姫川邸に朝が来る。
(にわにはにわにわとりがいる)。
そんな早口言葉で遊んでいたころのことをオージはなんとなく思い出した。
宮沢邸の縁側はいつも晴れてあたたかく、そう、実際には曇りの日も雨の日も雪の日もあったのには違いないが、記憶というのはどういうわけか物事を綺麗なように記録する箱のことで、思い出そうとした時まっさきに出てくるのは春の午後のようなオレンジ色をした、白い花に囲まれた、幸せとは与えられるものであり自分達がわざわざ出かけていって掴まなければ手に入らないような困難なものでは決してない、という、甘い、非常識な常識にとらわれた、そう、あれは安泰なお城での生活のようなものだった。
いい、オージ。
わたしのいうことはちゃんときくのよ?
自分に向かって微笑みかけるあの少女の名前、なんというのだっけ。
自覚のプライド。
幼い頃に一番と二番は決まっていた。
些細なことにも順序がつきまとい、お菓子の食べ方ひとつに注文を付けられるような生活で、少しずつ繭を形成し、しかし守りきれない部分は羊歯の葉のようにその内部でいびつに曲がっていった。だがそれは悲観的になる程度のものではない。各人の性格の違い、という表現に収まってしまうような微々たる、少なくとも多数の第三者にとっては微細な事柄に見える程度に過ぎなかった。
いい、オージ。
わたしのいうことはぜったいなのよ?
自分にそう刷り込んだ少女はもういない。
少女は少女のままいなくなった。
(じゃあおれはなにを絶対だと思えばいいの)。
オージは閉じていた目を開けて、隣でひめかわがグースカ眠っているのを発見した。
「……なにがアイドルだ。どいつもこいつも、眼球腐って、ばあっかじゃねえか」
なんだか腹が立ってきたので、ぷいと目線をそらし、その枕元に置かれているメモを取る。
昨夜、信哉がひめかわに云いつけた内容だ。
たとえば、その十五。
「携帯電話の充電は十分にさせること」
たとえば、その二十一。
「バランスのよい食事を与えること」
たとえば、その七に戻ると。
「身長の話題には触れないこと」
こんな具合だ。
信哉さん、と呟いてオージは寝返りを打つ。
子猫が顔に寄ってきたので追い払った。
こうできれば、信哉さんも楽だろうな、おれのことなんか。
オージは頭から布団をかぶる。
否定や肯定ではもう何も考えなかった。
ただ、ひめかわのにおいがした。
ハ ウ ス ・ ハ ピ デ イ
体を起こしたひめかわはまっさきにオージの姿を捜した。
オージの使った布団はオージによってすでに畳まれ、隅に寄せられている。
(さすがオージ、えらいなあ)。
ひめかわにとってオージは何をしても褒め言葉の対象内である。ぐしゃぐしゃの状態で放置されていても(さすがオージ、いい加減なとこもかわいいなあ)、である絶対。
「……オージ?」
当のオージは机に向かい、難題を前にして苦悩する学者のように頭髪をわさわさとかきまぜている。体の陰からいつものヘアワックスの容器が見えた。
「オージ、おはよう」
ヘアワックスの横にはめがねも置いてある。あいかわらず縁が太く、ぶ厚いレンズだ。
「……うるせえな。何がおはようだ。死ね。ばか」
肩越しに冷たい視線を流してオージは再び朝の用事に没頭した。
通常のおはように対する返事が単なる暴言であることよりもオージが反応してくれたこと自体に喜ぶひめかわはそれもまた挨拶のスタイルだよなっ、個性があっていいよなっ、と、いつにも増して前向きだ。
それもそのはずで、オージの寝起きを見られることなど今まででは考えられなかったことだ。まあ、それを云うならこのお泊り会自体が奇跡だ。三匹の子猫をダシに使ったことを差し引いても、この朝を奇跡だと感じることのできる自分の感覚のけなげさに対する感謝、そしてこの天国のような空間にいられることで得られる他に替えようのない悦びに関しては、いかにディープにネガティブな事件によっても今日は覆されそうになかった。
要は絶賛幸福進行中。
きれいな髪の毛が雑に扱われてしまうことは残念だったが、きれいな目がめがねで隠れてしまうことも残念だったが、だから、何も云わず眺める。
ひめかわは誓った。
オージが何をしていても、何を仕掛けてきても、それを認めてあげよう。認めてあげた上で、どうするかを、しっかり考えよう。
そう考えるとひめかわは楽だった。
作業を終えて振り返ったオージが、いつも電車に乗り込んでくるときと同じ姿になって、だけど服装だけひめかわが貸したシャツを着ている。
何度あしらっても寄り添ってくる三匹の子猫に、オージは半分だけ不愉快そうに。
半分だけ、嬉しそうに。
「……んだよ、こいつら。すげえ、うざい。おれ、よそ者だし」
生きてきてよかった。
それを聞いたひめかわは、心からそう思った。
朝の食卓は寡黙だった。
と云っても、しんみり、しているわけではなく、一種の熱気に溢れていた、という意味で。
オージは右隣に座るひめかわの脇腹を突く。
「……あのさ、ひめかわ。おまえんちの朝って、いつもこうなわけ?」
ん? と茶碗から顔を上げたひめかわはオージが何を指して「こう」と云っているのかさえ分からなかった。
手を伸ばし、明太子入りの卵焼きをオージの茶碗にひょいひょいと二個ほど投げ入れてやった。
