赤い夕陽に照らされて、河川敷を下校する二人の男子中学生の影が、長く伸びている。
一人は桐谷コウ。通称ニコ。
赤髪。耳には八個のピアス。自他共に認める甘党の彼の口から出ているのはアイスの棒だ。ミックスフルーツソーダ味。
ニコの隣を歩いているのは時田沙綾。通称トッキー。女の子のような名前だが正真正銘、男だ。
もっとも、坊主頭に鼻ピアス、シャツに隠れた背中には御家紋の刺青が、ドドンっ、とあるという、一風変わった「家庭環境」の持ち主ではあったが。
ニ コ と 信 哉
一学期の出席日数が足りなかったため夏休みの補講を強いられたニコとトッキーはひとまず第一日目を無事に終え一息吐いていた。
「なあ、ニコ。今日の数学のテスト、何点だった?」
どんより沈んだトッキーの声。
ニコが限りなく満点に近い点数を答えるとトッキーの巨体が萎んだ。
「はあ。いいよなあ、ニコは。勉強しなくても頭良いとか。どういう仕組みだよ」
「ん。おれの頭脳は生まれつきだからね」
「生まれつきか」
「そうそう、生まれつき。考えない、考えない。ん、当たった!」
「すげっ。人生ツイてんなあ」
アイスの当たり棒を茜空に突き上げては飛び跳ねるニコの後ろを、もはや疲弊した中年男性のような足取りでトッキーがのろのろとついて行く。
散歩中のシーズー犬と飼い主がそんな二人をわざわざ立ち止まって眺めていた。
トッキーが「見てんじゃねえよ」と重低音で睨みを利かせると飼い主は咄嗟に謝ったがシーズー犬は怯まず吼えた。
「痛い目遭いてえのか、ワン公、おら」
そう云って蹴る仕草をするトッキーの襟を引っつかんで歩かせたのはニコだ。
これじゃどちらがワン公か分からない。
「トッキーはそういうとこでエネルギー浪費してるからじゃないかなあ?」
「勉強の話か」
「だから勉強しても頭悪いんだよ」
「はっきり云うんじゃねえよ!」
トッキーが凄んだところでニコは笑うだけだった。
「はあ。考えれば今年で中学生活最後なんだよなあ」
さびれた商店街の一角にある赤いベンチでトッキーはニコを待っていた。
待っている間、ぽつりと呟きが漏れた。
ほどなくして当たり棒と交換したアイスを手に、ニコが戻ってくる。
満面の笑みだ。
「ニコ。お前、今夜間違いなく腹下すぜ」
「おれのお腹はアイス仕様だからだいじょうぶっ」
そう云ってニコは暑さで溶けかけるアイスを下から上へ向かって、ぺろろん、と舐めた。
「やっらし」
「トッキーの発想がね」
何か云えばすぐに返ってくる。卓球のラリーのような会話。淡白で、説明不足で、略式で、気取らない。
やっぱおれこいつがいちばんラクだなあ。トッキーはしみじみ思う。
隣でアイスを堪能している子供のようなニコを見ながらトッキーは、喧嘩中のニコを思い出す。
普段からニコニコしているニコだが、喧嘩中もやはりニコニコしている。
まあこれで素だからね、と云われると、そうか、となるが、ニコニコしながら相手の顔面を打ちのめすニコのことは仲間のトッキーでさえたまに恐ろしく感じる。
(「御家紋」が泣くなあ、おれがこんなこと云ってると)。
体は大きくいかつい顔だが、正直なところ喧嘩は苦手だ。
要は血が苦手なのだ。
紙で指を切ってしまっただけでもめまいがする。
プロレスを観て喜ぶ連中の気が知れない。どうしてあんなものが公衆の電波に乗って許されるのか理解できない。
喧嘩にしろ格闘技にしろ相手の顔面を殴り出血させるなんてもってのほかだ。
(こんなこと云ったら、親父、勘当するだろうな)。
トッキーは板挟みにされた気分だった。
「あー。普通の家に産まれたかったよ、おれ」
「ふうん。そうなんだ?」
「ニコはいいよ。強いのに強く見られない。黙ってれば、普通のかわいい男子中学生、って感じだもんな。おれは、弱いのに強く見られる。大損だ」
