午後の授業は云わずもがな眠い。

数学を教える男性教師の落ち着いた声が睡魔を召喚し、教室全体が炭酸の抜けたサイダーのようにあまったるくまどろんでいた。

まこっちゃんは無印のシャーペンでコクヨのノートに落書きをした。
その落書きは列を乱されたアリのようで、曼荼羅のようでもあった。
崇高と非崇高のせめぎ合い。
心を閉ざしたまま思考する最後の砦。

この世はどうして一人で生きていけるように作られていないのだろう。

わずらわしい。
わずらわしい。
わずらわしい。

昼休みに出会った柴の笑顔だけ頭に浮かんだ。


ま こ っ ち ゃ ん と 柴




「えっ。永崎、柴さんに会ったの? それ、まじ?」
放課後、靴箱で同学年の園芸部員に遭遇した時、まこっちゃんは昼休みの出来事を話した。
今日一日で印象に残っていることといったらそれくらいだったからだ。
他には何も無い。
(またどうだっていいつまらない話をしてしまったな)。
内心後悔していたが相手は意外に驚いてくれた。
「そんなにびっくりすることか?」
自分で話し出しておいて相手が過剰に反応すると一気に引いてしまう。
悪い癖だ、と思いながらまこっちゃんは早くその話題から遠ざかりたかった。
しかし相手がそうはさせない。
「どこで?」
「だから、花壇で」
さっきも云っただろ、という不満は相手の次の質問にかき消された。
「どんなだった?」
「え?」
「だから。どんな人だったかって訊いてんの。顔とか声とか」
「どっちも普通だよ。強いて云うなら、仏様みたいな顔かな。なんかこう、うまく云えないけど、悟った感じの顔だった。何、そんな有名なの。柴さんって」
コンバースのスニーカーを地面に落としたまこっちゃんは麦わら帽子から粗品タオルを取り出した。
軍手が見つからない。
「前、ある生徒がいてさ。授業中ひどい頭痛に襲われて保健室に行ったら、先生いなくて、代わりに柴さんがベッドに寝てて。先生を待つ間しばらく世間話とかしてる内に、柴さんが、おれその頭痛たぶん治せるよ、って」
「ふうん」
「頭痛で来たなんて一言も云ってないのにだぜ。で、治した。原因、何だったと思う?」
「さあ」
「幽霊。猫のだけどね。あの人、幽霊と話せるんだってさ」
「へえ」
「何だ、驚かねえの。つまんね」
「いや。ただ、その人が、幽霊と話したってよりも猫と話せたってことがすごいなと思ってる」

まこっちゃんは、柴に声を掛けられた時、体がすっと楽になった感じを思い出した。
蓮の浮いた湖のように静かで幽玄的な雰囲気。
彼の周りだけ一、二度くらい温度が低かった気もする。

「な、おれにも会わせてよ。おれにも変なの憑いてないか見て欲しいし」

からかうような笑顔を浮かべて追い掛けてくる園芸部員の姿をまこっちゃんはちらりと振り返った。
軍手もタオルも持っていない。
彼は夏休みの間に荒れ放題になっていた花壇のことなんてこれっぽっちも考えてはいないのだ。覚えてさえいないのだ。
(やだよ)。
まこっちゃんはそう断る代わりに云った。
「でも、おれももう会わないと思う」
「けち」
相手もそれ以上食い下がらず、二人はさらりと手を振って分かれた。
(もう会わないと思う)。
それはまこっちゃんの直感でもあった。



「あ、また会った。ハロー、まこっちゃん」

ぎくり、と顔を上げたまこっちゃんは昼休みと同じように保健室の柴に見下ろされた。
違っているところといえば今は太陽が照っていないこととグラウンドで野球部が交流試合をしていることぐらいだ。
今日はやけに女子の観衆が多い。どこぞの人気部員でも来ているのだろうか。
その時、かきーん、と良い音がして白球が大きく飛んできた。
女子達が甲高い歓声を上げる。
打者の姿に目を凝らしていた柴が何か判明したように「ははん」と云った。

「ああ、なるほど。あれは緑中のエースだね」
「ふうん。有名なんですか? 緑中のエースって」
「野球うまいし、顔も良いし」
「そこですか」
「いやいや時として重要だよ。観衆を味方に付ける要素は」

そんなものですかね、とまこっちゃんはホームに戻った打者に目を向ける。

「……なんだ、ただのタレ目じゃないですか」
「いいの、いいの。おれのここみたいなもんだよ」

柴は人差し指で目尻のホクロを指した。

「気に入ってるんですか、それ」
「うん、まあね」

実は密かにまこっちゃんもそのホクロをいいなと思っている。
しかしそれを柴本人に伝えることはできなかった。

「有名で云うなら、柴さんも有名人なんですね。さっき園芸部員のやつに聞かされました。ええと、どんな話だったっけな……」

粗品タオルを首に巻いたまこっちゃんは昼休みにやり残した草むしりを再開しようとした手をぴたりと止めた。
面積の半分ほど残しておいたはずの雑草が、すべて、無くなっていたのだ。

「あ、れ……? え? あれっ?」

今更そのことに気づき辺りをうろうろするまこっちゃんを見た柴は、ふふん、と得意そうに笑った。

「義を見てせざるは勇無きなり」
「まさか、柴さん、あなたが」
「まこっちゃん。やっぱきみだよ。二代目は」
「二代目?」

何のことですか、と問いかけるまこっちゃんの顔面に失くしたと思っていた軍手が飛んできた。

「これ、貸してくれてありがと。おかげで汚れずに済んだ」

そう云って柴は芸能人の婚約会見のように、あるいは執刀医のように両手の甲を見せ付けた。
草むしりなんて一度もしたことが無いような手だった。さらに云うなら、きっとスポーツも。
肌も随分と色白なほうだ。ずっと保健室に居るところを見ると、あまり健康な体ではないのだろう。真っ白な上履きも新学期の始まりとは無関係で、実はほとんど学校に来ないからかも知れない。
それはまこっちゃんが勝手に考えた理由だったが、どうも本当にそうであるような気がした。

「はあ。やり残したところしてもらってありがとうございました」

いいってこと、と柴はまたも一冊の本をまこっちゃんの前に差し出してきた。
また例の怪しげな自作写真集かという疑念が湧いたが今度は別のものだった。怪しげな自作写真集であることに変わりは無かったが今回の被写体は家屋ではなく工場。前回と違って表紙のみならず内容数ページがフルカラーになっている。

「コアな読者がついてくれてね、資金が調達できた」
端折った説明だったがまこっちゃんはなんとなく理解できた。

「で。結論から云うとこれはあなたの趣味なのですね」
「だよ。そして幽霊同好会の活動内容の一つでもある」
「あれ。(仮)だったんでは?」
「会員をゲットしたから正式に会となったんだ。(仮)はもう必要ない」

ふうん、と興味の無い返事をしたまこっちゃんは手元の本を数ページぱらぱらとめくった後、「ん?」と顔を上げた。
柴がシェークスピア作品のジュリエットよろしく窓から身を乗り出してまこっちゃんに向かい両手を広げている。

「ようこそ、我が幽霊同好会へ」

まこっちゃんの手から写真集がぱさりと落ちた。
グラウンドでは緑中のエースが盗塁を成功させ、女子の歓声を欲しいままにしている。


090727