ひめかわがジュースを買いに行っている間、オージは体育館裏にあるベンチに座り、付き添いのまこっちゃんがどこからともなく持ってきてくれたタオルに顔をうずめていた。
校舎側からは賑やかな笑い声や音楽が聞こえてくるが、オージの耳にはほとんど届かなかった。
「だいじょうぶ?」、ベンチ脇に立ったまこっちゃんに声を掛けられたオージはかろうじて「ほとんど」と返事をした。
めまいなんて久しぶりだった。
それはつまり、人ごみが久しぶりだったというわけで。
深呼吸のためタオルから顔を上げたオージはベンチ脇に立っていると思っていたまこっちゃんがいつの間にか自分のすぐ前に立っていることに驚いた。
「オージくん。って、さ」
距離を詰めたまこっちゃんの冷たい手がオージの顎を掴んだ。
「三年前の殺人事件の遺族だろ?」
セ ブ ン ス ・ パ ニ ッ ク
蝉が鳴き始めた。
一匹だけ、まるで静けさに耐えられなくなったみたいに。
いろはがるたのお手つきみたいに。
「……は? あんた何云ってんの?」
オージはベンチから立ち上がろうとしたが足元がおぼつかず無理だった。
「オージくんを初めて見た時、思った。週刊誌に載ってたアノ写真の子に似てる、って。まあ、あの号は出版元に回収の圧力が掛かって以来もう手に入らないだろうけどね、少なくとも正規のルートでは。……ひめは、事件のこと自体全然知らないみたいだったけど」
まこっちゃんの淡々とした語りは続く。
「でも、最初はまだ疑っていた。疑いが半減したのは、オージくんが本名を出してしまった時かな。宮沢大路。それってオージくんの改名前の苗字だろ。今は信哉さんの姓を借りて、東高では響を名乗ってる。オージくん、むきになると大切なことすっ飛んじゃうんだよね、たぶん。不意打ちに弱いし。それから、疑いがほぼ無くなったのは、あの日」
あの日。
それは、説明するまでもなく、三月末におこなった廃屋探検の日。
入り口でオージが倒れてしまい、計画はポシャった。
「……だったら、何だよ。おれが関係者だったら、何だよ?」
ペースを握られているのが気に食わないとばかりにオージがようやく口を挟む。
まこっちゃんは、自分は事実について知っているという手の内を明かす以外に他意は無い、ということを証明するかのように一歩身を引いた。
「信哉さんに直接聞いた話なんだ」
「信哉さんに? いつ?」
「オージくんが、倒れた日。おれとひめが信哉さんのマンションに一緒に連れて行かれた時。ひめは拒んだんだけど、おれは、聞いたんだ。ひめが、オージくんの傍に行った時」
「ところでこの暗い物語を、ほんとうにすべて聞くかい?」
(出典:「アンド・アン・アップル」)
「でも最初から信哉さんは話すつもりはなかったんだ、ほんとは。それでも話してくれたのは、信哉さんが、おれが事件についてある程度は知っているということに気づいたからだ」
そこでまこっちゃんは改めてオージの姿をまじまじと見つめる。
褪せた水色のベンチの真ん中にオージは座っている。
ぼさぼさの髪の毛。
ぶ厚いめがね。
完全防備の、ミヤザワオージくん。
きみの顔からめがねを外すことは容易い。
ぼさついた髪の毛を元のまっすぐに戻すことも容易い。
脳内でなら。
まこっちゃんはかつて幽霊として「見えていた」彼女の面影が目の前のオージの中に確かに存在することを確認した。
「何だよ、まこっちゃん。隠し事はやだやだ」
「うーん、偶然だとは思うんだけど」
「何。どうしたわけ」
「この長女の許婚の名前が、シンヤっていうんだ」
(出典:「マーブル・マップ」)
蝉の声が止む。
まこっちゃんは、ああこれで嫌われてしまったな、と肩を落とした。
その心配通り、オージは今までに聞いたことのないような低音で、
「……何が目的だよ」
その目は瞬きもせずまこっちゃんを睨み続けたので充血している。
(誰も、何も、信じない)。
ひめかわも同じ目の色をしていた頃があった。
まこっちゃんは肩の力を抜いた。
「目的っていうか、オージくんさ、だからもうひめのことでおれに遠慮しないでよ」
一瞬の間があった。
どの話がどこにどう繋がっているのかいないのか分からないでオージは眉間に皺を寄せる。
「ひめは本気なんだ。応えてあげてよ。悪い答えでも、良い答えでも、オージくんの言葉のまんまで」
「……何云ってんだよ、あんたワケ分かんね」
んー、と唸ったまこっちゃんは顔の前で両手を合わせた。
「このとおりっ」
