その夜、松橋は自室のベッドでもんもんとしていた。
昼休みの屋上でエースと交わした会話の内容を繰り返していた。
(まだ、だろ?)。
そのことを見透かされた時は怒りよりも恥ずかしさよりも哀しみが先に来た。
どうしておれはいつも下なのだろう。
どうしてエースはいつも上なのだろう。
小学校三年生から中学校二年生になる今まで、エースから受けた「恥辱」の数々が走馬灯のように脳裏を駆け巡り、松橋は長い溜息を吐いた。
だいたいどうしておれはここ数日ずっとエースのことばかり考えているんだよ。
今夜これ使えば、とエースからもらった週刊誌をめくってみる。袋とじのページはすっ飛ばした。今この心理状態ですると後悔の大きさが怖い。
政治家の贈賄疑惑だのアイドルの私生活だのといった自分の生活に直接的には関係のない記事をさらっと読み流したところで、仰向けの状態から横向きになった。
ページが勝手にめくれて例の事件の記事で止まった。
自分でも最低だと思うが今は自分より恵まれない境遇の人間を見たかった。
松橋は殺された少女の家族について考えた。
この子に兄弟や姉妹はいるのだろうか。
いるのだとしたら今頃どんな気分でどう過ごしているんだろう。
気分が悪くなった。
たとえば、と言い訳のような前置きをしてエースの死について考えた。
気分は最悪になった。
松橋は週刊誌を丸めてゴミ箱に捨てた。
明日の朝、ごみ収集場所に出してしまえたらいいのに。
週刊誌みたいに、この憂鬱も。
エ ー ス と 松 橋
おれ、もしかするとお前のこと好きなのかも知れないんだよね。
昨夜は変な時刻に就寝したため目覚めが悪かった。体調の優れない感じをひきずりながらも何とか六コマ授業を終え部室に向かう道すがら、松橋の思想はどこでどうひねくれたのか「おれはもしかするとエースを好きなのかも知れない」というところまで至っていた。
うん、なんかいっそもう、そうであるような気がしてきた。
そうだこの際エースに告白して動揺させてやろう、と妙な方向に投げやりな気持ちになっていた松橋の腕がとある女生徒の手によって物陰から引っ張られた。
「ちょ、何ですかっ」
薄暗い室内に連れ込まれた松橋は我に返り相手の顔を確認する。
「あっ」
松橋が思わず声を上げたのは、そこにいたのが三年生の篠先輩だったからだ。
華道部に在籍する、校内一と云っても過言ではないくらいの美人だ。
しかし松橋と個人的なつながりはない。
松橋の頭にまず始めに浮かんだのは、人違い、という言葉だ。
「篠、先輩?」
しー、と唇に人差し指の腹を当てて篠先輩が松橋を黙らせる。
松橋の体温は本人の意思とは無関係に急激に上昇した。
「きみさ、エースの親友だよね?」
見かけは物静かそうだがその喋り方からして実は案外さばさばしているのかも知れない。
またまたまたエース絡みか。
数秒前とは打って変わってやや冷めた気持ちになりながら松橋はわざとぶっきらぼうに「ええ。そうですけど。あいつの名前はエース。おれの名前はエースの親友。ですけど、で、それで何か?」と答えた。答えた後、じんわりと快感を覚えた。男子生徒の憧れの的である篠先輩にそんなふうに返事をした自分に酔いしれた。のも、束の間、「なに、その口のきき方」と両耳を引っ張られた途端、平謝りの松橋だった。
(外見とのギャップあるな、このひと……)。
耳がちぎれていないか確認する松橋に、篠先輩は、
「ねえ、きみ。質問に答えて欲しいんだけど。最近、エースの周りに、女の影、無い?」
不安そうに首をかしげた。
篠先輩の顔を見つめながら三秒考えた後、松橋は答えた。
「女の影なら、無かったことないですけど」
それを聞いた篠先輩は、だよねえ、と肩を落とした。
「まあ、それは分かってんのよ。こっちも。そうよね、そうよね。付き合い始めて一年ともなれば努めて気にしないでいたことが気になってくるものよ」
自分に云い聞かせるように呟く篠先輩に松橋は怪訝そうな目を向けた。
「あの、おれも質問したいことが発生してんですけど」
「云ってみなさい」
「篠先輩、エースと付き合ってんですか?」
どうかおれの空耳であってくれ、という松橋の願いは篠先輩の「うん、そうだけど?」という肯定に打ち砕かれた。
前屈みになって壁に手を付く松橋のことを篠先輩がきょとんと見ている。
「ごめん。知ってると思ってた」
「いや、謝る必要ないです。ただ、知りませんでした、おれ」
「みんなには内緒だからね。でも、きみはエースの親友だから知ってると思ってた」
篠先輩のその言葉に松橋は顔を上げた。
「あの、エースの親友って云い方、やめてくれませんか。おれ、まつばせって云うんで。松竹梅の松に、陸橋の橋。まつばせ。ちゃんと、人格あるんで」
一息に云った松橋は一仕事終えてすっきりし、ようやく体を立てると表情を引き締めた。
(改めてみるとほんと美人だな、篠先輩……)。
同じクラスの中谷もかわいいが、それとは種類の違う魅力だった。中谷が草食の兎とするならば篠先輩は肉食の狼だ。女性に狼とは失礼だろうか。しかしその表現が一番しっくりきた。
「うん。まつばせくんだよね。知ってる。でも、エースが云ってたんだよ? まつばせはおれの親友、って」
