内に木魚を叩いたような音が響き渡った。
股間を押さえて蹲る姫川一馬、16さい。通称「ひめ」。
ずり下がった眼鏡を押し上げつつ肩で息をする宮沢大路、16さい。通称「オージ」。
もしもこの瞬間この車両に乗ってきた人が光景を見たとしたら直前に一体何事が起こったのかさぞかし首をかしげたことだろう。
傷跡のような光跡はいまこの季節に溢れ出る。終わりないもののように。そしてこの世界を照らす太陽にさらされたらもう、傷も光も同じところへ還ってゆく。謎は謎のまま存在することを許される。タスケテ。自分の口から発せられたその言葉が、ホースの先に出来た七色の虹のようにいつか煌いて緑に吸収されてゆくところを、おれはきっと今、確信するという予感に震えている。
「おっ、ひびき!」
中央駅で後方から掛けられた呼び声にひめかわは肩を震わせた。
ひびきといったら響。
響といったら信哉。
「ど、どこだ出てこい響信哉っ。おりゃあっ」
空手の構え(らしきもの)を取りながらひめかわは振り返った。
「え?」
東高の生徒が立っていた。
どう見ても信哉ではない。
「なあ、ひびき。こいつ、友達?」
「……まあ、」
そんなところかな、と返事しようとしていたオージの言葉を遮ってひめかわは、
「それ以上だっ」
うっかり主張してしまった。
オージに足を踏まれて「しまった」と思うひめかわだったが、相手は普通に冗談と受け取ったらしく笑っている。それどころか「いいなあ、こいつおもしろそう!」と気に入られてしまった。
「なあ、ひびき。こいつさ、同じ中学なわけ?」
「……は。なんで。違うし」
「えー、紹介して。名前は?」
「……ひめかわばかずま」
「いやいや一文字余計だから!」
オージがさらっとボケたのをひめかわがすかさずつっこむと相手は「おー、夫婦漫才ー」と、またも笑った。
面白くない顔をしているのはオージだ。ひめかわはというと「夫婦」という言葉に何やら満足そうに胸を張っている。
「あ、今分かった。あんた、西高のひめだ。ほんものー?」
特に悪意などなく相手は喜んでいる。
(うん。悪い虫ではなさそうだ)。
脳内で相手の顔に安全マークを貼ったひめかわはふと最初に感じた違和感を思い出してみた。
オージの苗字って、たしか「みやざわ」じゃ、なかったっけ……?
「あのさ、逆に訊くけど、オージの名前は?」
ひめかわの質問に相手は首をかしげ、
「え。響大路、だろ」
ひびき・おーじ。
普通に答えてくれた。
それがどうしたんだよひめ、と相手はすでに友達のように話しかけてくる。
しかしひめかわの頭にそれ以降の言葉は入ってこなかった。
(どうしてオージ、信哉さんと同じ苗字なわけ? じゃあ宮沢ってのは、何)。
そこでひめかわはオージが最初に名乗ったときのことを思い出す。
「友達になりたいんだ。ほら、こっちから乗るのっておれとお前くらいじゃん? 知ってた?」
「知ってたら何だってんだよ。だいたいおれの名前はオマエじゃない。ミヤザワオージだ、覚えとけ、ばか」
(出典:「ポップスター・トレイン」)
その後、オージは、後悔したような顔をした。
あの時はオージという名前に何か劣等感を抱いているのかと思ったが、もしかすると気にかけたのは苗字のほうかも知れない。
そんな考えがひめかわの頭にふっと浮かんだ。直感的に。
ミヤザワ。
みやざわ。
miyazawa。
そういえばこの苗字、さいきんどこかで見たなあ。
そんなに珍しい苗字といったわけじゃないから、まあどこかでは目にするだろうけど。
ひめかわは腕を組み首をかしげた。
そうしている内に時間が経過していく。
「……ま、忘れるくらいなら、どうでもいっか」
じゃまた放課後な、とひめかわは歩き出す。
放課後に会う約束とかべつになんもしてねえぞ、と訝りながらオージはその後姿を見送った。
流れていく。
一抹のさみしさ。
「……って、おい、うそだろ」
湧き上がる感情を抑制しオージは出口へ向かって歩き出した。
歩きながらその左胸に「響」と書かれた名札の針を刺す、毎朝のように。
090516
ひびきって西高のひめと仲良かったんだー。へー。すげー。仲良くなりてー。(byオージの同級生)