金曜の夜、姫川家の食卓は歓迎に沸いた。
母の峰子は自慢の手料理を小皿に取り分け、父の利三は酒を勧めて峰子に叩かれ、長男の湊はそんな両親に世話を焼きすぎだと忠告し、一馬はというとオージの顔色をうかがいながら箸をすすめた。


ハ ウ ス ・ ハ ピ ナ イ




「……猫を見たいとは云ったけど、泊まるなんて、一言も云ってねえ」
一馬の部屋に通され、そこにふとんが並べて敷いてあるのを見たオージはげんなりした。
「いいから、いいから。遠慮せずに。田舎のおうちには布団がたくさんあるんだよ。ついでに寝巻きは貸してあげる」
そういう問題じゃないし、と云いながらオージは入り口に立ったまま一馬の部屋をぐるりと見渡した。
「……ふうん。案外、片付いてんだな。普段のあんた見てたら、もっとごちゃごちゃしてんのかと思ってたけど」
「おれ、こう見えて実は整理上手だから。一家に一台ひめかわかずま。えっへん」
な・ん・て・ね。
(オージを招くと決めたら死ぬ気で片付けるでしょふつう!)。
内心びくびくしながらひめかわは大量のがらくたを詰め込んだ物置の襖をちらりと見た。
オージはひめかわの目の動きに気づきなんとなく事情を察したが指摘はしないでおいた。
「……一家に一台ひめかわばかずま。……金払われても、要らねえ」

手作り料理でお腹も満たされ、部屋にふかふかの布団が敷いてあったら休まない手はない。
正座もおかしいかと思い直しオージはあぐらをかいて枕元に座った。
窓からは夜空が見えた。ここでは星がくっきりと見えた。
階下で利三がテレビの野球中継を観て応援に声を張り上げているのが聞こえてくる。
「……おまえのお父さん、野球好きなわけ?」
「うん。おれも中学までやらされてたよ」
「……ふうん」
「そうだ、オージ。今度さ、キャッチボールしに行かない?」
ひめかわが今までになくきらきらとした目をするのでオージが断ろうにも断れずうろたえているところへ、食事の後片付けの手伝いを終えた湊が「これ、食えば?」と、菓子の入ったカゴを持ってきた。
「……あ、どうも」
湊がすっかり出て行った後でオージはひめかわの顔をじっと見る。
「えっ。なに?」
「……いや、ぜんっぜん似てないなあと思って」
オージの言葉にひめかわはむきになったように、
「声が似てるって云われるっ」
「そうか? あっちの方が声まで落ち着いてたけど」
「隣のおばあちゃんもしょっちゅうおれとあいつのこと間違うし」
「ただたんにそのばばあがモーロクしてんだろ」
「あと、」
「ん?」
「あと、ちっちゃい頃はおれのほうが足が速かった!」
「……なんの話だ。てか、今はおまえのほうが運動音痴なんだな」
隣でぐったり横たわるひめかわをオージは面倒そうに見下ろした。
「……うう。オージのばか」
「だから、なんだよ」
「……うう。うう」
はあ、とオージは深い溜息をひとつ吐く。
「……べつに、あっちのほうが良いとかそういう話じゃねえよ」
そう声をかけるやいなや、がばっと顔を上げたひめかわがすっかり回復した笑みをみせたので、もっと凹ませときゃよかった、とオージは反省した。
「だけど、いいな」
「ん?」
「田舎くさくて」
「オージ。それ、ほめてる?」
そっか。
と、ひめかわは思った。
オージ、いま、ひとりで暮らしてるんだよな。
ホームシックな気分になっているのかも知れない。
「ねえ、オージ」
「んだよ?」
「前から思ってたんだけど、オージ、おれに何か重大なこと隠してない?」
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八。
九。
きっかり十秒。「は?」。
「だから。オージってさ、何か抱え込んでない?」
と、ひめかわは布団の上にうつぶせになって頬杖をついて、
「ふと、すごく寂しそうな目をする時がある。今もだったよ。オージ、自分で気づいてる?」
しばし逡巡するオージだったがふと違和感に気づいて眉間に皺を寄せた。
「……って、なんであんたにそこまで詮索されなきゃなんねえんだよ。死ぬか?」
死なないけど、とひめかわはしょんぼりとうなだれて、
「オージがかなしいと、おれもかなしい」
何だこいつ。
何だこいつ。
何がしたいんだこいつは。
オージの中でクエスチョンマークが量産される。
どうしてそうなる。
どうしてそう思える。
「これが単なるおれの勘違いで、何でもないなら今そう云って。そうじゃないなら、このまま無視して」
いつかひめかわに中学校時代の話を聞いたことがある。
クラスの中のいじめられっこ。
いつも泣いてひとりぼっち。
友達なんかいなくて、世界中敵がばかりだと思ってた。
よくある日常。
よくある光景。
しかし、永崎真という人物に出会って、彼は変わった。
引け目を感じていた「見える」能力を肯定し、イメチェンにも成功。
いまや学校のアイドル扱いだ。
見事なサクセス・ストーリー。歯切れの良い起承転結。幸運な人間、おめでとう。
「……オージ」
ひめかわは触れてくる。子どもが犬に触るみたいに。ただ純粋な思いで。優しい茶色い瞳。
(けがをしているんだったら、やすませてあげようか?)。
「……ひめかわ。おれはな、自分の顔が怖い」
「オージの、顔が?」
「写真に映った、自分の顔」
そこでひめかわはふと思い出す。
先日、喫茶店『ベルベ』に雑誌の撮影が入った時。オージはカメラを避けるように俯いていた。
それからさらに前のことになるが、廃墟探検の日。オージが倒れてしまった回の件。あの時も。目的地に着く手前、背景がとてもきれいな夕焼けで、記念撮影だと云ってまこっちゃんがデジカメのレンズを向けてきた、時。オージは顔の前に手を出して、あれを遮った。
たいして気にも留めていなかったことが、オージの告白で炙り出されてくるようだった。
写真に撮られることが苦手な人間がそこまで珍しいとは思わない。
ただ、オージのカメラに対する場合は「苦手」どころではなく、一種の「恐怖」さえ感じさせた。
写真恐怖症。
それに加えて、恒例の変装癖。
この二つから導き出されることは、

