朝、姫川家の洗面所で、長男の湊が弟の一馬に問いかけた。
「……何やってんだ?」
「あ、これね、オージスタイルっ」
「王子スタイル……。流行ってんのか?」
「いや、これから流行らせんの」、次男の一馬はヘアワックスを指にすくった。
なかなかうまくいかねえもんだなオージはどうやってんだろ、と試行錯誤を繰り返す一馬の姿を湊はしばらく眺めていたが、やがて飽き踵を返した。
「ま、せいぜいがんばれよ。……時間の許す限りな」


シ ー ク レ ッ ト ・ シ ッ ポ A




電車を逃してしまったひめかわは遅刻が確定したことよりもオージに会えなかったことを理由として兄の湊に呪いの言葉を吐いた。
「くっそう、あいつ分かっててスルーしたっ。絶対わざとスルーしたっ。くっそうっ」
現在大学生の湊は「思い込んだらとことん」タイプである弟の一馬とは正反対に、理性的に行動するタイプだ。表情をあまり変えない分、落ち着いて見られることが多い。実際、よっぽどのことが無い限り常時落ち着いている。その上頭も切れる。ひめかわはこれまで何度も澄ました顔の湊にしてやられてきた。やる方もやる方だがやられる方にも非がある。とは云えやっぱり、
「教えろよっ」
しかしどうあがいてもオージに会えるわけではない。
ひとしきり湊を恨んだひめかわは「はあ」と肩を落とし、ラッシュが落ち着いた駅の構内を空腹の野良犬のようにとぼとぼ歩いた。
たった数十分時刻がずれるだけで構内はまるで違う駅のように見える。歩く人はまばらで、高密度のノイズや足音も聞こえない。
「そうだ。今日は午後から登校しよう」、ふと閃いたひめかわはドーナツショップに入って行った。
切り替えの早さだけは湊に勝っていた。

「あっ、何やってんの?」
「んっ、何やってんの?」
店内でお互いの姿を見つけたひめかわと松橋はほとんど同時に声を出した。
「だめじゃないか、松橋、遅刻じゃん」
「ひめもだろ」
「そか。だね。えへ。んー、松橋はどうしたの?」
「目の前で電車のドア閉められた」
「……あー、ってことはおれたち二人とも乗り遅れた同士ってわけか」
「で、そのまま学校行くのダルくってなんとなく足がこっちに向かって」
「うんうん。おれも」
西高制服の二人は向かい合ってドーナツを頬張る。
「こういうことするとなんか妙に相手が気に入っちゃうんだよなあ。親近感みたいなのが沸くからかな」
「それって共犯意識のことじゃね」
「あ、かも」
なんてことない、特にたわいない会話が一瞬途切れ、拍子に松橋が何気なく視線を落とすとひめかわはショップのポイントカードを所有していた。
「ひめ、ポイントで何か狙ってんの?」
「うん?」
ああこれね、とひめかわはポイントカードをひらひら振る。
「ハニィシッポのぬいぐるみっ」
えええ、と松橋は脱力する。
「男子高校生がぬいぐるみとか、要る?」
「だってなんかあれオージに似てんだもん」
男子高校生がぬいぐるみを欲することは全然不思議なことじゃないよ? なんで? どうしたの? 文句とか質問とかある? 答えようか? とでも云いたげにひめかわは平然と答える。
えええ、と云いながらも松橋は「でもそういうのってあるよなあ」と共感しつつもあった。
「だろ? あるだろ? そういうの」
「うん。あるな。確かに。一見そこまで似ているわけでもないのに、いやむしろ全然違うのに、なんか連想しちゃう、っていう」
「きっと決定的な部分で共通点があるんだと思う」
「ハニィシッポとオージくんに共通点? 似てなくねえか」
「いや、たとえばさ……えと、ちっちゃいとことかっ」
振り返ったひめかわはレジ奥にある【見本品】に熱い視線を送った。
「他には?」
「んー、ないっ」
「……ないのかよ。ちっちゃいとこだけじゃん。……動物のフェネックとかのが近くねえか」
松橋の言葉にひめかわは、ああそれっ、と声を上げた。
「そうそう、フェネック。あのかわいさがオージにそっくりっ。おれ昨日むしょうにフェネックが見たくなって携帯で画像漁っててさあ、なんでこんなにおれフェネックフェネックしてるんだろうって思ったら、そっかオージに似てるんだあ。つい待受にしてみた」
見て見て、とひめかわが松橋の前に差し出す携帯電話の画面は確かにフェネックだった。
そこに映っているフェネックの潤んだ大きな目が、オージのぶ厚いめがねに見えないこともない。
「……健全な男子高生の行動から徐々にかけ離れてきたな」
やっと辻褄合った、と晴れやかな笑顔を浮かべているひめかわを松橋は心配そうな目で見上げた。
(でも、ひめ、楽しそうだな)。
「……ま、ひめが良いなら良いんだろうけどな」
「なんかさあ、おれ、オージが良いのかハニィシッポが良いのか分かんなくなってきた」
「おいおい、それはまずいだろ。いろんな意味で。三つくらいの意味で」
ゆるいツッコミを入れつつ松橋はある事についてひめかわに話そうか話さまいか迷っていた。
「……まあ、そういうことなら、おれも、あるな」
迷って、決めた。
ひめに、話そう。
「こないださ、ひめに云ってた子いるじゃん?」
「ああ、夏のお嬢さん?」
いつの間にか名前は夏のお嬢さんだ。
決して本名でもあるまいが松橋はその代名詞に耳まで赤くして、
「その子さ、なんとなくだけど、オージくんっぽかったんだよな」
それを聞いたひめかわが、お菓子を横取りされそうになるのを嫌がる子供のように首を振った。
「ないない、絶対ないっ」
夏のお嬢さんを見たこともないくせにひめかわは云い切る。
「だいたい何をもってしてオージっぽいとか云うんだよ。松橋、オージのことバカにしてたくせに」
「……いや、それがさ、おれにもよく分かんなくて。でも、今のひめかわの話聞いてたら、どこか決定的な部分で共通点があるからそう思うのかなあ、って思えてきて」
「いや、ないと思う」
「だよな。ないよな。やっぱな」
「そうだそうだっ。おれのオージがっ、おまえの運命の人なわけないだろっ」
少しずつ論点がずれている。
はじめのうちは「だよなあ」と軽く流していた松橋だったがひめかわがあまりにもオージオージと連呼するので対抗心めいたものが芽生えてきてしまい、
「いや、ひめはちょっとズレてるからオージくん至上主義かも知んないけど、一般人から見ればおれのお嬢さんの方が絶対に3倍以上はかわいいと思うけどなあ」
根拠の無い数値を出し、松橋はドーナツにかぶりつく。
「おれがちょっとズレてるってどういうことだよっ」
その手から奪い取ったドーナツにひめかわがかぶりつく。
「え、賭けても良いよ? オージくんとお嬢さん、街頭アンケートしたら百人中九十九人はお嬢さんを選ぶね。ま、オージくんを選んだただ一人ってのはひめのことだけど」
「松橋はオージのほんとの顔見たことないからそう云うんだっ」
「ほんとの顔? あの、ぼさぼさ頭にとんぼのめがねのスタイル以外に何かあんの?」
へっ、と笑った松橋を睨みあげながらひめかわはドーナツの皿を自分のほうへ引き寄せた。

