中央駅の裏道を入った所にそのお店はある。

『準備中』の札の掛けられた店内。
窓ガラスを通して差し込む夏の光が、カウンタに置かれた雇用契約書の文面を淡く浮かび上がらせていた。
オーナーとオージは向かい合っている。
外国銘柄の煙草を燻らせつつ、テーブルの上の雇用契約書を手にしたオーナーは目を細めた。
オージに同行したひめかわはなんとなく気を遣って店の一番奥からおとなしく面接の様子を眺める。

「ひびき、おーじ。これが、きみのフルネームなんだね」

雇用契約書に目を落としたままオーナーが確認する。
目の前の相手とは一度だけ面識があるとはいえ、人生初めての面接にオージは内心緊張しながらこくりと頷いた。
オーナーは目線を滑らせる。
雇用契約書の右上、証明写真の欄には何も貼り付けられていない。

オージとひめかわは通学に使うのと同じ電車で今日もここまで来た。
中央駅を出てすぐに証明写真機があったがオージの写真嫌いを知っていたひめかわはオージに「ま、お金もったいないし」と、励ましのような言葉を掛けた。この夏休みバイト自体あまり乗り気でなかったオージは返事もしなかった。悔しかったのは、そもそもここでバイトしなければならなくなった原因の一端が確実に自分にもあることだった。

「めがね、外してもらえるかな。一度だけ」

オーナーの言葉にオージは一瞬躊躇った。
思わずひめかわのことを振り返りそうになり、なんでひめかわなんだよ、と心の中で自分自身にツッコミを入れる。
深呼吸した後、オージはめがねの縁に手をのばした。

まじっ。
小さく叫んだひめかわは席を立つと大急ぎでオージの前に回り込んだが間に合わなかった。
くそうっ、見逃したっ。
心底悔しがるひめかわの頭をオーナーの大きな手が、ぐい、と横に押しやった。

「じゃ、オージくん、夏休みの間、しっかり頼むよ」

灰皿に煙草を潰して立ち上がったオーナーは、カウンター内に戻ると、冷蔵庫から瓶のオレンジジュースを二本取り出し、テーブルに置いた。

「仕事は全部、一馬が教えてくれるから」

あ、採用された。

そのことにオージが気づいたのは、隣に座ったひめかわが栓抜きでオレンジジュースの蓋を開ける、ぽこん、という爽快な音が店内に響いた直後だった。

「えー。おっちゃん、今年もいないの?」

瓶の残りを既に5分の1ほどに減らし、まだ口の付けられていない瓶を、つつつ、とオージの前に寄せ、ひめかわは残念そうな顔をする。
日本から遠く離れたとある国へ旅に出るというオーナーの話し声を聞き流しながらオージは先程の、オーナーの自分を見る目を思い出していた。

(きみは、強いな)。

ひめかわには聞こえなかったであろうその言葉。
オージの瞳をじかに見たオーナーはそれだけ云って二度ほど微かに頷いた。

握った瓶はひんやりと冷たい。
オージはしばらく考えた後、考えるのを止めて、瓶に口をつけた。
隣でひめかわが「なあ、オージ、夏休みはおれたち二人の店だってさっ」とはしゃぐ声をうんざりした気持ちで聞きながら。


ブ ル ー リ ー ・ オ レ ン ジ




三年前のあの事件を機に、オージの身辺は大きく変わった。
引越。改名。転校。
事件の遺族であることを話したところ何校かに入学を断られたが、東高へはどういうわけかスムーズに入学できた。当時すでに東高の在校生だった信哉が絡んでいることは想像に難くないが、その件についてオージは深入りしないことに決めていた。訊ねたところで「オージは何も心配しなくて良いから」の一点張りだったろう。
ようやく学生生活に戻ったオージだったが、新しい名前に慣れない内は何度もミスをした。今でも試験用紙に記名する時は名札を何度も確かめる。
そんなオージだから名前に関する話は好きではない。ボロが出そうな気がする。
もともと、オージ、という下の名前も好きではなかった。
小町と大路。
女系宮沢において権威は代々長女に属するものと決まっているが、名前に関してはその逆だ。つまり、男児の産まれた場合はそちらにより利のあるものが与えられる。何かと変わった決まりごとの多い一族だが、女性主流の家柄における、男性に対するせめてもの見返りといったところか。その宮沢独特の待遇が込められている分、響姓に変わったところでオージは宮沢を意識しなくてはならない。