「え、まじすか」
「うん。違うの?」
篠先輩の質問に松橋は即座に首を横に振った。
「いや、違わないです。親友です!」
エースと松橋が小学校五年生の頃だ。
修学旅行先の旅館で就寝時間間際になってグループの誰かが「女子の部屋に行こう」と云い出した。グループにはエースもいた。松橋は最初乗り気ではなかったがエースが「行こうぜ!」と明るく賛成しているのを見てつられて賛成してしまった。行き先の部屋に当時松橋が好きだった女子がいることも後押しした。
部屋の前までは難無く辿り着くことができた。
「お前、ノックしろよ」
エースに云われて松橋は「ああ、いいよ」と頷いた。頭の中は「先生に見つかったらどうしよう」という気持ちと「でも、この機会にもしかしたらあの子に告白できるかも……」という気持ちが半分半分だった。
ごくり、と唾を飲んだ。
松橋がゆっくりと手を上げた時、廊下の端に懐中電灯のあかりがちらついた。見回りが始まったのだ。その場にいた五、六人の男子は一気に来た道を駆け戻った。深呼吸をしていた松橋だけ気づくのが遅れた。
「こらあ、そこで何してるっ!!」
……結果、松橋だけが先生に見つかり、廊下に正座させられた。それはわずか十分間程度の罰だったが、騒ぎを聞きつけて出て来た女子達の中にずっと気になっていた子の姿を見つけて松橋はその場から消えてしまいたくなった。見物人にさりげなく混じっていたエースが自分を指差して笑っている。松橋の恨めしそうな眼差しに気づくと慌てて表情を引き締めたが、隣の生徒に何か耳打ちされるとまたすぐ元通りになった。
親友。
松橋はその言葉の意味を考える。
あの時エースがみんなの前で「そそのかしたのはおれです。まつばせくんは本当は悪くないんです」なんて云ってくれたら、それは親友なのだろうか。リトルリーグの最後の試合、「監督、おれは途中から入ってきた余所者なんで、やっぱり最後の試合は最初からエースだったまつばせくんに投げさせてやってください」なんて云ってくれたら、それは親友なのだろうか。
いいや、違う。
松橋は、もしかすると今まで上に立っていたのはエースじゃなくて自分の方なんじゃないか、とふと思った。
どうしておれより後から入ってきてエースなんだ。
どうしてあの時かばってくれなかったんだ。
でも。
もし同情でエースの座を譲られても。
もしみんなの前でかばわれても。
むなしいだけだった。
(エースはずっと、おれのこと対等だと思っててくれたんだ)。
『でも、エースが云ってたんだよ? まつばせはおれの親友、って』。
篠先輩のその言葉。
本人の前でわざわざではなくて、大勢が見ている前でわざわざではなくて。
秘密の相手に、それも、今一番好きなんであろう恋人に。
まつばせはおれの親友、って。
松橋は今すぐ部活に行きたかった。
誰よりも早くグラウンドで練習しているだろうエースに会いたかった。
「あいつは天才で、おれは凡人だから」。
ただの責任転嫁だ。
神様がそう作ったんだから仕方ないじゃないか。
と。
だけどエースは誰よりも練習していた。
朝、授業が始まる前に。夜、部活が終わってからも。
相手がいない時でも、晴れていても、雨が降っても。
指にマメができて、潰れて、またできて。
おれは、どうして自分だけが報われないみたいに思ってたんだろう。
おれは、どうしてできる人は最初からできるみたいに思ってたんだろう。
誰よりも練習したからできる。
誰よりも積み重ねたから選ばれる。
そしてそのことを誰にも自慢しない。
そんな人間が多くの人間に好かれないわけ、ないのに。
「篠先輩、エースは大丈夫と思いますよ」
しばらくの間黙っていた松橋が急に明るい声で云ったので篠先輩は「おや」と大きな目を丸くした。
「あいつは浮気とかしてないですから」
その言葉に一瞬安堵しかけた篠先輩ははっと気づいたように、
「どうしてそんなこと分かるの」
袋とじで済ませてましたから。
とは、口が裂けても云えない。
「親友だからです。分かるんです」
ちょっと芝居っぽかったな、と思いながら松橋は自然と顔がにやつくのを止められなかった。
ふうん。じゃ、まつばせくんを信じるね、とあっさり納得できる篠先輩も魅力的だと思った。そんな魅力的な篠先輩がエースの彼女であることは当然のような気もした。
篠先輩と別れて部室までの距離を歩きながら松橋はふと思った。
「でも、どうしてエースのやつ、篠先輩のこと黙ってたんだ……しかも一年も」
あ、と思い当たる節があった。
屋上で、中谷をふった後の、エースの言葉。
『あーあ、まつばせとも早くそういう話で盛り上がりてえなあ』。
もしかしなくても、待たれてる。
もしかしなくても、気、遣われてる。
「うーん。それはそれで嬉しいような、でもやっぱりちょっとイラっとするような。難しい心境だな」
もやもやした気持ちで歩いていた松橋は「よしっ」と気合を入れて顎を上げた。
「よしっ。きめたっ。おれもイイ恋しよう!」
ガッツポーズ。
した松橋の頭に、ぽこん、と硬球が当たった。
松橋が夏のお嬢さんに出会う、三年ほど前の春。
090801