「あはっ。そだねー」
「フォローせんかいっ」
声を荒げたトッキーの肩をニコがぽんぽんと軽く叩く。
「まあまあ。トッキー。持って産まれたもんはしょうがないでしょ」
「お前が云うなっ」
「でもさ、トッキーは強いよ。刺青って、痛いんでしょ。それをガマンできたんだから」
「そりゃ、針の痛みより親父に怒られる方が怖えからな」
「あー、トッキーのお父さんってヤクザみたいだもんねえ」
「いや、そのものだったりするんですけど」
「あはっ。そんなわけないじゃん。だって息子がトッキーでしょ?」
「うん。だよな。……って、どういう意味だ! いや、だいたい分かるけど!」
どーせおれは見掛け倒しですよ、とトッキーが項垂れる。
二本目のアイスも完食したニコが「あ。じゃあさ」と手を叩いた。
トッキーはゆるゆると顔を上げた。
とても不良には見えないきらきらの笑顔でニコが自分を見上げている。
「こういうのはどうだろ、トッキー。一見すごく怖そうに見えるけど実は優しい人。とか」
「ん?」
「ギャップが否定できないなら、そういう使い方すれば? 自分の持ち物」
んー、とトッキーは口に手を当てた。
「うん。ニコはすごいよ」
立ち上がって歩き出す。
陽はほとんど沈んでいた。
ついさっきまで茜色だった空に黒い雲が流れ込んでいる。
間もなく星も見えるだろう。
「すごいって、何が?」
「理想論をあたかも実現可能であるかのように云えるとこ」
「え、だってフツーに可能だもん」
歩き出していたトッキーがいきなり立ち止まったのでニコは鼻先から背中にぶつかった。
「痛っ」
「そっか。おれ、分かった。ニコ、おれ分かったよ」
「分かったって何が?」
「おれ、優しくなってみる」
早っ。
ニコがつっこむとトッキーは「確かに」と認めた。
「でもおれ、今、分かった。人生は夕陽だ」
ざぱーん。
海辺でもなく、ここはさびれた商店街の駄菓子屋の前以外のどこでもないというのにトッキーは、思い切った発言をかました。
「夕陽?」
「ああ。目を放した隙に沈んでってしまう。納得できても、できなくても。それだったら一度くらい、なりたいようになってみるのもいいかもな」
トッキーは自分で自分を奮い立たせるように握りこぶしを作った。
なんか分かんないけどおめでとー、とニコが拍手する。
その時、さきほど河川敷ですれ違ったシーズー犬とその飼い主がちょうど戻ってくるところに出くわした。飼い主は二人の姿を見つけると明らかに「げっ」という顔をしたが、トッキーはすぐさま跪くとシーズー犬に対して穏やかな声で喋りかけた。
「さっきは悪かったな。ワン公」
シーズー犬にもトッキーの変化が伝わったのか、きょとん、としている。
構わずトッキーは歩き出した。
「あはっ。なんか面白いなっ」
もう間もなく完全に沈みゆく太陽に向かって歩くその背中を、ニコは笑顔で追いかけた。
「そだ、トッキー。今度おもしろい二人に会わせるね。さいきん知り合ったんだけど」
歩道橋に差し掛かったところでニコがトッキーを振り返った。
おもしろいふたり、とトッキーが説明を促す。
「うん。えとね、一人はハーフでもう一人は日本人。日本人の子はおれたちと同い年だよ。ちっちゃいけど」
「ふうん。同い年なら知ってるかもな。どこ中のやつ?」
「学校、行ってないんだってさ。名前はオージっていうんだけど」
「え、王子?」
「オージ、だよ。王子って云ったら信哉に注意されちゃうよ」
「王子か。変わった名前だな」
「オージだってば。トッキーのは、オウジ、でしょ」
「んー。そうか?」
とうとうトッキーには違いがわからなかった。
「で、どこで会ったんだ?」
「八ツ森」
ニコの言葉に、あー、とトッキーが発声練習のような相槌を打つ。
