ひめかわとオージが宮沢家の敷居をまたぐ頃、西高美術室は東高生徒会長に占領されていた。
「あの、信哉さん。ここでオージくんからの連絡を待つってのは大いに結構。なんですが、」
「なんですが、何?」
窓から外を眺めていた信哉は、煙草の灰を流しへと落とした。
綺麗な吸い方するな、と妙なところに感心したまこっちゃんは慌てて首を左右に振った。
「じゃなくて。えーと。なんだっけ。あ、そうそう。信哉さんって、東高の生徒会長さん、ですよね? 生徒達の模範となるべき立場の人が校内で喫煙、ってのは、ちょこっとだけマズイんじゃないですか?」
信哉は自分の指に挟んだ煙草に目を落とし、まこっちゃんの顔をぼんやりと見返すと、
「でも、ここ、東高じゃないよ?」
(……真顔で!)、まこっちゃんはがっくり肩を落とした。
マジなのか天然なのか。
ったく。
二人のやり取りを傍で見ていたニコがいちご味のミルキーを口の中で転がしながら笑う。
「あははっ、まこっちゃん、分かってないね」
「は? 分かってない?」
そ。と、まこっちゃんの顔にニコの顔が迫る。まこっちゃんはやや仰け反った。
「うちの生徒会長、悪党だよん」
ですよねっ、と振り返り同意を求めるニコに信哉は目もくれなかった。
まこっちゃんは二人に背を向けるとパネルに付いた指紋の掃除をすることにした。
ニコはその背中に向かって構わず続ける。
「でもさ、オージの云うことなら聞くよ。だってオージは信哉さんの、」
その時、だんッ、と大きな音がした。
まこっちゃんが反射的に振り返る。
見ると信哉の踵が、ニコの座る机の上にあった。
「……えーと」、まこっちゃんは自分のこめかみを人差し指でぐりぐり押した。
「細かいことはもう云いませんので、備品を壊すことだけはしないでください」
まこっちゃんが懇願するのとニコがワンテンポ遅れて「あっぶねっ」とおもしろそうに笑うのとはほとんど同時だった。
セ ブ ン ス ・ パ ニ ッ ク
ひめかわとオージが今いるのは宮沢邸の中でも一番南に位置する和室の入り口だった。
中庭に面した縁側には、萌黄色の和服を着こなした白髪の女性が、きちんと正座して外を眺めている。
「おばあ様、こんにちは」
「あら、小町さん。入っていらっしゃい」
オージに気づくと相好を崩して歓迎する。
年を重ねた分、若者と変わらぬぴちぴちの肌、というわけには流石にいくまいが、明らかに美人の造作だった。
なんだか皇族に居そうな雰囲気だなあ、とひめかわは安易な感想を抱く。
「えっと、おじゃまします……」
「あら。そちらの方は?」
硬直したひめかわの横でオージがしれっと「ボーイフレンドの姫川。先日話しただろう。大学院で教鞭を取ってるんだ」と紹介する。
ムリムリその設定無理があるっ、と心内穏やかでないひめかわだったがおばあ様は疑問など微塵も抱かなかったようだ。
「こ、こんにちは、はじめましてっ。姫川一馬です、よろしくおねがいしますっ」
「こちらこそ、はじめまして。あら、近くで見るとハンサムなお顔なのねえ。背も高いし、お隣の小町さんがお雛さんみたいに見えてバランスが良いわあ」
(でっすよねっ!)。
自信を得たひめかわは俯きがちだった顔をぐいっと上げた。
おばあ様の顔立ちがよりはっきりと分かった。
(あ、足りない)。
ひめかわは、おばあ様の薄鈍色に澄んだ瞳には視力がほとんど残っていないことを知った。焦点がずれた眼差しのせいだった。
「今ね、お菓子をね、いただいていたの」
おばあ様が手招きするのでオージとひめかわは縁側まで出ておばあ様の横に正座した。
おいしいお菓子をね、と膝の前に差し出されたものを見てひめかわは唖然とした。
葉の上に、泥がのっていた。
いやでもこれ実はどこかの老舗店の高級和菓子かもしんないしっ、と手を伸ばしたひめかわの服の袖をオージがぐいと引っ張った。
「……ばか、食えねえしっ」
「え、でも、だって」
「……いいから、じっとしてろよ、ぼけっ」
ひめかわの手を引っ込めさせたオージはおばあ様に向き直ると声の調子をすっかり変えて、
「ありがとう、おばあ様。ところで私達からの御土産も召し上がっていただきたいんだが」
そう云ってピンクの紙袋の底から葛餅を取り出した。
いつの間に買ったのか、それともこれも信哉が準備したものなのか。
「まあ、嬉しい。今日はいくらでも甘いものが食べられそうな気分だったの」
