「ハロー」。

面識無い上級生から。
いきなりそんなふうに声を掛けられたら、きみならどうする?


ま こ っ ち ゃ ん と 柴




青葉中学二年・園芸部員の永崎真は、夏休み明けの荒れ放題な花壇にしゃがんで草をむしっていたが、途中で誰かに呼ばれた気がして顔を上げた。

九月の月曜日のこと。さらに正確には、昼休みのこと。暦の上では秋になったとは云え外はまだ暑く、南天の太陽が白いグラウンドを照り付ける。

頭には麦わら帽子、首には銀行でもらった粗品タオルを巻いた格好で辺りを見回した永崎真は「気のせいか」と呟くと再び草むしりに没頭した。

髪の生え際に浮いた汗が玉となってこめかみから輪郭をこぼれ落ちる。

夏休み中の花壇の手入れは当番制になっていたはずだった。二年生の永崎真は七月の当番だった。八月は他の部員達が見ていたはずだが、休みが明けてみれば雑草は伸び放題、苗は枯れ放題、土は渇き放題、挙句に「園芸部用」の白い小さな手製看板はいつぞやの大雨で倒れて泥が付いたまま半ば土に埋もれていた。

永崎真は軍手をはめた手で額をぬぐう。
雑草をむしっている間は無心になれる。ずっと俯いている姿勢で首が痛くなっても、だから休みたくはない。それでもたまには酸素が欲しくなって、その欲求がもうどうにも抑えきれなくなってきたら、やむなく空を仰ぐのだ。

「あっ。やっと上向いた。ハロー」

その瞬間、永崎真は尻餅をついてしまった。
脱げかかった麦わら帽子を顎のゴムがかろうじて支えた。

「……は、はろう?」

永崎真はちょうど真上に開いた窓から自分を見下ろしてくる生徒をまじまじと見つめた。
あまりにまじまじと見つめたので目尻のホクロを見つけてしまったくらいだ。
まるで何の苦労もしてこなかったような優男の雰囲気がある。眉毛と目の間が比較的広いせいかも知れない。

確かそこは保健室だったはずだ。
永崎真が土の上でぽかんとしている間に優男は勝手に自己紹介を始める。

「ども、ゆーれーどーこーかいしょだいかいちょーかっこかり、の柴だ」
「はあ、どうも」
「きみ、二年生?」
「ええ、まあ」
「うん、クリアだな」

幽霊同好会初代会長(仮)。

その部分は奇跡的に理解できたが、自分がどういう点においてどのような意味で「くりあ」なのか、永崎真は理解できなかった。これだけ少ない判断材料ではできるはずもなかった。

「えっと、あの、つまりどういった御用件で?」

尻餅をついた状態から体育座りの状態に体を起こし、永崎真は至極まじめに訊ねてみる。
昼休みに草むしりをしている園芸部員を保健室で涼んでいた上級生がたまたま見つけて暇潰しにからかっているだけというシチュエーションである可能性は否めなかったが、可能性が単なる可能性である内はこちらが礼儀を欠くわけにもいかない。
永崎真は以上のように考えたのだ。

柴が突然笑い出した。

「きみ、面白いね」
「はあ。初めて云われました」
「ほんとに?」
「嘘は吐きませんよ」

そんなことしたって意味が無いから。という後半部分は省略した。

「きみ、名前は?」
「永崎真ですけど」
「良い名前だね」
「はあ。初めて云われました」
「ほんとに?」
「嘘は吐きませんよ。そんなことしたって意味が無いから」

滴った汗が目に入りそうになる。
瞼を落とした永崎真の前に、窓枠を飛び越えた柴が降り立った。
ふわり、と、保健室特有のにおいがした。
新学期のために新しく買ったのだろうか、目映いほど真っ白な上履きには確かに『シバ』と書いてある。
「記念に、これあげる」
そう云って柴は永崎真の目の前に、一冊の本をすっと差し出した。
表紙には、草に覆われた家屋の写真がでかでかと映っている。人が住んでいるようには見えない。そんなものが何故表紙になるのか永崎真には分からない。タイトルらしきものも見つからない。
「記念って何の記念ですか」
「出会えた記念さ、もちろん」
「はあ」
てか何の本だ、これは。
永崎真は軍手をはずすとそれを受け取り、ぺらぺらとめくってみた。表紙と同じような家屋の写真が並んでいる。カラーは表紙だけで中身はモノクロだった。
奥付には『取材編集・柴』とある。
間違いなく目の前の人物のことだろうとまこっちゃんは確信する。

「はあ。面白い本ですね」
「ほんとに?」
「何がですか」
「ほんとにそう思う?」
「他にどう云ったら良いんですか。つまらない本ですね、てかもうわけ分かんないので話しかけないでくれますか、などと云ったらあなたはおれを殴る人かも知れないでしょ?」
「なるほど。一理あるね」
「だいたい、そこ、踏んでます」
二年生の永崎真にぴしゃりと指摘された三年生の柴は、失敬失敬、と再び窓を乗り越えると保健室に戻っていった。
子カンガルーが母カンガルーのおなかの袋に入っていくように。

「ところで、それ楽しい?」
「それって何のことですか」
「草をぶちぶちするやつ」
「楽しそうに見えるんだったらぜひ手伝ってください」
「嫌だ。誰かのやり残しをするのは性に合わない。きみはよくそんなことができるね」

(なんなんだ、この三年)。

「ふう。ひとまず切り上げて放課後また来ます」
永崎真は首に巻いていた粗品タオルを軍手と共に麦わら帽子の中に突っ込んだ。
柴は腕に顔をのせたままその様子を見ている。
「ねえ、ちょっと」
無視。
「ちょっと、ちょっと」
遠ざかるほど呼び止める声が大きくなる。
永崎真は歩みを止めると振り返った。
「何ですか。おれの名前は、ちょっと、でも、ちょっとちょっと、でもないんですけど」

窓から身を乗り出していた柴はその言葉に目を丸くして、こう云った。

「じゃ、まこっちゃん」

人差し指を綺麗にピンと立てて笑う柴を永崎真は呆れた目で見た。

「いいじゃん。まこっちゃん。それで、いいじゃん」

ま、こ、っ、ちゃ、ん。

小学校六年間と中学校二年目のこれまで苗字でしか呼ばれたことの無かった永崎真は、まこっちゃん、という丸みを帯びた、幼馴染同士が呼び合うような呼称が自分を指すとは俄かには信じられず、実を云うと切実に渇望していた時期さえあるそれを今この一瞬にあっさり与えてくれてしまった柴という上級生に対しては拒絶でさえ不可能だった。

「……もう勝手にしてください」

永崎真、即ち、まこっちゃんは、「またねえ」と手を振る柴に背を向けた。
心の中で「またはないと思いますが」と毒づきながら。



足早に立ち去るまこっちゃんの麦わら帽子から軍手が転がり落ちた。
見送っていた柴は窓を乗り越えてそれを拾って来ると再び窓を乗り越えて保健室へ戻った。
子カンガルーが母カンガルーのおなかの袋に入っていくようにパート・ツー。

「まこっちゃん、か。よし、決めた。彼にしよう」

ほんのり漂う消毒液のにおいの中、拾得物の軍手でお手玉遊びながら、柴は決意したのだった。


090727