天気は昨夜から崩れている。
西高2-B教室内もどんより暗く、蛍光灯の色がやけに白く感じられた。
ひめかわは数学の教科書に得体の知れない記号をぐるぐる描きながらオージのことを考えていた。
オージのこと。
オージとの、こじれてしまった、ような気のする、関係の修復方法について。
ぐるぐるのラインが重要な公式を塗り潰す。
「……あー、そろそろ会いたいっ」
授業中だというのについつい心の声が外に漏れてしまう。
周囲の女子から寄せられる熱い視線、男子から寄せられる好奇の視線、斜め後ろに座るまこっちゃんの心配そうな視線。そのいずれにも気づかないひめかわは無意識に、まるでどこかの誰かのように髪の毛をぐしゃぐしゃとかきまぜた。
モ モ イ ロ ・ ス コ ー プ
「限界デス。って感じだな」
机の上にひろげた弁当箱にいまだ手をつけていないひめかわのことを半分心配そうに、もう半分はやや呆れたようにまこっちゃんが見上げる。
目の下のくまと顔色の悪さから察するに、どうやら寝不足続きのようだ。
(無理もナイ……か?)。
にぎやかな弁当箱の中身との対比が痛々しい。
「はあ。まこっちゃん、おれ、オージ不足」
そう云うひめかわの瞼は半分落ちかかっている。
このままの状態があと一週間も続けば枯れてしまう、と云う。
あながち嘘ではなさそうだ。
「……だろうな。……んー、こないだ話してたニコってやつは? オージくんに何か伝言とか頼めないわけ?」
まこっちゃんの提案にもひめかわは力無く首を横に振るだけだった。
と、その時、隣のクラスから、まさに今回の仕掛け人であるところのエースがやって来た。
周囲に暗雲を漂わせているひめかわとは対照的に活力ある太陽のようなオーラを放っている。
彼の登場により、ぴかー、と音がしそうなほど2-B内は一気に明るくなった。
「よっ、ひめ。今日もおまえんちの園児弁当、見に来てやったぜ」
そう云ってエースはまこっちゃんとひめかわの間に割って入るように空いている椅子を引っ張ってきた。
弁当箱を覗き込み、おー今日もまたひめの母ちゃんすっげーの、とひとしきり感心した後、自分に向けられたひめかわの暗い目線に気づくと反射的にびくっと飛び上がるやいなや椅子ごと後ずさった。
「……おいっ、エースっ! よくものこのこと現れやがったなっ!」
「は、はいっ」
「……あんたのせいでなっ、おれは今すっげえたいへんなんだぞっ。何がどうたいへんかって云うとだな、すっごく、オージに会えなくなって、てかたぶんあっちから避けられててっ、電車ずらされててっ、裏門使われててっ、かと思えば昨日は正門でっ、すれ違ってっ、おかげでもう一週間くらい会ってなくてっ、メアドも知らないしっ、家に行きたいけどそこまでしたら嫌われそうだし怖いしっ、てかおれもうストーカーみたいだしっ、でも会いたいしっ、このままで終わっちゃうのやだしっ、なんかもうっ、希望持てなくてっ、生きてるだけですっげえ死にそうなんだっ、ばかあっ」
訴えるひめかわの目に涙が溜まってくる。
(あー。やっぱひめはひめだっだか……)。
まこっちゃんは苦笑いする。
そうやってひめかわが感情任せに内心ぶちまけている間にエースは体勢を持ち直して、
「てかさあ、ひめってさあ、ぶっちゃけさあ」
まこっちゃんが、お、とエースを見上げる。
いつの間にか周囲で聞き耳を立てていた他の生徒達もごくりと唾を飲んだ。
「オージくんにきらわれてる、とかじゃね?」
沈黙の中、誰かが箸を落とし、それが合図だったようにひめかわが額から机に突っ伏した。
「……この、どエスが」
まこっちゃんが横目で睨むとエースは前屈みの姿勢で肩を小刻みに揺らしながら、
「あー、ひめってほんっと飽きねえな!」
などと云って喜んでいる。
「そういうふうにひめのことイジんの、やめてくれないかな。結構っていうかだいぶ引きずるタイプだから」
「いやー、ごめんごめん。そうだよな、保護者の永崎にとっちゃ、とんだ迷惑だよな。ほんと、悪い。いや、ひめにもほんと悪かったなって思ってる」
「……ほんとかよ」
「いや、でもさ、可能性の一つとしてはっきり認識しておいた方がいいんじゃないのかな、こういうのは」
「余計落ち込ませるようなことをさらっと云うな、さらっと」
まこっちゃんが心底わずらわしそうに舌打ちすると、ひめかわの頭を撫でていたエースの顔面に「おや?」という笑みが浮かんだ。
エースはまこっちゃんの顔を下からずいっと覗き込むと、
「永崎もさ、本当はそっちのほうがいい、とか実は思ってんじゃね?」
もちろん、冗談のつもりだった。
それなのに、まこっちゃんの顔が、一瞬さっと青ざめた。