オージはほっと胸をなでおろす。
ひめかわはおばあ様の襟元に目をやる。少量の泥がこぼれていた。
ひめかわはなんだか哀しい気持ちになった。
自分の祖母を思い出したからかもしれない。今は亡きひめかわの祖母も、何でも口に入れてしまって、介護する娘の峰子をハラハラさせたものだった。
「えっと、じゃ、おれもいただきまー……」
付属の匙ですくった葛餅をひめかわが口に入れようとした時だった。
「お前は出て行けっ」
おばあ様が突然険しい顔で怒鳴ったのでひめかわは匙を持つ手をぴたっと止めた。
「早く出て行けっ」
薄鈍色の視線の先を辿る。
しかしそこには、壁以外、何も無かった。
「この部屋から、出なさいっ」
何か分からないが出て行ったほうがいいぞおまえ、とひめかわが正体不明の幻に対して思った時だった。
おばあ様の顔は再びすっきりと晴れやかになり、
「はあ。顔は小町とそっくりなのになんだか好きになれない子だねえ、大路は。悪戯ばっかりして。さっきも泥まみれで入って来ようとしたもんだから、追い出してやったよ」
ひめかわは困惑してオージの表情を盗み見る。
「それに比べて、小町はできた子だ。あなたは宮沢家の大切な跡取りだからねえ」
高価な萌黄色の着物に、どこにでも売ってあるような葛餅の甘い染みが、水に落とした絵の具のようにじんわり広がっていくのを、ひめかわはじっと見ていた。
水を溜めたパレットに吸殻を落として、信哉は窓際を離れた。
体育館のバンド演奏見てくるっ、と云ってニコは数分前に美術室を飛び出していった。
生徒達のほとんどがそちらへ集まっているからだろう、校舎内は一時ひっそりと静まる。
まこっちゃんと信哉だけが残った美術室も閑散としていた。
外からはあいかわらず賑やかな声が聞こえてくるが、その遠さがかえってこの場所の静けさを引き立たせる。
「永崎。今更だけど、あの時お前にオージのことを話したのは監督責任を持ってもらうためだからな」
「監督責任」
「ひめかわのことだよ」
信哉は、まこっちゃんの横を抜け、一枚のパネルの前に立った。
「おれはオージを守ることで自分を守ってる。オージが痛いと、おれも痛い」
長い指が、写真に映っている建物の輪郭をなぞる。
手術の執刀のように。
麻酔なんかない。
「すごく、痛い」。
お前もそんな感じなんだろう、と問われたまこっちゃんは、まさか自分は、と云いかけたが、すぐに、その通りだ、と考え直した。
ひめかわが痛いと、おれも痛い。
記号に収まらない、感情のせいで。
「オージが傷つくことに、おれは耐えられないんだ。それはおれがあの事件のことで決定的に引け目を感じている部分があるからだ」
引け目、とまこっちゃんは繰り返す。
信哉はポケットから携帯電話を取り出して着信がなかったか確認した。その仕草をまこっちゃんはこの美術室でもう何度となく見かけた。潔癖症の人間が何度も手を洗うように、何度も携帯の着信履歴を確認する。そして何も無いことが分かると安心したように画面を閉じる。
今回も携帯はパチン、と閉じられた。
「つまり、ひめかわが原因でオージに何かあったら、ひめかわが無事である気がしない。そう、忠告したかった」
黙って聞いていたまこっちゃんの頬がその言葉で、ぴく、と引き攣った。
「それを云うなら、こっちだって、同じですから」
しばらくふたりは睨み合った後、何してんだか、と我に返り肩の力を抜いた。
「まあ、保護者会ってとこだな今回は」
「ええ、そんなところでしょう」
まこっちゃんが頷いた時、信哉の手の中の携帯が震えた。
「……オージ? ……分かった。じゃあ、駅前で待ってる」
パチン。
携帯が閉じられる。
行って来る、とだけ云い残して足早に美術室を去っていく信哉の後姿を見送ったまこっちゃんはさっきまで信哉の指が触れていた写真の上に自分の手を置いた。
三年前に殺人事件のあった邸宅。
当時十三歳だった少女、宮沢小町は学校から帰宅してすぐ玄関先で刺殺された。
犯人はその後間もなく外出先から帰宅した小町の両親も順次殺害。
玄関と廊下には血を流す三体の遺体が並べられた。
遺体の第一発見者は当時十三歳だった少年。
試験成績を理由に補講を受けていたため幸いにも帰宅が遅れ、犯人と遭遇することは無かった。
少年の名は、宮沢大路。
宮沢小町の、双子の弟。
090709
てか信哉さん、電話出るの、めちゃくちゃ早っ。 (by まこっちゃん)