先月、下校中のニコは前からやって来た他校の生徒に、手にしていたチョコボールを取り上げられた。ニコは返却を求めたが相手は嘲笑とともに去ろうとした。ニコが重ねて返却を求めたところ、ようやく中身の無いことに気づいた相手は「ちっ。つまんね」とその空箱を用水路に向かって放り投げた。
お菓子の空き箱を、放り投げた。
喧嘩のきっかけは、それだった。
たまたまトッキーが現場を通りかからなければニコは更なる被害者を出していたことだろう。というのも、路地裏に連れ込まれた他校の生徒の周辺には、仲間と思われる同じ制服姿が五、六人、加勢しようにも隙をみつけられずグズグズしているところだったからだ。
すでにぐったりしている相手の首を建物の壁に押し付け、とどめを刺そうと振り上げられたニコの腕をトッキーが掴んだ。
「やべ。あいつ、時田組の若頭だ」
そのことを知っている生徒が声を上げると、ニコに捕まえられた一人を残して辺りは誰もいなくなった。
「派手にやったな」
相手の鼻と口から垂れている血から目をそらしながらトッキーが云う。
トッキーの登場によってようやく落ち着いたニコは発端を訊ねられた時、それまでになく真剣な顔でこう答えた。
「だってさ、トッキー。金のエンゼルはめったに出ないんだよ?」
あの時、ニコに気道を圧迫されて口をぱくぱくさせていた生徒。
八ツ森医院で療養中だそうだが、ニコが見舞いに行った時、金のエンゼルを十枚差し出したそうだ。
仲間にも協力させて集めたらしい。
その日ニコはすこぶる機嫌が良かった。
ニコにとって喧嘩はスポーツだ。
きっかけはあってもわだかまりは残さない。
だからニコは親しい友人を訪ねるように見舞いにも出向く。
相手にとってそれがかえって恐怖心を再燃させるものとも分からないで。
「でさ、ハーフのほう。信哉っていうんだけど」
しばし回想にふけっていたトッキーはニコが歩き出したことに気づいて自分も歩き出した。橋の下をトラックが通過し、歩道橋がぐらぐら揺れたように感じた。
「こないだその人に助けてもらったんだよね」
「お前またどっかで喧嘩したのか?」
「うん。思い当たる節はあるにはあるんだ。たぶんそいつの仲間だと思うよ。おれ、仕返しされそうになっちゃって」
飼っていた鳥に逃げられちゃって、とでも云うようにニコは語る。
「ちょっと手こずってたんだよね。不意打ちだったし、相手は数いたし」
「大丈夫だったのか?」
見たところ、目立った傷はない。しかし目立たないところに傷をつけることもある。
トッキーはニコを心配して云ったのだがニコは思い出し笑いした。
「うん。信哉が通りかかって、やっつけてくれた」
「お前が顔見知りだったから?」
うーんどうだろ、とニコは首をひねる。
「おれを助けてやろう、ってんじゃなくて。ただ単に、おいしい獲物発見、て感じだったんじゃないかな。信哉はね、何かをやっつけたかったんだと思う。でも何をやっつけたらいいか分からなくって、で、たまたま学生同士の殴り合いが目に入って、もういいやこいつらやっつけよう、って感じじゃないかな」
「……お前の説明だけ聞くと危ないやつだな、その信哉ってのは」
「危なくないよ。オージにはすっげえやさしいもん」
「どういう関係なんだ?」
「家族だって」
家族、か。
トッキーは口の中で呟く。
(いろんな家族がいたもんだ)。
そういやニコの家族ってどういう人たちだったっけ。
そこでトッキーは自分がニコの家族について何も知らないことに気づいた。
そういや、と切り出した場所はちょうど分かれ道の手前だった。
また明日ね、とすでに背を向けて歩き出したニコにトッキーも「ああ、また」と挨拶した。
見上げると空に星が出ている。
あんまりくっきりと見えるものだから知っている星座を見つけようと思ったが、自分の知っている星座などひとつもないことにトッキーはがっかりした。
090812