西高の七夕祭り、通称「七祭」が行われているその日の正午、姫川一馬はどういうわけか駅前公園内のトイレの前に立っていた。
手には先ほど信哉から手渡された黒い紙袋が提げられている。持ち手の部分は布で出来ていて、中は新品の上下一式だった。
ひめかわは途方にくれていた。
最初から途方にくれていた。
最初、と云うのは、信哉が西高に乗り込んでくるなりオージとひめかわを車に押し込み発車した時だ。
駅へ向かう車内でひめかわは「え、何?」「え、何ですか?」と、信哉とオージに対し交互に訊ねたがふたりはひめかわのことをさも煩わしそうに振り払うだけで答えは得られなかった。
そうこうしているうちに駅前のロータリーでオージと一緒に降ろされたひめかわは運転席の信哉から「ヘマはするなよ」とだけ告げられ、黒い紙袋を押し付けられた。オージは自らピンクの紙袋を選び取ると「行ってきます。信哉さん」と挨拶すると、そのまままっすぐと公園内にあるトイレに向かったのだった。
セ ブ ン ス ・ パ ニ ッ ク
「……待たせな」
トイレから出てきたオージの姿を見るなりひめかわは目をまんまるにした。
それから、スローモーションのようにゆっくりと顔を赤らめて、
「かあいいっ。女装オージ、超絶かあいいっ」
しばらく感激に震えた。
リボンの付いた帽子。
目の上で揃えられた前髪。
艶のある黒髪は肘の辺りまである。
あらわになったのは目が離せなくなるような裸眼。
表情だけいつものようにムスっとしている。
「松橋のお嬢さんってのもやっぱオージだったんだよなっ。髪は、付け毛だよな? ってかもう、オージってば似合いすぎっ。かあいいっ。あー、かあいいいっ」
お祭り気分が抜けないひめかわはスーツ姿の松橋をからかうノリでオージの周囲をぐるぐる回って脛を蹴られた。
「痛……っ」
ひめかわは大袈裟でなくしゃがんだがオージは容赦なくもう一度サンダルのつま先でひめかわを急かすように蹴り、
「……おまえも着替えんだよ、ばかずま。そのぼさぼさ頭もついでに元通りにして来い」
トイレへと押しやった。
数分後、ひめかわは真新しい真っ白なシャツの襟元をいじりながらトイレから出てきた。サイズはオーダーメイドで作られたかのようにぴったりだ。オージに注意された髪の毛も元通りにした。色は黒いままだが、流れは手櫛で適当に整えた。
(それにしてもおれの服は女物じゃなくて、良かった)。
「お待たせ。って、あれっ、いない。オージ?」
オージは、ちょうど日陰になっているベンチに座っていた。
幻のように見えた。
それは、ひめかわがかつて今のオージによく似た少女の幽霊を見たことがあることと繋がっているからかも知れない。きっとそうだろう。
ひめかわの接近に気づき、早かったな、と顔を上げたオージは一瞬呆けたような表情をした後ですぐに目を背け立ち上がった。
「……ひがさ。えっと、そうだ、日傘を買いに行こう」
「え? 誰の?」
「……おれのだよ」
「あ、そっか」
その後、駅地下の服飾雑貨屋でオージのワンピースに合わせた日傘を一本買った。会計の際、レジ横に掛けてあった長靴下のようなものをオージがじっと見つめているのに気づいた女性店員が「それ、紫外線対策用手袋なんですよ。今年は特に売れてます」と教えてくれたのでオージは躊躇わずそれもレジに置いた。支払いはオージの持っているクレジットカードで済ませる。ひめかわが「すげっ」と目を輝かせているのをオージは無視した。
「どちらへお出かけですか?」
女性店員が興味津々といった感じで質問してくる。オージはこの手の接客が苦手なのでひめかわが対応した。
「え、お出かけ? って……ああ、そっか」
見てみると確かに自分達の様子は旅行者だった。オージもひめかわも手荷物が大きい。中身は変装前の衣類なのだが傍目からはカップルで一泊二日の小旅行、といった風体か。
これが本当に旅行だったらなあ、と思いながらひめかわは避暑地として有名な高原地の名前を出してみた。富裕層の別荘などが多く建っていることでも有名だ。
「わあ、羨ましいです」
ちっちゃくてかわいい彼女さんも御一緒で、と店員がにこやかに云った途端、それまで俯いて会話を聞き流していたオージが帽子の下からデレデレ顔のひめかわを睨み上げた。
「……余計なこと喋んじゃねえよ。バカにされたじゃねえか」
駅のホームに入り電光掲示板を確認しながらオージはひめかわに文句を云う。
身長のことを云われたのが余計気に障ったようだ。
「え、あの人が笑ったのは素直にオージがかわいいからでしょ」
ひめかわは却って不思議そうに答える。
そういうところがオージには理解できない。
「それにしてもオージ、ぜんっぜんバレてないとこがすげえっ。おれじゃああはいかないもん。見るからに、はい男が女装してます! って感じになると思うし」