「もしかしてオージ、素顔を撮られることが、怖いの?」

ちょうどその時、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
ふたりは拍子抜けしたように顔を見合わせ、オージがズボンのポケットから取り出し発信者を確認する。
信哉からだ。

「はい」
「……オージ。どこにいる」
「友達の家」
「……そうか。だったら今から車で迎えに行く。住所は?」
「いい。泊めてもらうから」
「……あ?」
「だから、迎えに来なくて良いです」
沈黙。
「……そうか。相手の名前は?」
「姫川一馬。ほら、信哉さんも、知ってますよね?」
「……ああ。あいつのところにいるのか」
「明日には帰る」
「……何か困ったことがあったらすぐに連絡しろよ。必ず助けに行く」
「はい。……ごめんなさい。ありがとう、信哉さん」
「……当然だ。ところで、姫川は近くにいるのか」
「目の前に」
「……代われ」

電話を耳から話したオージがそのまま差し出してくるのでひめかわは起き上がって姿勢を正した。 ごくりと唾を飲み込み、ゆっくりと耳に当てる。
「……は、はいっ。ひ、ひめかわかずまですけどっ」
思いっきり、声が裏返った。
「響だ。いいか、今からおれのいうことをよく聞け」
「は、はい」
「その一。オージの身に何かあったら次はおまえを殺す。いいな?」
(「次は」?)。
どうやら冗談ではなさそうな凄味に圧されつつひめかわは黙した。
「返事は」
「は、はいいいっ」
「その二。朝は、自分で起きるまで起こさない方が良い」
「へっ?」
「低血圧だから、目覚めがよくない。返事は」
「は、はいいいっ」
「その三。本人は面倒くさがるだろうが、朝食はしっかり食わせてやってくれ。その際、牛乳は必ず飲ませるように。低脂肪乳は、不可だ。返事は」
「か、かしこまりましたっ」
以下省略するが、信哉からの伝言は「その三十五」まで続いた。
途中からメモを取り始めたひめかわは携帯電話をオージに返す頃には疲れ切って布団の上にぐったりと横たわった。
「なあ、オージ。信哉さんってオージの何なわけ?」
「……信哉さんのこと、悪く云うんじゃねえ」
このふたり、わけわかんねえ。
ひめかわはオージの暴力から逃れながら、だけどこれで『保護者公認』のお泊り会だなっ、と気持ちが明るくなるのを感じた。
そして、相変わらず不機嫌なオージの表情も少しだけ、本当にほんの少しだけは嬉しそうに見えるのを自分の勘違いなどではないとひめかわは信じたかったし、やはり信じた。