「……いやいや、何がこのとおりなんだよ? だいたいおれがあんたに何を遠慮してるって?」
「オージくん、ほんとはすごく気を遣ってる。おれとひめが一緒にいる時、距離置いてるだろ?」
「……んなの、関わりたくねえからだよ、決まってんだろ。どうしておれがどうだっていいやつらに気い遣わなきゃいけねえんだよ」
「どうだっていい? 本当に? じゃあどうして今日ここに来たんだ」
咄嗟にいいわけができずオージは唸った。
ダメ押しするようにまこっちゃんが手を合わせたまま頭を下げる。
「おれ、オージくんが知られたくないこと知ってる。だからオージくんはもうおれに遠慮要らないんだ」
どういう理屈だ。
オージは頭を回転させたが結局分からなかった。
「嫌いなら嫌いだって云ってやって欲しい。でももしおれに気を遣って嫌ってんならやめてくれ。好きなら好きだって云ってやって欲しい。でももしおれや、おれとひめかわの関係に遠慮なんかしてそれが云えないってんなら、その必要は無いって、云いたかっただけ」
正直オージは混乱した。
まこっちゃんの云っていることは分からなかった。
まこっちゃんの云うことが概ね妥当であるならば自分がひめかわを欲しがっているように、少なくともまこっちゃんの目には見えるということだった。
正直オージは混乱していた。
ただ、まこっちゃんがまじめに云っているんだということは伝わった。
オージは握り締めていたタオルをまこっちゃんの目の先の地面に落とした。
「拾え」
頭痛は消えていた。
気分の悪さもだいぶ落ち着いている。
「拾ったら、ついでに顔上げろ。……永崎」
オージが初めてまこっちゃんのことを呼んだ瞬間だった。
(あ。おれ今ひめの気持ちすっげえ分かったんだ、たぶん)。
まこっちゃんは手を伸ばして土の付いたタオルを拾う。
その時、きっとタオル以外の物も掴んだ。
ゆっくりを体を起こして顔を上げる。
その先にまこっちゃんが見たのは、怒ったようなオージの横顔。
「ありがとう、オージくん」
「何がだよ」
「これからも、ひめをよろしく」
「……御免だな。あんな、躾のされていない犬みたいなやつ」
あいかわらずのオージにまこっちゃんは笑いを堪えることができなかった。
その時、ジュースを手にしたひめかわが戻ってくるのが見えた。
「お待たせ、オージっ」
少しは落ち着いた、と云いかけたひめかわの声が尻窄まりになる。
ベンチの背凭れにふんぞり返るオージ。
オージの前で体を起こすまこっちゃん。
二人とも何故か顔が赤い。
「……お、おれのいない間にっ! 二人のばかあっ!」
妄想の末に誤解という誤解を生み出し号泣するひめかわを落ち着かせるのにまこっちゃんは梃子摺った。
鼻水をすするひめかわをオージが「きたねえ」と一蹴する。
暴言は通常通りだった。
感情を隠さないひめかわを見ているとまこっちゃんはしばしば自分が人間味の無い人間に思えてくる。
だけど、思い出した。
「おれね、たぶん、オージを自分の物にしたいわけじゃないみたいなんだよね。なんていうかな、オージを取り巻く世界とオージが平和なら、その世界の中に自分がいなくてもいいと考えてる、っていうか」
(出典:「アンド・アン・アップル」)
おぼろに星の見える夜、そう語るひめかわの隣で、自分の気持ちにはいったんけじめが付いていて、後はもう、見守りたいというだけだったな。
見守りたい。
確かに、そう、思った。
そう、思うことは。
自分の気持ちを、殺すこと。
それでも、思った。
自分の気持ちを無視してまで、そう思えた。
だったらそれは、もう、自分が人間だという証拠じゃないのか?
素直に感情表現するひめを羨むことはない。
感情表現が素直じゃないオージくんを羨むことはない。
そう思えたおれが、おれなんだ。
「あー、保護者役も疲れる、な」
思い立ってまこっちゃんは自分のポジションに対する不平を口にしてみるが、それでも自分の気持ちにわだかまりはもう何も残らなかった。
炭酸飲料が飲めないオージ用のジュースついでにひめかわがわざわざ買ってきてくれたサイダーが、まこっちゃんの体を潤していく。
090703
いいなあ。まこっちゃん、オージに×××させてもらえて。 (by ひめ)
だから違うって何回も云ってるだろ。 (by まこっちゃん)
いいなあ。オージに×××させてもらえて。 (by ひめ)
あのさ、そのセリフ云って想像したいだけじゃないのか? (by まこっちゃん)
さすがまこっちゃん、おれのこと分かってるっ。 (by ひめ)
……。 (by オージ)