「……お前ら」
テーブルを二つくっつけて店内奥を占領している五名の男子高生をオージは睨んだ。
西高のエース。
西高の松橋。
西高のまこっちゃん。
東高のニコ。
そして、
「て、おい、ひめかわっ。なんでお前までフツーに混じってんだよっ」
客として訪れた私服姿の四名に混じりへらへら笑っているエプロン姿のひめかわに向かってオージは叫んだ。
「あはっ。ひめ、怒られちゃったね」
前にケーキの皿を並べたニコがけらけら笑う。
トレンチを脇に抱えたひめかわは兵隊のようにぴしっと立ち上がるとオージの立っているカウンタ前に駆け寄り、
「もー、さみしいならオージも混ざればいいじゃんかっ」
反省しない笑顔を浮かべた。
「……ぜってえ混ざらねえし」
オージはむきになって断言する。
その時、店のドアが開く音がした。ひめかわが振り返ると、そこには大きな体が二つ、なんだかすでに申し訳なさそうに立っている。あまり広い店内ではなく天井も低めなので二人はあたかもホビットの家に入ってきた人間の様子を呈していた。
「お。田山に水木じゃんっ」
ひめかわの歓迎に二人は「ども。自分達も、宿題しに来ました」と太い声で挨拶した。
エースと松橋が「お、来た来た」と手招きしている。
「……ここは誰かの部屋かよ」
眉根を寄せたオージの周辺が一瞬暗くなる。
ん、と顔を上げると田山と水木がカウンタの前に立ち、オージのことをじっと見下ろしていた。
「……な、なんだよっ。おれは仕方無くバイトしてんだよっ」
動揺してしまい意味不明のいいわけをするオージに田山と水木は揃って頭を下げた。田山のほうが勢いが付いてしまい、テーブルに額のぶつかる、ごん、という鈍い音がした。
「オージさん、すんませんでした!」
「……な、何が?」
「先日は、オージさんのことスパイと勘違いして、ひどいことしてしまいやした。それ、ほんまに、すんまへんでしたっ」
「……言葉遣いおかしくねえか?」
「ほんまに、すんまへん」
そう云って田山と水木は自らの額をテーブルにめり込ませようとしているとしか思えないぐらいふかぶかと頭を下げ、いや、めり込ませる。
「……もう、いいし」
後ずさりながらオージが呟くと、様子を見ていたひめかわが田山と水木の肩を叩いた。
「良かったな、お前ら。オージ、もう怒ってないみたいだぜ」
ようやく安心したのか顔を上げた二人は最後にもう一度深く頭を下げ、奥へ入って行った。
増えたってことだな、とオージは溜息を吐く。

「なあなあ、ニコちゃんてさ、いつから甘いものそんなたくさん食べれるようになったわけ?」
壁際を陣取ったエースがアーモンドフレーバーのラテを飲み干し訊ねた。
「うーん。小二からかな?」
両手に持ったフォークでそれぞれ別のケーキをつつきながらニコが顔を上げる。口の周りにはさっき食べ終えたショートケーキのホイップクリームが付いたままだ。
「でもさ、そんだけ食べて太らないのってすげえよな」
数学の教科書に肘を突いた松橋が身を乗り出す。
テーブル越しに二の腕を摘まれて身をよじったニコの手のフォークが、隣で静かに読書していたまこっちゃんの頬にモンブランのクリームをくっつけた。
「あ、ごめんっ。まこっちゃんっ」
ニコが慌てて拭く物を探す。
いや別に、とまこっちゃんは自らのポケットからハンカチを取り出した。
「いや、永崎さん、ハンカチを持ってらっしゃるとは。それも、ごく自然にお使いになれるとは、すばらしいっす。男の鑑っす」
そう云う田山は額に浮かんだ汗をタオルで拭っていた。
田山の向かいに腰掛けた水木は一堂をぐるりと見回すと、ニコの上で目を留めた。
「あの、自分、宿題教えてもらいたくて、えっと、あの、あなたに、」
「あ、おれの名前? ニコだよ」
「ニコ?」
「桐谷コウ。だから、ニコ。わかった?」
その説明に「へええ」と声を上げたのは松橋だ。
「てっきりニコニコしてるからそういうあだ名が付いたのかと」
「あ、それもあるかもね。おれ、真顔でもこんな顔だし。毎日幸せそうだねって云われる」
そうでもないけどねー、とニコは幸せそうにケーキを頬張った。
「いいなあ……」
急に沈んだ松橋をニコが見上げる。
「え、何。どうしたの?」
「いや、おれってさあ、松橋だから」
「ん?」
「みんな、あだ名っていうかそういうのちゃんとあっていいなあ、って。エースだろ、ひめだろ、オージだろ、田山と水木は後輩だから良いとして、永崎でさえまこっちゃんだもんな」
「……でさえ、ってどういうことだ」
読書感想文用の原稿用紙に書きつけ始めていたまこっちゃんがこめかみをぴくりとさせた。
「あと、オージくんのオージはあだ名じゃなくて本名だぞ」
あ、そっか。
手を打った松橋はカウンタに目をやったがそこにオージの姿は見えなかった。それでもカウンタ席のひめかわが身を乗り出して何か話しかけているところを見ると、そこにいることはいるのだろう。