「ねえねえ、オージくん、お母さんの作った朝ごはん、おいしいでしょ?」
オージの左隣に陣取った峰子がにっこりと首をかしげる。男ばかりの家に訪れた小柄なオージのことがかわいくて仕方が無い様子だ。もちろんオージも男であることに変わりは無いのだが。
「感想は強要するものではないよ」
咄嗟の質問に弱いオージが返答に詰まっていると長男の湊がさらりと助け舟を出してくれた。
だってオージくんってちっちゃくて子供みたいでかわいいんだもん、と峰子は理屈の分からない弁解をしながら科を作るかのように体をくねらせる。
「そうだぞっ、オージ困らせんなよなっ」
湊に一歩出遅れてひめかわも助け舟を出す。
「……べつに、まずくはねえけど」
「わあ、うれしいっ」
ようやくオージなりに精一杯の感想を述べると峰子は二人の息子にたしなめられたことなど忘れ、いそいそと味噌汁のおかわりを注ぎに立った。
(……なんでおれここにいるんだろ)。
オージは俯く。
そうしていると、茶碗の中にひょいひょいとおかずが放り込まれていく。ひめかわからだけではなく、利三や湊も同様のことをしてくる。
(……これが、普通なのか?)。
それぞれの表情に「よそ者なのだから良くしてやろう」という善意の色さえ窺えないことを見取りオージはようやく落ち着くことができた。
停止していた手を動かす。
信哉に見られたらひどく怒られそうだったが、郷に入っては郷に従う気持ちで、茶碗の御飯をがつがつと掻っ込んだ。
午後は利三と峰子について農作業を見学したり、ひめかわに連れられて水源を見に行ったりと濃密な一日をオージは過ごした。湊は補講があるとかで学校へ行った。
そんなわけで、日が暮れるのは早かった。
一人暮らしだというのに収穫したばかりの野菜の詰まったビニール袋を両手に持たされたオージと手ぶらのひめかわは駅までの畦道をのろのろ歩く。
ひめかわが袋を持ってやろうとするとオージは頑なに「持てる」と断った。
「……なんていうか、牧歌的な暮らしだな」
ふたりの姿が見えなくなるまで見送る峰子に背を向けオージはぼそりと呟く。
「オージ、気に入った?」
うん。
なんて決して云わない相手だと分かってひめかわは訊いた。
案の定、返事は無い。
「野菜、どうするの? オージ、料理とかする?」
「……たまにはな。 ……でも、余ると思うから、信哉さんにも分ける」
信哉。
その名前にはもう勝てない。だからいらいらしない。
ひめかわは信哉がどうこうというよりも、そういう心遣いのできるオージに感動していた。
「オージ、やさしいんだなあ」
「……は? やさしい? 勘違いしてんじゃねえ。腐ったらゴミになるからあらかじめ手を打っておくってだけだ」
「うん、難しく云うと、そうだね」
ひめかわが笑うと、オージは不満そうだ。
駅に着くと待合室で電車を待つ。
時刻はあらかじめ調べてあり猶予は五分弱。
昔ながらのベンチに座り電車の来る方角をみつめるオージの横顔をひめかわはじっと見た。
落日がその瞼や頬、唇の丘陵を静かに撫でる。
どれだけ変装まがいのことをしていてもオージのことは、どこにいても、おれ、みつけられる。
それは自信というよりも願いのようなもので。
いつか粉々に砕けるようなことがあってもこの一瞬が終わっても、この一瞬が存在したという事実にはもう終わりなんて来ないだろ?
ひめかわが黙っているとオージが薄気味悪そうに「何か喋れよ」と強要する。
不純な動機妄想捏造その他もろもろの事情ひっくるめてひめかわの箍が少し外れる。
「え、じゃあさじゃあさ、おれと、」
「……そういうことを云えって意味じゃねえ」
勘の鋭いオージが先手を打ち頬を叩く。
痛い、と大袈裟にのけぞりながらひめかわの脳裏を一抹の不安がよぎる。
いいんだろうか。
こんなに一緒にいられて、これからもいられそうな気がしていて、いいんだろうか。
なあ、オージも、そう思う?
電車の音が近づく。
立ち上がりかけたオージの肘を掴む。
袋から野菜が転がり落ちる。
見下ろしたオージの瞳の一瞬の隙。
そういう無意識な部分に好都合な解釈。
おれの妄想。
おれの願望。
そんでもって、頼りない、客観性。
「……じゃ、またな」
野菜の入った袋を抱えてオージが待合室を出て行く。
いつもと違う曜日の時間帯。
いつもと違う車掌さん。
「またな」と云ってもその「また」がないこともある、って、知らない頃はこんなにも夕焼けをきらいじゃなかったのにな。
ちょっぴり繊細な神経で物事を考えたものの、目の前にいて「またな」と告げるオージのその鮮やかさをどうやって疑えばいいか分からないひめかわは、このうずく体は地面に固定されて動けないんだおれは、と自分に暗示をかけつつその大好きな姿が電車の中に入って行って視界から外れていくことにじっと耐えていた。
オージを乗せた電車ががたんごとんと揺れている。
こんなに幸せな一日はない。
知ってしまったから。
分かっていたことだから。
「……ああ、オージ、今日一日はずっとかわいかったなあ……まじでおれ、死ねそう」
病状は末期。
恋人というより、親になりたい。
そんな、ひめかわかずま。
090530
ぜんっぜん連絡つかない。ひめのやつ、今日は一日何してたんだ? (byまこっちゃん)