生きていれば時として予想だにしないことが起こる。
好きな色が変わる。行きつけの喫茶店が潰れる。買った本が落丁している。
奇跡だろうが偶然だろうが未来はちいさなクズのような不測に満ちている。
十四歳のまこっちゃんにもそれはある日訪れた。
それ、とは、「奇跡だろうが偶然だろうが未来を不測に満ちさせているちいさなクズのようなもの」の正体。
まこっちゃんの場合、柴がそれだった。


ま こ っ ち ゃ ん と 柴




交流試合を終えた野球部の「あざしたっ」の声でまこっちゃんは日が暮れていることに気づいた。
「あ。もうこんな時間」
二時間半ほどの間一度の休憩も取らず柴の語りを夢中で聞いていたことになる。

柴は、人が住まなくなった家や閉鎖した遊園地、宿泊施設、その他では工場などにまつわる魅力について多くのことをまこっちゃんに教えた。始めのうちは「残りの草むしりしてもらったことだし、ま、ちょっとくらい相手をしておいて罰は当たらないだろう」とお礼のつもりで耳を貸していたまこっちゃんだが気づけばすっかり柴の話に引き込まれていた。それはもちろん話の内容に関して少なからず興味を抱いたからなのだが、ペースはゆったりしているのに推敲された原稿を読み上げているように無駄が無く中味のしっかりと濃縮された文章を紡ぐ柴の声が心地良かったせいもある。

まこっちゃんは人付き合いのうまいほうではない。だからと云ってとりわけ下手というわけでもないが、その位置を確立するために「差し障り無く浅く」をモットーにこれまでやってきただけに、相手が誰であれ一時間以上の長話をすることなどこれまでの自分からは考えられなかったことだ。たとえそれが聞き役に徹するというだけの作業であっても。

そんなまこっちゃんだったが柴と一緒に居る間は不思議と苦痛ではなかった。人と話している時の、こんなことしてる場合じゃないんだ自分は、という妙に自責の念に駆られるようないつもの感覚に襲われることはなかったし、体のどこにも無理な力は入っていなかった。つまりリラックスしていられたのだ。それはまこっちゃんが柴において、たとえば靴箱で出会った園芸部員のような、あるいは後片付けをしている野球部員のような、そういった生徒達とはかけ離れた、少なくとも重なることは無い領域に属する性質の人間であることを感じ取ったからかもしれない。

「あ、ごめんね。こんな時間まで話の相手させちゃって。まこっちゃん、疲れただろ? 顔、ぼーっとしてる」
保健室の窓から大きく身を乗り出した柴が、壁に背中を預けて体育座りしているまこっちゃんの顔を覗き込む。
日除けにしていた粗品タオルが顔を隠して口元しか見えなかった。
暮れかけた今の時刻、日除けは必要ない。まこっちゃんは粗品タオルの片方をするすると引っ張った。
「いいえ。それほど疲れてはいません。ただ、」
「ただ?」
「ただ、何かにマニアックな柴さんってかっこいいなって思っちゃって。おれにはそういうもの、何も無いですから」
頭から取った粗品タオルを口元に持っていき塞いだが間に合わなかった。
まこっちゃんは自分で云っておきながら内心焦った。
(やばい。今絶対何かへんなこと云ってしまった)。
おそるおそる見上げると柴はそこにいなかった。
あれ、と辺りを見回しているとやがて靴箱のある方から出てきた。
「ねえ、まこっちゃん。帰り、こっち? あ、じゃあ途中まで一緒に歩こうか」
柴に変わったところはない。
(よかったなにもきかれてなかった)。
自分の鞄を拾い上げたまこっちゃんは腰を上げ、柴の後を追う。



「最初はね、でっかいものの写真見るのが好きだったんだ」
ポケットに両手を突っ込んで歩く柴の隣を歩くまこっちゃんは、なんでこのひと鞄持って来てないんだ、ということが気になった。それ以上に気になっていたことは彼が上履きのまま歩いているということだ。気づいていないのか、それともわざとか。わざとなのか。声をかけようにもかけられない。やがてまこっちゃんは、鞄を持っていないことと持っていることの間に、上履きを履いていることとスニーカーを履いていることの間にそんなに重要な意味の隔たりが何かあるか、と投げやりの境地に達した。そう、つまりスルーしたということだ。
「でっかいもの?」
まこっちゃんの問いかけに柴は頷く。
「ダムとか、滝とか、海上に浮かんだ潜水艦、風力発電機のプロペラ、砂丘、ガスタンク。そういう、でっかいものの写真をぼーっと見ていると、集めて並べて見ていると、なんか怖くなって、ぞくぞくって。気持ち悪いのと気持ち良いのとの中間みたいな。たぶん割合的には気持ち悪いほうが勝ってるんだけど、悪趣味が趣味の人みたいに、その気持ち悪い感じが病み付きで」
「くさいと分かっていながら嗅いでしまう感じですね。分かります」
「ああ、近いかもしれない」
柴は嬉しそうな顔を浮かべた。
まこっちゃんは目尻のホクロが動くのを見た。
「柴さんの家ってどこですか」
「あっち」
「って、思いっきり反対方向じゃないですか」
「だってまこっちゃんと一緒にいたかったんだもん」
ぶー。
「ぶー、じゃない、ぶー、じゃ。ったく子供じゃないんですから」
まこっちゃんが呆れたように溜息を吐くと柴が「あ、それ」と指摘した。
「まこっちゃんの、それ。ちょっと引いてて、冷めてて、意味の無いものを否定する感じの、それ」
何と云われても切り返せるだけの用意はあった。
まこっちゃんは柴を横目で見る。
柴はわざと泣きそうな目を作った。
「そゆことされたら、おれが、哀しいよ?」
呆気に取られた。
否定されると思っていた。自分の態度は。何らかの視点から。
しかし柴は自分の哀しみしか、考えてない。
まこっちゃんが笑うと柴が「おっ」という顔をした。
「分かりました。園芸部やめてそっちに入ります」
「ほんとに?」
「その代わり、次の撮影会には同行させてくださいよ」
まこっちゃんの言葉に柴が「もっちろん」とピースサインを作った。