深呼吸。
おれ冷静になれ、おれ冷静になれ。
オージのほんとの顔を見たら松橋もオージのことを見直すに決まってる。
それはそれで困ったことだ。

(そうだ。おれだけが知ってるから、いいんだ、よし)。

急に黙りこくったひめかわに松橋は不安そうだ。
「……ご、ごめん。気、悪くしたか?」
根が優しい松橋の心配とは別の意味で無言のひめかわは「うんうん、そうだ」などと呟いている。 お詫びのつもりで松橋がドーナツを追加購入し、ひめかわは念願のハニィシッポまであと一歩というところまで近づいたのだった。





その夜、中央駅の改札出口で、私服の響信哉は人を待っていた。
左腕の時計で時刻を確認した信哉が再び改札を見た時、白いワンピースをまとった小柄な姿がまっすぐ視界に飛び込んできた。
松橋の恋する「夏のお嬢さん」と同一人物だ。
つばの大きい帽子が風に吹かれないよう、しっかりと手で押さえている。背中の真ん中あたりまである黒髪が少女の小走りによって軽やかに揺れた。

走り出した車の助手席で少女は人形のように俯いている。
運転席の信哉は、もう誰にも会わないから、と帽子をそっと取った。
「……だいじょうぶ、怖くない」
前の車のテールランプが、現実の上に、記憶が作り出す幻を重ねる。
手元が狂うのを恐れて信哉は目を逸らした。
(自分の、ほうが、大丈夫じゃないな)。
ワンピースの襟から鎖骨が覗いている。
男でも女でもあるような体つき。
人間は、視覚的なものに影響されやすい。
ただ、信哉の場合はそればかりではなかった。
彼の中で、彼の隣に座る人物が女のようにも、あるいは男のようにも見えることは、もう一つの決定的な、どう足掻いてもそれをなかったことにすることはできない位の強力な、記憶と、感触と、彼以外の人物とは共有することのできない思い出によるものだった。

「ただいま、信哉さん」

助手席の少女はほとんど表情を変えず大きな目を瞬き、次の瞬間、長い黒髪を『脱ぎ捨てた』。
対向車線のヘッドライトが少女、いや、少年の顔を一瞬強く照らし出した。

「……おかえり、オージ」

車は加速し、その身はシートに沈みこむ。


090624
王子スタイル、か……。ふむ。今度おれもやってみるか。 (by 湊)