日出る処の東高。
日没する処の西高。
誰が云い出したか、学力の差を表現した辛辣な比喩だ。
県内一の進学校である東高の正門で、西高生・姫川一馬の姿はとりわけ人目を引いた。校舎から課外を終えた生徒達がぞろぞろと出てくる。
電柱の陰に身を潜めたひめかわはその中にオージの姿を探した。
(うう。また、いない)。
今朝、ひめかわの乗る電車にオージは乗ってこなかった。
ひめかわの故郷である農村が始発の、ちいさな二両編成。
春は菜の花畑を駆け抜けてきた。夏は新緑を、秋は豊作の稲畑を、冬は銀世界をがたんごとん行く。
ふたりが互いを認め合ってから数えると、四つある季節のうち一つと半分しかまだ経験していないが、ひめかわにとってその緑色の二両編成に揺られる数十分は二十四時間ある一日の内でもっとも欠けてはならない時間だった。
赤いプラスチック椅子の並んでいる駅からオージが乗り込んでくる。髪の毛がぼさぼさだろうが黒縁のめがねがぶ厚くて顔が見えないくらい不釣合いだろうが、152センチのそのちいさな体がいつものようにどこか面倒くさそうに乗り込んでくるとひめかわのテンションはオートマチックに上昇する。
その「欠けてはならない時間」が欠けてから、今日でもう三日目だ。
それは、先日ファミレスでエースに爆弾投下されてからの日数でもある。
『雨降って地固まる』。
ひめかわは携帯電話を開いてその一文を読み返した。おまじないみたいにそうしていないと、ひめかわはとても不安になる。ここ最近、朝からずっとこんな具合のひめかわのことを西高中が心配していた。本人はちっとも気づいていないのだが。
(裏を返せば、固まらなければ、ぬかるんだ、まま?)
オージにメールで謝ろうとも考えた。しかしひめかわはオージのメールアドレスを知らなかった。
「え、メアドも知らねえの?」
助言役のエースは困り顔のひめかわを前に呆気にとられたような顔をした。
「メアド知らなくて本人とも会えないんなら連絡の取りようがないじゃん」
誰のせいだ誰のっ。
と云ってやりたかったがエースが驚くのももっともだなと思った。
「……はあ。おれ、考えてみればオージの基礎、なんも知んない」
その認識が気分をいっそう重くする。
ひめかわの気持ちに同調してか、いや梅雨入りしたせいなんだが、天気まで悪くなってきた。
六月の天候は崩れやすい。
見上げた雨雲から大粒の雨が落ちてきた。
もうなんか泣きたい気持ちになってひめかわは鼻水をすする。
もしかしてもう一生会えないのかな。
滅入っている時は悪いほうにばかり考えてしまうものである。そもそもひめかわはどちらかに傾きやすい性格だ。心配し出すと止まらない。
たった三日間会えないだけでくたくたになっている自分はまだまだ甘くて、この先一ヶ月、一年、いやもう一生会えないかも知れない。
そんなふうに、思ってしまう。
迷子のように立ち尽くすひめかわを東高の生徒は遠目に怪訝そうに、しかし近づけば彼特有の「うざいんだけどなんかほっとけない」オーラに感化され、心配そうに通過していく。
「あ。あれ、エム・オーに載ってたひとだ!」
エム・オー? ああ、そういえばそんな名前の雑誌の取材を受けたこともあったな。
あの時はオージとまだ普通に話せてた。
それを思い出すとやっぱりひめかわは哀しくてエースが自分に与えた試練をまったく恨まないではいられなかった。
その時、
「あっ。やっぱ、ひめだ。おーい、ひめ! なにやってんのー?」
校舎から出てきた東高生が自分に向かってぶんぶんと大きく手を振っている。
おれ、この学校に他に知り合いいたっけ……。
迎えに来たネコバスを見上げるメイのような表情で、ひめかわは、駆け寄ってくる相手を見つめる。
洗剤のCMにでも抜擢されそうな笑顔。
「あっ。あんたはっ」。
思い出した。
そう、前に中央駅で出くわした、オージの同級生だ。
名前はまだ……知らない。
モ モ イ ロ ・ ス コ ー プ
「桐谷コウ。覚えてる?」
名前を聞いたのは初めてだったが、ひめかわはこっくりと頷いた。「……うん」。
「おれのことはさ、ニコでいいよ」
ニコ?