以上が、幽霊同好会発足日、まこっちゃんが永崎真からまこっちゃんになり、柴初代に極意を教えられ、幽霊同好会に入会すると同時にたったひとりの会長候補となった日のあらましだ。

それから翌年の四月に柴が青葉中学校を卒業するまでの間にまこっちゃんはカメラの撮り方や廃墟に入っていく際の注意点などといった幽霊同好会の活動の基礎を教えてもらいながら、柴に関しては、近づきすぎず遠ざかりすぎない関係を保ち続けた。

卒業式当日、まこっちゃんは柴に上履きをもらった。
「……ちょっと。要りませんから、こんなの」
ボタンが全部むしられた学ランを見ながらまこっちゃんは微かに顔をゆがめて笑った。
柴だけはそういうものと無縁だと勝手に思っていたのだ。
夏休み明けの昼休み、園芸部の花壇で出会ってからこの日に至るまで経過した時間はわずか八ヶ月あまりだったが、週末ごとに二人で行った撮影会はそれまでのまこっちゃんの人生十四年間を足してもなお余りあるくらい、少なくともまこっちゃんにとっては充実したものだった。
その大切な八ヶ月間さえ裏切られた気がした。
真っ白な上履きの上にはやっぱり下手な字で『シバ』と書いてある。微かに保健室の臭いがする。
上履きを脱いだ柴は裸足で立っていた。
「まこっちゃん。マイフレンド・フォーエバーって映画観たことある?」
「……ありませんけど」
「そっか。じゃ、いいや」
桜が舞っている。
周囲は泣き笑いの顔ばかり。
まこっちゃんは泣かなかった。泣いたら嘘だと思うからだ。
散る花びらを見ていた柴が、詩の朗読のように云った。
「この世はどうして一人で生きていけるように作られていないのだろう」
同じように花びらを見ていたまこっちゃんが目を向けると柴の視線にぶつかった。
「何ですか、それ」
「これ、まこっちゃんの云った言葉だよ」
「そうでしたっけ」
「そうだよ。で、おれ、分かったよ。今、ぴこーん、と来たね。ぴこーん、と」
「……クイズじゃないんですから」
そう云いながらまこっちゃんの期待は膨らんでいる。
もう会えないと思うからだ。
理由なんか無い。
きっと、会えない。
定められていることをたまたま知っているみたいに、それは動かしようがないのだ。
そう思い込んでいるだけなのかも知れない。
そう思い込んでしまいたいのは、今がきれいだから。
桜より誰かの涙より、きれいな一こまの連続だから。

もうおれはこの人と会うことはないだろう。一緒に撮影会に行ったり、同じ物を食べたり、特別な感情など抱かずでも無言が息苦しくなく、この人の前でなら疑問を疑問のまま口に出せるんじゃないか、って、思えるようなこの人と。
会うことは、決してもう二度とない。

「で、何ですか」
「作られたものじゃないからだよ。だからその質問は最初から無効なんだ」
柴の言葉はまこっちゃんの体にすとんと落ちてきた。
頭にではなく体に、だ。

ああ、おれ、その声をずっと好きだった。
大切なことはいつだって別れ際になってやっと気づくのだった。

俯いたまこっちゃんは「分かったかな?」と先輩ヅラする柴に「わかりません。ぜんっぜん」と答えた。
柴はそのことに関してはもう何も云わなかった。

「いいかい、まこっちゃん。仲間を作るんだよ、仲間を」
「仲間?」
「一人でもいい。その人のためになってごらん。人生はゲームだよ」
まこっちゃんは俯いたまま呟く。
「どうして誰かの役に立たないといけないんですか」
難題のつもりだった。
しかし柴はやっぱり余裕綽々と答えるのだ。
「だって、おれが、嬉しかったもん。まこっちゃんに出会って。役に立ってもらって。まこっちゃんは、違った? そうじゃ、なかった?」
ぶわわ、とあふれ出てきたものをどうしたら良いか分からなくてまこっちゃんは上履きを握り締めた。
それでも、ぶわわ、が止まらないので上履きで顔を隠した。
「……くさい、です」
それを聞いた柴が、はっはっは、と笑う。


桜の花びらは視界を白く埋め尽くし、濁ったものの上にもどす黒いものの上にも絶え間なく美しく降り注いだ。


これはまこっちゃんが姫川一馬に出会う、ほんの二週間前の出来事。


090727