八ツ森医院の廊下は長い。
診察室から出てきたばかりのオージはいつものようにフードをかぶろうとした手を止めた。側面のほとんどが窓である廊下全体が、樹木の反射で緑色に光るのを見たからだ。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
その時、前方の角を曲がってくる人影に気づいた。反射的にフードをかぶる。
視界は狭まり、緑色の光からも自分は遮られた。
(もったいなくなんか、ない)。
オージは今までのように視線を地面に落とす。
青いスリッパの甲に、消えかかった病院名が見えた。


ニ コ と 信 哉




「あっ。オージ、おかえり」
待合室の椅子に座ってオージを待っていたのは信哉ではなく、赤い髪の少年だった。
「……」
オージは辺りをきょろきょろした。
「信哉なら喫煙所行ったよ。こないだまでここで吸ってたんだけどね。注意されちゃって、渋々」
それを聞いたオージは椅子に座ろうか喫煙所へ行こうか迷った。
迷っているところへニコが軽い調子で「ま、座りなよ」と自分の横をぽんぽん叩くのでオージは思わずつられて座ってしまった。
ただし、はじっこだ。
それきり二人の間に会話は生まれなかった。外で蝉の声がする。街中で聞くものよりだいぶ落ち着いて聞こえた。
しばらく経つとオージは壁の時計を確認した。
信哉が帰ってくる気配はまだない。
もしかすると自分を置いて帰ってしまったんじゃないだろうか。
オージの胸にそんな心配が浮かぶ。
打ち消さなければ、と思った時には遅く、その不安は坂を転がり落ちたりんごのように止めようもなくなっていた。

りんごがころがる。
りんごがぶつかる。
りんごがくだける。
りんごはもう、もどらない。

椅子のはじっこで黙って俯いているオージをニコは横目で観察した。
グレーのパーカーのフードをすっぽりかぶり、両手は軽く握り膝の上に置いたままぴくりとも動かない。ニコから見たその姿は深刻に思考しているようでもあったし、ただ居眠りしているようでもあった。
「あ、そうだ。サクマドロップスあるけど、食べる?」
ニコはポケットから取り出した缶を差し出した。オージの反応が薄いのでカラカラ鳴らしてみる。
「ハッカとレモンって似てるよね。白いからハッカだと思って残してたら、実はレモンだったとか」
ニコは、うんうんあるある、と自分で自分に相槌を打った。
「並べて比べると違いは明確だったりするんだけどね。ハッカは真っ白で、レモンは透明っぽい白なんだよね。知らない間はずっと人にあげてたから、もったいないことしたなあ、って今になって思うよ。苦手でも食べてみるもんだって思ったね」
膝に置かれたオージの手が、少し柔らかく緩んだ。
ゆっくりとニコに顔を向ける。
「……で、あんたはどっちがすきなわけ?」
お、喋った。
それはニコが想像していたものとは全然違って、ぶっきらぼうなものだった。
あえて目を合わさずニコは「何が?」と訊ね返した。
「ハッカとレモン」
ハッカ。とニコが答える。
オージは自分から訊ねておいて、ふうん、とどうでもよさげに鼻を鳴らした。
「じゃあ、あるよ」
それきりオージは再び前を向いてしまう。
もう少しで見えそうだった顔が先より深くフードに隠れる。
じれったくなってますます缶を鳴らしながらニコは考えた。
で、結局分からなかったので訊ねた。
「あるって、何が?」
「……サクマ式ハッカドロップス。その缶にはハッカ味だけ入ってんだよ」
「なんですと!」
驚いたニコの手から滑り落ちた缶が床に当たり高い音を立てた。
缶口からドロップが転がり出る。
「ふってもふってもハッカしか出ない缶!」
その情報によほど感激したのかニコは落ちたドロップをそのままに目を輝かせている。
オージは一粒を拾い上げると口に含んだ。
「あっ。オージはスモモがすきなの?」
ようやく床に散ったものに気づいてしゃがみこんだニコは、すきなの、という質問と同時に顔を上げて初めてオージを真正面から見た。

(あ。名前どおりだ。ほんとだ。王子だ)。

見られて動揺もしないのならどうして夏にフードをかぶったりするんだろう。
とはニコは考えない。
そこがニコのいいところだった。

「スモモ?」
口にドロップを入れたまま喋りにくそうにオージが繰り返す。
ニコは「今度はおれが教える番っ」と意気込んだ。
「うん、そうだよ。サクマの青はスモモ味の青っ」
っしゃー恩返しできたー、と笑うニコをオージは何の感情も無い目でじっと見ていた。

やがて信哉が帰ってくるといつの間にかオージとの距離を狭めているニコを最初は怪訝そうに、慣れてくるとさも当然のように扱った。

「ニコと何を話してた?」
この後用事があるとかで待合室を出て行ったニコが見えなくなるのを待って信哉が首をかしげた。
いつの間にかオージのフードのかぶりが浅くなっている。

(世の中にはなんて容易く打ち解けてしまえるやつがいることだろう)。

「……ニコ? それが、名前?」
オージは「ニコ」と呪文のように三回呟いた。その後で、覚えた、と頷いた。
「ところでさっきから何食べてる」
そう云いながら信哉はオージの口元に鼻先を寄せた。
「……どうして?」
「ここから甘いにおいが、してる」
ニコからもらったドロップなのだとオージは説明したが信哉は顔を離そうとしなかった。
しばらくしてオージはその理由が分かった。
信哉は少し首を伸ばしてオージの肩に顎を乗せた。
「よかったな、オージ」
この人の優しいところは全部自分が独占している。
オージは静かに「はい」とだけ答えた。


090820