ひめかわが首を傾げると、
「おれの名前、キリタニコーじゃん。だから、ニコ。よろしくなっ、ひめ!」
ああそういう感じ。と手を打つとニコが「そ、そ」と笑って、つられたひめかわも笑った。
「クラスの女子がさあ、校門にかっこいい変態がいるって云うから様子見に来たんだけど、ひめだったか」
ふと見ると教室の窓から数人の女子が身を乗り出している。
ニコは手を振って「ともだち!」と教えた。
ともだち。
いつの間にか友達になれてしまった。
「今日は、どうした? ひびきなら、さっき裏門から出てったけど」
裏、
門。
「あ、ですか。って……そっちかっ! 待ち損っ!」
脱力するひめかわの肘を支えたニコは「んじゃそゆことで連行っ」と東高の校内へひめかわを引きずり込んだ。
(なぜこんなことに)。
数分後、西高生のひめかわは東高の一教室で東高生に囲まれて写メを撮られていた。取り囲んでいるのが女子だけならまだしも、半数ぐらい男子もまざっている。
「あ、あの……これは」
ひめかわが振り返るとニコは名前通りに笑って、
「ひめ、こっちでも結構有名人だよ?」
と、少し的の外れた返答をする。
「ひめー、今度こっち向いて」
思わず向いてしまう。
ひめかわの中で東高生に対するイメージが少しずつ変わりつつあった。これまでは、もっと硬派の集まりかと思っていた。
それにしてもおれはパンダか。パンダなのか。
というか、いつからおれは東高生に「ひめ」と呼ばれるようになったのか。
そしてきみたちはその写メをどうするつもりだ。
疑問は増える一方だった。
ひとしきり撮影会(?)が落ち着くと集まっていた生徒達はそれぞれ塾があるとかで出て行き、教室にはニコとひめかわだけが残った。
「……ニコは塾行かないの?」
「行かなくてもできるから大丈夫!」
「あ、さいですか……」
ひめかわは教室をぐるりと見渡し、なんとなく目に付いた、窓際の席に腰を下ろした。
そして、机の上の落書きに気づいた。
(おお。東高生の落書きってのはどういうもんなんだ? 拝見拝見っと)。
消された跡はあるのだが、消し方が不十分で、かろうじて読み取ることができた。
「ひ、め、か、わ、か、ず、……ん、おれっ?」
目を凝らしてみると書かれていたのは自分の名前だった。
がたん、と机を前に押しやり、教科書類何かその他手がかりを探すが中はからっぽだった。
教壇に座って自らも携帯電話で撮影したひめかわの写真を確認していたニコが物音で顔を上げ「おおっ。ひめ、さっすが」と感心した。
「そこ、ひびきの席」
えええっ。
声にならない叫びと共にひめかわは体を硬直させた。
「ま、マジですか」
「マジです」
かすれた声で確認するひめかわに、ニコは真顔でグっと親指を立てた。
「マジでマジですか」
「マジのマジだよ。だって、サイズちっちゃいだろ?」
そう云われてみれば。
徐々に実感が湧いてきたひめかわはおそるおそる机の上の落書きに顔を寄せた。
さっきと同じ文字が、間違いなくそこにあった。
ひめかわの目頭がじーん、と熱くなる。
ニコがいることも忘れ「オージっ」と叫ぶと頬ずりした。
「なあ、ニコ?」
「んー?」
「オージってここではどんな感じ?」
「どんなって?」、訊き返したところで、机の上に左のほっぺたをのせてによによしているひめかわを見たニコは吹き出した。
「ひめ、ひびきのことほんっと好きなんだなあ。なんかもういっそ微笑ましい」
「……うん。大好き」
「あ、隠さないんだ」
「……今、隠してる場合じゃなくなった」
だよな、とニコはけらけら笑った。
「おれも、そういうひめ大好き。えーと、ひびき? たぶん、ひめの知ってる通りだと思うけど。いつもあの格好だし、確かに愛想は無いな」
「……いじめられたり、してない?」
ああそれは絶対ないっ、とニコが断言したのでひめかわは安堵した。
「そっか。良かった」
「ひびきにちょっかい出すと会長に裁かれる。これ、東高の暗黙の了解」
「会長って?」
「響信哉」
ひめかわの体が反射的に、ぴくっ、となった。
ニコは続ける。
「ひびきが……って、あー、ややこしくなるからオージのことな。オージが転校してきたのって去年の今頃、だから、入学式の数ヵ月後なんだよな。詳しい事情は分からないけど、時期が時期で、それに、アノ格好だろ」
アノ、格好。
ぼさぼさ髪。ぶ厚いめがね。への字に結ばれた口。
ひめかわは大きく頷く。
「うんうん。アノ格好」
「で、アノ性格だし」
「うんうん。アノ性格」
「一言で云えば、すっげえ目立ったんだよ。オージは。その時、同じクラスに時田って男子生徒がいて。なんか、不良っぽいヤツで、目つきからしてヤバイっていうか、クラスメイトもあいつのすることには口出しできないって感じだったんだよな。親が暴力団の組長とかっていう噂もあったくらいだし。本当かどうか分かんねえけど、本当だったとしても、ああなるほどって思っちゃうかな」