オージはひめかわの部屋にあるものに一つ一つ興味を持った。
あれは何だ。
これは何だ。
ひめかわはオージに自分の中学校時代のアルバムを見せる。見るなりオージは「うわ、おまえ、マジでだっさいな」と眉をひそめる。「今がカッコいいってこと!」と自らフォローすると「ねえよ」と即答された。だがそれくらいでもう凹まない。今日は気分が高揚している。こういう日の打撃は老人の筋肉痛と同じで、数日経って訪れるのだが、それでも今が楽しいひめかわにはさほど痛くは無い。
それから、幽霊同好会の活動の一つである廃墟探検で撮り集めた写真も見せた。オージは真剣に一枚ずつ手に取る。「なんつうか、変わってるよな、おまえら」。オージが云う。ひめかわは、人工物が廃れていって自然の中に戻っていく様子に惹かれる人間の心理とやらをそれとなく説いてみせるもオージはもう別の物に手を伸ばしていた。
「……なあ、これは?」
ん、と振り返ったひめかわは、ぎゃあああっ、と悲鳴を上げた。
目にも留まらぬ速さでオージの手にあった写真をむしり取り、それだけでは済まず、原型が分からなくなるほど粉々になるまでちぎってしまった。
「……なんだよ?」
「ち、違うんだっ」
質問と回答が噛み合っていないがオージは「ま、どうでもいいし」と、それ以上追及しなかった。

十時頃、風呂から上がってきたほやほやのオージを見たひめかわはいてもたってもいられず階下から子猫を三匹摘んで戻ってきた。
(よし、これで間をもたせよう!)。
オージはひめかわの部屋着を借りて着ているのだがサイズが合わず何度も肩を押さえている。
ぼさぼさの頭は元に戻り、分厚いめがねも今は机の上に置きっぱなしだ。
オージの膝に乗り上がった子猫に射殺さんばかりの視線を投げかけていたひめかわだったが徐々にしあわせを感じて眠くなってきた。
布団の上に横になり、オージが子猫をかわいがるでもなく突いていじめているところを見上げる。
(ああ、オージ、やっぱり超かわいいっ。オージなら何しても許されるっ)。
このまま死ぬんじゃなかろうか、おれは。
何も考えていなくても、理由がなくても、オージが子猫を相手にしているところを見ていると視界がぼやけてきた。
口悪いけど。
素直じゃないけど。
強がりで。
頑固で。
褒められると怒って。
寄り添うと蹴って。
差し伸べると叩き落として。
スキだなんて一度も云ってくれないけど。

おれは、オージをやめないでおこう。

静かに決意した。
何も難しい話じゃない。
オージがここにいる。
何か、足枷みたいな過去を抱えて。
だけど、生きている。それが大事なことなんだ。
誰かのためや、ましておれのためなんかじゃ、絶対にないんだろうけれど。
「ありがとう、オージ」
声に出したつもりだったが、オージの耳には届かなかったらしい。
子猫はよく鳴く。
「……おい、ひめかわ」
「んー?」
「……こいつら、寝たみたいだぞ」
「え、ほんと」
体を起こして確認すると三匹の子猫は遊び疲れたのか体を重ね合い目を細くしていた。
「うーわー。かわいいっ。眩しいっ。かわいいっ。もふもふしてるっ」
「……うるせえよ。おまえ、いつも見てんだろ」
「仕方ないよ。かわいいものはいつ見てもやっぱりかわいいんだもん。だからおれ毎日云ってんじゃん。オージかわいいっ。って」
にっこり笑うと顔面に枕をぶつけられた。
それでも嬉しい。
痛さが嬉しい。
(……って、おれほんとやばいか?)。
寝るぞ、と電気の紐をひっぱるオージの耳たぶが赤い。
朝なんか来なくてもいいな、もう。
ひめかわは本気でそう思いながら、信哉に教わったことを忘れてしまわないよう暗がりの中で手繰り寄せたメモを起床と同時に確認するため枕元に置いた。


090523
今日来た子はちっちゃくてかわいい子だったわねー。(by姫川峰子)