放課後。
後ろ向きに椅子に座り校庭を眺めているひめかわは、まこっちゃんが採点してくれる赤ペンの音を聞きながら「ひゃっ」だの「うひっ」だの、時折妙ちくりんな声を出した。
「なあ、ひめ」
「うん?」
「その声、何?」
「赤ペンの音がマルじゃなかった時の声」
ふうん、とまこっちゃんは目線を落としたまま云う。
西高入学して以来、いや、まこっちゃんが知り合って以来、今回ほどひめかわが試験勉強に身を入れたことはない。裏にいったい何があるんだか、と訝りながらも理由を聞かないでいたまこっちゃんだったが、下校する生徒達を頬杖ついて眺めていたひめかわは自分から勝手に話し始める。
「おれさあ、おっちゃんに提案してきたからね。夏休み限定でベリベの制服は日替わりにしよう! って」
「……ふうん?」
まる。
まる、まる。
まる、まる、ばつ。
「エプロンだろ、チャイナだろ、和服だろ、メイドに猫耳!」
「ええと、それだと……何の店になるんだよ」
ばつ。
まる、ばつ。
まる、まる、まる。
(あ。思ったより、できてる)。
まこっちゃんはマルバツ印をつけながら内心、冗談でもなんでもなく今回かなりひめの学年順位上がるぞ、と驚いていた。
「だあってさあ、オージのいろんな格好、見てみたいじゃん」
赤ペンの動きが遅れる。
ほんの一瞬の出来事。
「……オージくんとそういう約束してたんだ」
「そうそう。今回の試験でおれが学年十番以内に入ったら、夏休みはベリベでバイトしてくれるんだってさ。頑張っちゃった。えへっ」
ひめかわが猛勉強を始めたのは、もっと単純な、どうだっていい、自分のための、理由だと思っていた。
笑おうとしたが頬が引きつり、そもそも笑うシーンじゃないし、とまこっちゃんはセルフツッコミで真顔に戻る。
この程度の微細な動揺を悟るような過敏な相手でないことは自分が誰より分かっているが、この動揺を一瞬でも表に出してしまったことで自分が自分に失望してしまうような、自分だけが分かる失態だって何が何でも避けたいのだった。
そうしていないと、ぐちゃぐちゃになってしまう気がするから。
「ああ、そういうことか。ひめってさ、他人のために頑張るタイプだよな」
そう。
他人のために頑張っていないと、自分が自分じゃいられなくなるタイプ。
自己完結できるのなら、生まれた意味なんて、ここにいる意味なんて、余計分からなくなる。
「え、そうかな?」
「くれぐれもオージくんに約束すっぽかされないようにな」
「ちょ、云うなっ」
ひめかわはぷりぷりするがまこっちゃんは帰り支度を始める。
採点は終了した。
ひめかわが、途中まで一緒に歩こう、と云ってくるのを断る。
まこっちゃんは普段どおりのまこっちゃんとして教室を出る。
最後の10点問題は、合っていたけど、バツにしてやった。
それは誰の、何の利益にも不利益にもならない、ただの気まぐれ。
モ モ イ ロ ・ ス コ ー プ
夕方のファミレスには西高生の姿が多い。
試験終了祝い、と銘打ち同学年の野球部仲間と間食にやって来たエースは奥の席に明るい色の頭を見つけた。
「あ、ひめだ」
全員でぞろぞろと移動する。
謎の集団の接近を感じ取った、ひめかわの向かいに座る他校の男子生徒が、不機嫌そうな目をそのまま向けてきた。
エースは「おっ」と声に出す。
(……おっ、ちびめがねクン)。
他の野球部員が「ひめだ、ひめだ」と戯れる姿は、散歩中に他の犬に出くわした飼い犬がもふもふ喜んでいる様子に似ている。
ひとまず仲間達の好きなようにさせておいてエースは空いているオージの横に座った。
「うるさくして、ごめんね。気が済んだら移動するから」
ぶ厚いめがねの奥からエースをじっと見上げたオージは返事もせず、ぷいっと前を向いた。
(……愛想ねえのな)。
向かい合ったところで本当の顔など分からない。
黒い前髪は瞳にかかるほど長く、ただでさえ邪魔そうに見えるがそれがさらに強力なヘアワックスを使ってぐしゃぐしゃにかきまぜられている。
顔の内でまともに見えているところといったら口元くらいのものだった。
(……なるほど、ね)。
しかしエースは、オージがぷいっと前を向いた時に垣間見えた、めがね越しでない目元を瞬時に確認し、なるほどひめが構うわけだ、と納得した。
「ひめってさあ、ロリコン?」
何がどうなってそうなったのか、椅子の上で数名の野球部員に押し潰されたひめかわは、エースの口から飛び出た単語に「え? おれが?」ときょとんとする。
にやにやするエースを見て、隣で口をへの字に結んでいるオージを見て、再びエースに目を戻し、
「云っとくけどな、オージは男だぞっ」
なぜか顔を赤くしながら反論する。
そこでようやく他の部員達もオージの存在に目を向け、「うっわあ、ちっちゃい」「何これ中学生?」「ひめって実は年下派?」「うわー、ひめが年下派とかおれショック!」などなど、何の悪意も意図も無く、ただ心に浮かんだんであろうことを次々と口にする。
「あのな、オージはっ、」
「へえ。この子、オージっていうんだ。あ、もしかしてそれ東高の制服? おー、東高ってことはマジ頭いいじゃん。勉強教えて欲しー。ん? てか、じゃあ、おれ達と同い年じゃん!」
部員達の間から、おおお、と謎の拍手が沸き起こる。
全員の目がオージの姿を頭のてっぺんから足の先まで、というわけにもいかないので第三ボタンのあたりまで、何度か往復した。