「てか、ひめ、でれっでれだな」
松橋の言葉に全員が目を向ける。
カウンタに上体を預ける姿勢の尻にふさふさ左右に揺れる尻尾が見えた。全員の目にもれなく。
「つい去年の今頃まで、まこっちゃんまこっちゃん、だったのになあ?」
グラスの氷を回しながらエースがひめかわの口調を真似して云う。
まこっちゃんの身が一瞬反応するのを見るのが面白かった。
「ひめも成長した、もんだねえ。ほんと」
追い討ちを掛けるようにエースが云うと、原稿用紙に向かっていたまこっちゃんの顔がゆっくりと上がった。
「……そういやエースの本名って何だっけ」
あーそういえばっ、とニコがまこっちゃんの言葉に頷く。そのネタには松橋も乗ってきた。田山や水木まで興味津々といった目を向けている。
ひみつ、とはぐらかしながらエースは飲み物のおかわりを注文した。
やり返してきたな今日は、とまこっちゃんを見るとまこっちゃんは何食わぬ顔をしてペンを動かしている。

その後、日が落ちるまで男子高校生の話は尽きなかった。
それぞれ持ち込んだ宿題がほとんど進まなかったことは云うまでもないだろう。
「……こんな感じでいいわけ?」
五時に店を閉める頃、オージがひめかわに訊ねる。
テーブルに残された皿やグラスを片付けながらひめかわは「うん。だいたいこんな感じ」と答えた。
洗い物を拭きながらオージは「すっげえヘンな店」と呟いた。
店内に差し込んでくるのはオレンジ色の光だ。
ふと顔を上げ、通りに面した窓を見たオージは小さく声を上げた。
「……午前中は、青いガラスだったのに」
その声にひめかわも同じように窓を見て、
「ああ、あの青ね、向かいの建物の壁の色。と、もともと照明の青み強いからね。で、これは西日の色。ガラスは最初から透明なんだよ」
簡単な種明かしをされてしまった。
オージは、ぷん、とよそを向いた。
「ねえねえ、オージ。オージって、お皿拭いたことないの?」
は、と問い返すオージ。
「手つきが不器用だなあ、と思って」
「……うっせえし」
「いや責めてんじゃなくて、かわいいなあ、と思ってっ。オージ、意外と大雑把だよね。色々」
「……だからそういうのが、うっせえしっ」
だいたい、とオージは続けた。
「だいたいこのくらい拭いとけば乾くんだよ」
そう云ってオージは脱いだエプロンを、ぽい、とテーブルに投げ出した。
ひめかわが皿の拭き方に関して何かごちゃごちゃ云っているのを無視した。
「……オージ?」
テーブルに突っ伏したオージの姿を見たひめかわはカウンタに入ると冷蔵庫を開けた。
「……何やってんだよ、ひめかわ」
はいお疲れ様のオレンジジュース、と目の前に差し出されたものは今朝と同じ、瓶に入ったオレンジジュースだった。
「……売り物だろ」
そう云いながらも、ひめかわが栓抜きで蓋を取ると咽喉が鳴った。
「はい、オージ。お先にどうぞっ」
差し出された瓶を受け取ったオージは、やけに気が利く、と訝しがりながらも半分ほど飲んだところで瓶を置いた。
するとすかさず瓶を取り上げたひめかわが残りを一気に飲み干し、
「はいお疲れ様のチュー」
「……ひめかわ」
「チューもらっちゃったっ。もらっちゃったっ」
勝手に決め付けてはしゃいでいる。

元気だな、バカは。
店内をスキップするひめかわから目をそらし、オージはもう一度机に突っ伏した。
初めての立ち仕事で肉体が程良く疲れていた。
体に流れたオレンジジュースが内側から熱を冷ます。
窓から流れ込む西日はもう位置を変えていた。
組んだ腕に顔をのせてオージは蝉がじゃわじゃわ鳴いているのを聞いていた。


090808