(な、んか踏んじゃった感じ……?)。
じゃそゆことで昼練行ってくるなー、とエースは極力能天気に席を立つ。
のーてんき、のーてんき。
すれ違う生徒達の会話が砂嵐のようにしか聞こえない。
それなのに、風の音は明確だ。
体育館へ向かう廊下でやっと一人きりになり、エースは壁にもたれた。
「なんだったんだ、今の」
動悸を抑えるようにシャツの胸元をぎゅっと掴む。
「……あれは、図星、のカオ。だったよな?」
自問自答する。
いやいやあれは一種の親バカのようなもので、こうやって立ち止まってどきどきするようなことを目撃したわけじゃない。
でも、と自己反論しかけてエースは途中で「あー、めんどくせー、これ以上考えるのやめとこ」と頭を切り替えた。
いいじゃないかもう。
たとえば永崎が。
ひめかわのこと。
、でも。
「……どうして好きになる相手ってのは誰も選べないもんなんだろうなあ」
目を瞑ったエースは自分のこめかみを人差し指の腹で叩いた。
「……って、これじゃまるでおれが永崎もしくはひめのどちらかを好きであるみたいな展開だがそういうのとは違うぜ。強いて云うならあのコンビが好きなだけであって」
誰へともなく弁解するように呟いていたエースは、ふと遠くから誰かに呼ばれたような気がして片方の眉を上げる。
「ん?」
振り仰ぐと教室棟の廊下の窓から身を乗り出したひめかわが「エースのばかやろー!」と、もう痛手から立ち直って叫んでくるところだった。
「……ほんとおもしろいな、あいつ」
そのまま目線を空へとやると、灰色の雲の隙間から水色の空が垣間見えた。
ひとしきり叫び終えたひめかわは生まれ変わったような目でまこっちゃんを振り返った。
「あー、なんか大声出したらすっきりしたーっ」
その言葉通りひめかわの瞳がいつもどおりに戻ったのを見てまこっちゃんは心の中で「やれやれ」と安堵のため息をついた。
「ひめのそういうとこ、おれ、すきだな」
席に戻って弁当の中身をがっつくひめかわを見下ろしながらまこっちゃんは呟く。
届いてもいい。
届かなくてもいいんだ、この言葉は。
「え? おれの、どういうとこ?」
しかしひめかわは聞き漏らさない。
ほっぺたに御飯粒をつけてぽかんとしているひめかわのマヌケ顔をまこっちゃんはむしょうにはじいてみたい衝動に駆られた。
しかしまこっちゃんは衝動を抑えることが得意だ。
それが理性だと考えているから。
だから、しない。
それが自分の感情を、抑圧する行為だと分かっていても。
「んー、やっぱ考え直させて」
奥へ進むのが怖い。
これ以上を求めてこれ以下になることが怖い。
いちばん傍にいるためには、いちばん我慢しなきゃいけない。
(どうしよう。おれ、もしも悪魔だったら)。
秋でもないのになんとなくセンチメンタルになるからにはこの感情はもう例のあれだった。
自分の拾った卵が孵化して。
餌を運んで。
世界ってのはさあ、きみが思ってるよりはずっと易しいんだよ。
って。
自分何様だってくらい偉そうに教えて。
あげて。
何かを、してあげて。
あれもこれも、してあげて。
自分が糸で。自分は鎖で。自分は絆で。きみの、絶対。
必要不可欠の生命維持装置。
そう思い上がっていたんだ。
でもきっと違う。
そうじゃない。
餌を運ばせてもらった、自分。
世界を語らせてもらった、自分。
何かを、させてもらって。
あれもこれも、させてもらって。
おれは糸で。
おれは鎖で。
おれは絆で。
ひめの、絶対。
それはただの、思い上がりだったんだ。
「与える」役を「与えてもらっていた」のは、自分。
「……まこっちゃん、どうした?」
はっと顔を上げたまこっちゃんの前に、ひめかわが何かを差し出していた。
二人の間にあるフォークに刺さっているのは、動物の形をしたウィンナー。
「はい、あげる」
「……今日もまたフォークか」
いい加減箸を持って来い箸を日本人ならっ。
しかしそんなひめかわのことを同級生の女子達が「かわいい」とかなんとか云って盛り上がっている。
まこっちゃんは目の前のウィンナーをじっと見つめた。
ひめかわが女子の相手をしている間にぱくっと口に入れてしまう。
フォークの先のウィンナーがなくなったことに、ひめかわはまだ気づかない。おそらくしばらく気づかない。
もぐもぐしながらまこっちゃんは窓の外を見る。
ついさっきまで曇っていたはずの空にはいつしか綺麗に虹のようなものが見えたが、まこっちゃんは誰にも教えなかった。
教えてしまえばその時それは、幻になる気がしたから。
だから、教えない。
だれにも、おしえない。
090618
エースなんか将来は牛乳しか飲めないホストになってればいいんだあっ。 (byひめ)