数日前、たまたまこのファミレスの前の道路を通りかかったオージが「ナシ」判定を食らっていたことを思い出し、ひめかわの心臓は高鳴る。
(こ、こいつら、まさかオージの前でへんなこと云わないだろうな……)。
すがるような目でエースを見る。
たまにからかいのネタにされているが今日も今日とて立派にホスト顔だ。余裕たっぷりの笑み。いつの間にか背凭れに腕をのせ、それが、ひめかわの位置からはオージの肩を抱いているように見える。ほとんど反射的に「おいっ」とツッコミかけたひめかわの声は、部員達の一斉合唱にかき消された。
「ぶっさいく!」
県下の強豪西高野球部の二年生メンバーはこんなところでも嫌な団結力を見せてくれた。
「……ちょ、おまえらな」、ひめかわは非難するような目をエースに向ける。
「おい、エース、こないだと云ってること違ってんじゃん!」
ひめかわからの熱い視線をスルーしたエースはちょうど今気づいたように、
「そういえばオージくんって、ひめの元カノには全然似てないなあ。ひめ、もしかしてこういうブサ顔がタイプだったってこと?」
屈託無く、ははっ、と笑った。
投下。
どかーん。
ひめかわの視界が一瞬真っ暗になる。
「お、おいエース、お、おまえさっきから何云ってんだよっ。お、オージがアーサと似てないか、そ、そんなのべつに関係ねえだろっ」
テーブルに身を乗り出すひめかわにエースはたじろく様子一つ見せない。
それどころかますます楽しそうに片方の口角をニヤリと上げ、
「ひめ、有坂のことアーサって呼んでたんだ。へえ、仲睦まじい感じで、羨ましいなあ」
「ちょ、だから、……エース、」
「案外まだ、続いてたりして」
二発目投下。
ちゅどーん。
ぷすぷすと音を立てる焼け野原でひめかわとオージは向かい合っている。
云うまでもなく雰囲気は最凶。
エースに率いられた野球部員は「んじゃ、失礼しやした! ごっつぁんです!」と謎の挨拶を残し、離れた席へ移動してしまう。
二人きりに戻ったひめかわはおそるおそるオージを見る。
「お、オージ。な、なんていうか、い、いろいろと違うんだ」
「……違うって、何がだよ?」
オージはコップに残る水をくいっと呷った。
「だ、だから、その、今も続いてるとかそういうことは、無いから。……そ、それとっ、オージが本当はかわいくてきれいだって、おれ、ちゃんと知ってるからっ」
ひめかわは雨に濡れた捨て犬のような目をしてオージの一挙一動を見守る。
鞄の中に手を突っ込んだオージは財布から千円札を二枚取り出すとテーブルの上に並べ、席を立った。
「……オージ?」
「やること、思い出した」
二人の間には、千円札二枚と、試験の自己採点表、ベリベのアルバイト雇用契約書(いまだ記入なし)、の四枚が置かれている。
ひめかわはオージを仰ぎ見る。
めがねのレンズが反射していて、オージが今どういう顔をしているのかよく見えなかった。
「……おれ、おまえの人間関係に興味ねえし。おまえはおまえのやりたいようにやったらいいし」
じゃな、と立ち去りかけたオージは「そうだ」と三歩ほど先で立ち止まり、
「……あと、おれ、かわいいとかきれいとか云われんの、だいっきらいなんだよ」
顔面蒼白のひめかわを置いてオージは店を出て行った。
体のどこにも力が入らない。
数分経過後、ひめかわは震える手でエースに呪いのメールを送信した。
それに対する返信は以下の通り。
『雨降って地固まる。 ← この諺の意味わかる? わかんなかったら永崎にでもきいて。ひめ、ファイト! 一同より』
えええ。
エースさん、そういう配慮、マジ要りませんから……!
ふと見ると離れた席からエースとその他部員達がガッツポーズをしている。
「計画だったのかよ……」
ひめかわは携帯電話を握り締めたままずるずると椅子の上に横たわった。
憎むべき相手がいなくなってしまった分、かえって猛烈に泣きたい気分だった。
その数分後、エースからさらにメールが届いた。
あふれ出る涙のために視力さえ失われつつあったがなんとか文面を解読する。
『そういえばあのめがね、ぶ厚い割に度はほとんど入ってないんだな。目おっきいから、遠視用使ってんのかと思った。ひめ、知ってた? オージくんのほんとの横顔、すっげえ美人』
ひめかわにはエースが今にも崩れ落ちそうな吊橋の下で口を開けるワニのような動物に思われてきた。
絶対にそんなことはないだろうけど。
なぜならエースには現在大学一年生のお姉さん彼女がいるからだ。彼女とはエースが一年生の頃に付き合いだした。彼女は当時三年生の先輩で、西高の中でも一、二位を争う美女っぷりだった。最近二人が歩いているのを街中で見かけたことがあったが、その空間はまさに二人だけの愛の世界といった感じで、これが強豪西高野球部のエースか、とわけもなく感動したことを覚えている。文武両道ならぬ恋武両道というやつか。ちなみにエースは勉強もこなすわけだが。
って、そんなこたあどうでもいいわいっ。
橋の板と板の間から顔を出したひめかわは、
「オージの横顔、だと?」
息をおもいっきり腹の中に溜め込み、
「そんなのとっくに何回も見てるし、オージはどっから見ても誰が何と云っても本人が否定しようが、ほんとに絶対かわいいんだっ」
云ってやった。
090610