小学校を卒業する頃には、エースと松橋のピッチャーとしての実力の差は歴然としていた。
リトルリーグチームにおける人気者の座もとっくに奪われていた。
松橋は何度もチームを辞めようと思ったが、エースにピッチャーの座を奪われたことが原因だと思われるのが悔しくて踏みとどまった。その悔しさをバネに練習に精を出せばまだなんとかなったかも知れないが、エースのピッチャーとしての才能については松橋自身痛いほどよく分かっていた。自分自身が隠匿してきた自分自身についても。
(本気を出せないんじゃなくて出さないふりをしていた)。
そんな小細工で取り繕わなければいけないくらい、努力が嫌いな自分も、練習が嫌いな自分も、そして何よりも打たれ弱く勝負事が苦手な自分のことも、松橋はぜんぶぜんぶ分かっていた。
父親が甲子園出場選手だったなどと聞いて驚いてくれる人はいても、だからと云ってその息子がすごいというわけではないということにもう誰もが気づき始めていた。
リトルリーグチームとしての最後の試合を松橋はベンチで過ごした。
完封勝ちでゲームセットを決めたエースの胴上げにも参加しなかった。
松橋、はじめての挫折感。
エースと松橋、そして緑ヶ丘中学へ。
エ ー ス と 松 橋
この世界には二種類の人間しかいねえ~。
神様に愛されているかいないかのどちらかしかいねえ~。
昼休み、屋上で自作の歌を唄っていた松橋が「おれ、野球辞めてバンドでも組もっかな」と呟いた時、出入り口の扉が開く音がした。
咄嗟に建物の影に身を潜めた松橋は入ってきたのが同じクラスの中谷という女子であることに気づいた。
中谷は注意深く辺りを見回した後、誰もいないのを確認して安堵の溜息を吐いた。
完全に出るタイミングを失った松橋は、かわいい顔の中谷さんが変な趣味とか持っていて自分がそれを偶然にも目撃してしまって失望しませんように、と妙にややこしいことを願った。
その時、再び扉が開く音がした。
振り返った中谷に危うく見つかりそうになった松橋は慌てて頭をひっこめた。屋上に入ってきたのがいったい誰なのか、姿を確認することはできない。
しかし中谷の次の言葉で松橋にもその正体が分かった。
「あ、エースくん」
おかしなことだが中学校に上がってもエースはエースのままだった。
(てか、そういやエースの本名ってなんだっけ……)。
田中、ちがう。
佐藤、ちがう。
鈴木、ちがう。
うーん、と唸る松橋の耳に鉄製の扉が鳴る音が響いてきた。どちらかが屋上を出て行ったのかと思ったが、エースがそこに体を凭せ掛けた音だったようだ。
「どうしても、だめですか?」
中谷のか細い声が聞こえてくる。
松橋は少し怒りながら息を殺した。
(エースめ、おそらくだが、だるそうな姿勢取ってんな。で、中谷さんにこんな哀しそうな声を出させるなんて。まったくもってけしからん。おれだったら。ああ、くそ、まじでおれだったら。おれだったら中谷さんをこんな目には絶対に遭わせないのに)。
そう思う一方で松橋は理解できない。
小学生の時モテてた人って中学生になると何故かモテなくパターンだよね。
そんな根拠の無い誰かの一言をあてにしていた自分も自分だが、エースの人気もいつかは冷めるものと自分に対する慰めのようにいつも心のどこかで思っていた。だと云うのにエースに思いを寄せる女子の数は減らない。エース宛の手紙や伝言を頼まれると松橋はその度にやるせない気持ちになる。それ以前に自分とエースが周囲からは親友同士のように思われていることが松橋には不思議だった。
(おれはエースに憎しみを感じたことこそあったにしろ友情を感じたことはねえ)。
憎しみ、は、云い過ぎか。
松橋は頭の中でその部分を「敵対心」と云い換えた。それで対等になれる気がした。
「んー。だめ。おれ、年上にしか興味ないから」
エースがあっさりと答える。
「じゃ、今、好きな先輩とかいるんですかっ?」
中谷は何故か敬語になっている。
「うーん。今はべつにいない」
「そ、そうなんですね」
中谷がほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、エースが思い出したように付け足した。
「でも、中谷さんとおれはやっぱりどうにもならないと思う」
何云ってんだエースこらあああ!
おれは陰から飛び出す。
きゃっ。
驚く中谷さん。
エースを殴るおれ。
女の子泣かすんじゃねえぞこらあああ!