東高にも不良っているのか。
ひめかわはその生徒を見てみたいと思った。
しかしニコの話し方からするとその生徒はもうこの学校にはいない様子だ。いったい何があったのだろう。
「で、時田がある日の休み時間、オージの席んとこに来たんだよ。オージは本読んでて、時田がちょっかい出すけど無視してるわけ。時田、その態度に腹立てて、オージの机、蹴ったんだ。でもオージはあいかわらず無視、だろ。ますます時田イラついて、オージの顔、いきなり殴ったんだよ」
「……は?」
ひめかわのおなかの中に、もやもやと不快なものが発生する。
「もう教室中が、シーン……って。オージのめがね落ちて、時田がそれ踏んで、割れちゃって」
その時の光景を思い浮かべてニコが眉を顰める。
ひめかわは上体を起こした。
「……で、その後、どうなったんだ?」
その後、とニコは天井を仰ぎ悩ましげな表情でゆっくり深呼吸し、すとん、と肩を落とすのと同時に表情を元通りにした。
「時田は、学校に来なくなった」
「……え?」
「オージを殴った一週間後くらいかな。時田、左腕骨折したんだよ」
「左腕?」
うん奇しくも左ってのはオージを殴ったほうなんだけど、と頷いたニコはひめかわの前に移動してきた。
「で、ここからが怖いんだけど」
と、半ばひめかわを怖がらせることを愉しんでいるように、
「学校集会で会長が……って、その時はまだ生徒会役員の一人だった信哉さんがさ、壇上で云ったんだ。打ち所が悪かったら命を落としていたかも知れません。みなさんはそうならないように気をつけましょう、って」
「……うっ」
さぞかし全校生徒は信哉を恐れただろうと思ったが、時田の言動に迷惑を受けた生徒はオージの他にも多くいたらしく、それ以来信哉の株が上がったそうだ。
「で、その後おれの友達が街でたまたま時田を見かけたらしいんだけど、階段から落ちたどころじゃなかった、って。顔面もあちこち腫れて、何かに怯えるみたいな目つきしてたみたいで。鼻のピアスがなかったら別人と思ってた、って」
「へえ……」
ひめかわの脳裏に、信哉の冷たい表情がぱっと浮かぶ。
以前、廃墟探検でオージが倒れた際、信哉のマンションに連れ込まれた時のことだ。
あの日無事に帰れたことは実は幸運だったのか。
信哉とオージ。
この二人、たまに、似ている。
警戒した、誰も寄せ付けない、隔絶のオーラを放つ瞬間は。
もしかして、同じ過去を、経験した?
「……ま、オージは人付き合いあんまうまくないってだけで時田みたいに害は無かったし。実は優しいとことか面白いとこ、あるんだよな。信哉さんの件を抜きにしても、実は結構好かれてるほうだよ。だから、心配すんなって」
そっか。
ニコの笑顔から視線をそらしたひめかわは呟いて机の上に目を落とした。
そこに自分の名前。
なあんだ。
何が?
なあんだ、オージ、だいじょうぶじゃないか。
ひめかわはいま自分の気持ちが沈んでいる原因を考える。
あ。
おれ、オージの良さについて自分だけが分かってるんだったら良かった、って思ってる。
その時、ひめかわの頭に浮かんできたのはまこっちゃんだった。
中学時代、いじめられていたひめかわに。
毎日ひとりぼっちだったひめかわに。
(おそろいだ)。
そう云ってくれた、まこっちゃん。
そうか。
おれ、誰かのまこっちゃんになりたいんだ。
ふいに黙り込んでしまったひめかわをニコは不思議に思いながら見ていたがどことなく誰かさんに似てあんまり沈黙を続けられないタイプなので、
「そういえばオージってひめにはよく懐いてるよな」
「えっ。どこがっ。たとえばっ」
がばっと顔を上げたひめかわの目は、さっきとは打って変わってこの上なく嬉しそうに輝いている。
「んー。ばかずまとか呼んでたじゃん。オージ、どうでもいい相手には絶対ああいうことしないはずだけど」
「なるほどっ」
「あとさ、おれが一番最初オージにひめのこと友達かって聞いた時、肯定してたじゃん。あれ普通だったら普通のことだけどオージにとってはすごいよ。本人認定とか」
「たしかにっ」
「それから、」
「それからっ?」
「ええと、それから……」
ひめかわが身を乗り出してくる分、反り返りながら、
「それから、ひめはまだ抹消されてないから、信哉さんも認めてるんだと思うよ」
ニコは満開の笑みを浮かべた。
ぎゃあっ、とひめかわは両耳に手を当て不吉な言葉を聞いてしまったかのように目を瞑る。
「抹消!?」
ひめかわが頭を抱えるとニコが「たまにはおれが協力したげる」と名乗り出る。
こうしてひめかわは東高内にオージ専用スパイもとい頼もしい友達をゲットした、のかも知れないのだった。
090613
護身術、習おっかな……念のため。 (byひめ)