「……だろうな」
「てかオージ、腕とか脚の毛、薄いよなあ。睫毛は結構長いのにっ。も、どっちのオージもかわいいっ」
反省の色がまったく見られないひめかわにオージは溜息を吐いた。
電車の到着はまもなくだった。
行き先は、先程ひめかわが冗談で店員に告げた避暑地と方角的には同じだった。
買ったばかりの手袋を腕にはめながらオージが「暑いな。こんな感じか?」などとぶつぶつ呟いている。
「念入りだなあ、オージは。うちのクラスの女子より断然女子だし」
「御令嬢になりきるにはこれくらい、当然必要だろ」
「ん、御令嬢?」
「おれの役名。ちなみにあんたは、その恋人役だから。それらしく振舞えよ。さっきも云ったけど、余計なことは云うなするな。黙ってればだいたいそんな感じに見えるんだから。あんたは」
「うん、分かった。恋人役、がんばるぜっ」
詳しいことは分からないが、オージと一緒に遠出できるのだ。
なんだかミステリーツアーにでも参加したような気分だった。
中央駅発の鈍行電車に揺られること一時間弱。
オージに連れられてひめかわが降り立ったのは、観光地でも何でもない、大雨が降れば確実に雨漏りしそうな寂れた無人駅だった。
そこから林に入り歩くこと十五分ばかり。
オージのピンクと自分の黒。二つの紙袋を肩にひめかわが、咽喉渇いてきたな、と思い始めた頃だった。
「着いたぞ、ここだ」。
オージが立ち止まったのは、どう見積もったって大人一泊ン万円はするような旅館の門前だった。一見、築造から長い年月を経ているように見えるが近づくと瓦も壁もそんなに古い様子ではない。それどころかここ数年の間に建てられたようにも見える。
鬱蒼と茂る緑の中、突如現れた建物の塀の長さにひめかわはただ「はあ」と声を漏らすばかりだった。
「……え、っと。ここに、泊まんの? おれ、ぜんっぜん金無いんだけど。財布、学校だし。カードとか持ってねえし」
ひとまず荷物を肩から下ろした汗だくのひめかわをオージは涼しい顔で振り返る。
新品の日傘が肩の上でクルっと回った。
「……あんた、何云ってんだよ。宿泊はしないし、だいたいここは旅館じゃねえよ」
そう云われて見てみればなるほど入り口には旅館名らしきものは掲げられていない。
その代わり。
「あ……」、ひめかわは思わず声を漏らしていた。
宮沢、と書かれた表札が掛かっていた。
「おれの実家だよ」、クルっと日傘を回してオージが前を向き直る。
「ほ、ほんもののお金持ちっ」、荷物を担ぎ直したひめかわが遅れて後を追った。
間も無く玄関があるものとひめかわは思ったがまだ先のようだった。しばらく砂利道を歩くことになる。道の両脇は人の手によって手入れされた樹木が茂っていた。日差しは相変わらず強く照るが空気は冷たい。ひめかわの全身に滲んでいた汗も少しずつ乾いていった。
「なあ、オージ」
「……ん?」
「信哉さんは、ここまで来られないのか? その、この前もだったけど、駅までしかしてくれないだろ、送迎」
何故そんな質問をしたのかひめかわは自分でも分からない。少しでも本質と関係の無い話をしたかったのかも知れない。
不安のような期待のような、まだ正体の分からない世界に向き合っていると。
「……ああ、信哉さんは、宮沢所有の土地への出入りを禁止されてる。この建物だけじゃない。おんぼろ駅、あっただろう。あの付近の土地も宮沢の物なんだ。さっきまでの、林も」
「でも、どうして禁止されてんの?」
「よそで作られた子だから。見るからに西洋混じりだろ。顔立ち、体形、目の色」、オージはあっさりと答える。
ふとひめかわは信哉の暮らしているマンションの一室を思い出す。高校生が一人で暮らすには豪華過ぎた。あの場所は、宮沢から与えられたものなのかも知れない。
ひめかわがこれを機としてさらに質問しようとするのをオージの声が遮った。
「ひめかわ。確認テストだ。あんたの役は?」
「オージの恋人役っ」
「……自信満々に嘘吐くんじゃねえ」
「えっ。違ったっけ、あれっ」
俯いて歩くひめかわは突然立ち止まったオージの日傘に当たって跳ね返った。
日傘が閉じられる。
帽子を脱いだオージはすでに別人になりきっていて、邪険そうにひめかわを振り返ったりもしない。何かを難しく考えすぎて眉間に皺を寄せたりもしない。
演技は本物よりも本物らしく、肉体の器に対する人格という内容がまったくすり替わってしまったかのようだった。
「少女」は自信に満ち、丁寧に、礼儀正しく、美しく微笑んだ。
「……宮沢小町。それが私の名で、お前は私のボーイフレンドだ」
狐につままれたような顔で立ち尽くすひめかわをそのままに、宮沢小町は玄関の戸に白い手を掛けた。
090709
あいつら今頃大丈夫だろうか。心配だ……。 (by 信哉)