ぶたれた頬を押さえて呆然とするエース。
おれが振り返ると中谷さんが駆け寄ってくる。
抱きしめるおれ。
中谷さんが囁く。
わたし、強いあなたが、すき。
鮮明なイメージが燃え滾っていたのはあくまで松橋の脳内においてであって、それは実行を伴わないただの妄想に過ぎなかった。
気づくと中谷の姿は無く、いつの間にか背後に立っていたエースに気づいた松橋は飛び上がった。
「ぬわあっ」
叫んだきり黙ってしまった汗まみれの松橋にエースはじっとりと軽蔑のまなざしを送った。
「盗聴最低」
「ち、違うんだっ」
しばらくお互いに睨み合った。それから。
「なんてね、うっそーん」
真剣な表情を一転しニヤリと笑ったエースは松橋の隣に腰を下ろすとコンビニの袋をがさがさし始めた。
色々と訊きたいことがあった松橋だがコーヒー牛乳と一緒にエースが取り出した雑誌の表紙を見て絶句した。
「お、お前さ、学校にエロ本持ってきてんの?」
「エロ本じゃねえよ。週刊誌。ま、似たようなもんか」
てか今週まじ最高、と早くも袋とじを開けているエースから松橋は遠ざかった。
「……えっと、なんか、すごく意外なんですけど」
「何が?」
「エースもそういうの読むんだなあ、って」
「どういう意味?」
「いや、エースぐらいになると、実体験で満足できてる、のかと」
直前に見た中谷の顔を意図せずして思い浮かべてしまった松橋は、袋とじの中を見てしまわないよう俯いた。
「体験と妄想は別バラだぜ? 云っとくけど」
エースが当然のように云う。
「そ、そうかもしんないけどさ」
おそるおそるエースの横顔を見上げた松橋は視線を下へ下へと落としていき、その手が今まさにズボンのチャックを下ろそうとしていることに気づくと悲鳴に近い声を上げた。
「今かよっ」
「なんだよ」
「いやいやいや」
とにかくみっともないものをしまえ、と云った後で松橋は「うっ」と息を呑んだ。
「……いや、じゅうぶん立派でしたけども」
ご丁寧に云い直す必要ねえよっ、と自分にツッコミを入れている松橋を横目で見たエースはチャックを上げ、自分の唇を舐めた。
「あのさあ、もしかしてさあ」
ぐいぐい顔を近づけると松橋が仰け反る。
「な、なんだよ、エースいきなり近いっ」
それでもぐいぐい接近された松橋はとうとう仰け反る限界を超えて両手を後ろについた。
「たぶんだけどさあ、松橋はさあ」
容赦なく追い詰めた後ほとんど覆いかぶさるような状態でようやく攻めるのを止めたエースは不敵に微笑んだ。
「まだ、だろ?」
予想以上に消沈している松橋のうつ伏せの背中を枕にしながらエースは青い空を眺めた。
「いや、だってまだ中学生だもん。全然大丈夫だと思うぜ?」
お前が原因なんですけど、と松橋のくぐもった声が聞こえる。
「うん。そうだな。ごめん」
いつになく素直なエースの声を聞いて松橋は少し目を覚ました。
「……いや、べつに、謝らなくてもいいっていうか」
「うん。真心じゃないからプライドは捨ててない」
やっぱりなーくそー、と体を起こした松橋はすり寄ってくるエースの頭を落とした。
「痛っ。……あーあ、まつばせとも早くそういう話で盛り上がりてえなあ。がむしゃらに頑張れよ」
「余計なお世話だっつうの。てかさ、エースは、なんとも思わねえの?」
「何が」
「自分に告白してくる女子に対して」
「そりゃあ思うよ。勇気出して告白できてえらいなあ、って。この子とおれが両思いだったら最高なのになあ、って」
じゃあなんで冷たくするんだよ、と解せない表情の松橋が見下ろすとエースの目がタレ目に見えなかった。
あ、仰向けだと顔の印象変わるんだな、と松橋は思った。
「冷たいか? 一瞬冷たいやつよりずっと温かいふりしてるやつのほうが本当の意味で冷たいと思うけど」
ん。
松橋はエースのせりふを頭の中で反芻した。
ぴんとこなかった。
「でも、中谷さん、泣きそうだった」
ぽつりと呟く松橋をエースがじれったそうに見上げた。
あ、タレ目に戻った。
「ふうん。じゃ、おれは、泣きそうになった子全員と付き合えばいいの?」
これはつまりさきほどのせりふの具体例なのだ。
頭では理解できたが松橋の口はまだ分からないふりをしていた。もっとエースの考え方に触れたかったのかも知れない。
「でもさ、エースが本当に年上しか好きにならないとは限らないじゃん。中谷さんとおれはやっぱりどうにもならないと思う、って云い方は、やっぱ、傷つくよ。そこまでは聞きたくなかったんじゃないかな、中谷さんも」
わざとねちっこく云ったからエースも怒るだろうなあ、と他人事のように思っていた松橋は、エースが笑うのを意外に感じた。
「やさしいな、松橋は。おれが女ならお前みたいなの嫌いじゃない」
「え。それは、どうも」
ちょっと微妙。
と思いながらもお礼だけ伝えておいた。
風に吹かれた週刊誌のページがめくれる。
そこには先日起こった殺人事件の記事が掲載されていた。流出した被害者少女の卒業アルバム写真、との見出しもある。
「人生どうなるか分かんねえもんだな」。
少女が自分と同年代とは云え、完全に他人事のせりふだ。
県内で起こった事件ということで、今朝家を出る際は親から重々注意を受けた。
だが犯人はすでに捕まっている。用心しろと云われても自分の生活はいつもどおり。変わらない。事件の話題はしばらくは人々の話題に上るだろうが、それもずっとではない。また別の新しいニュースが押し流していく。
(あ。もしかして、この子)。
被害者とされる卒業写真の少女に松橋は目を留めた。
黒のロングヘアと、前髪の下の大きな瞳が印象的だった。
(……かわいい)。
非常に不謹慎だが正直なところ結構好みだ。
と、松橋は思った。
「なあ、エース」
「ん?」
「おれがバンド組んだら似合うと思う?」
一瞬の間。
寝転んでいたエースが体を起こして、大きく伸びた。
「松橋がバンド組んだら? そうだなあ。そうしたらおれもバンド始めて、お前より人気になってやるよ」
ありえそうだ。
確実にありえそうだ。
松橋は溜息を吐いた。
「やっぱ、野球続ける」
それを聞いて立ち上がったエースが腰をかがめて週刊誌を拾う。
「うん。それが一番いいさ」
去り際にそう云って苦い笑顔を向けられたら、松橋は、やっぱおれエースには勝てない、と思うのだった。
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