中央駅の裏道を入って行った所にそのお店はある。
ランチタイムを迎えた店内にはいつもより多くの女性客がいた。たまに見かける顔もあるがご新規さんが圧倒的に多い。十代の学生組もいれば、三十代のママさん組、五十代の主婦組もいる。彼女達は仲間との会話を楽しみつつ時々ちらちらとカウンタ内を窺う仕草を見せる。そこに、現在海外旅行中であるオーナーの甥・姫川一馬と、ぶ厚いめがねにぼさぼさ頭の宮沢大路の姿を確認すると、ときめきにもやすらぎにも似た穏やかな表情を浮かべた。
「おい、ばかずま。このドレッシング分離してるけど大丈夫か」
「だめだめ。それは後でミキサーにかけるの。こっちに準備してある分から使って」
「同じじゃねえか。どっちだっていいだろ」
「だめだってば。あ、オージっ。ガーリックトースト焦げてるっ」
ちーん。
トースターを開ける音がして、そう広くない店内に焦げた臭いが漂う。
「ほらあー、もおー、オージが目離すからー」
「……知らねえし」
「知らないじゃなくて、ちゃんと見てないとだめじゃんかっ」
「だめだめだめだめうっせえな。焼き直せばいいんだろ焼き直せば」
「あ、そうだな。って、違うっ。それじゃお客さん待たせちゃうじゃんっ」
一部始終を見ていた女性客が「いいですよ。それくらいだったらコゲだけ取って食べればいいし」と自らプレートを受け取りに来る。
ひめかわが申し訳なさそうに「す、すいませんっ。デザートにアイス付けますんでっ」と頭を下げると女性客は頬を赤らめて微笑んだ。
「あら、ありがとう」
「いえ、本当にすいませんっ」
ひめかわはさらに頭を下げ、オージは面白くなさそうに余所見をしている。
オ レ ン ジ ・ ブ ル ー
「で、許されちゃうところがすげえな。さっすが、ひめ」
店内奥のいつもの席には今日も今日とていつものメンバーが集まっていた。
松橋。エース。まこっちゃん。そして、ニコ。
テーブルの上にはやりかけの宿題が、形だけ、広げてある。夏休みも残すところあと一週間となった本日、すべての宿題を無事に終えているのはまこっちゃんくらいで、その他三名はいまだ空白だらけの問題集に肘をつき、共同でランチプレートに盛り付けするひめかわとオージの仕事っぷりをぼーっと観察している。
「むしろアレがいいのかもな」、キャラメルフレーバーラテのグラスを傾けてエースが云う。
「アレ、って?」
松橋が訊ねるとエースが、
「ああいう、とても上質とは云えない接客がかえって客の心を掴むのかも。ふたりともがんばっててかわいー、って」
最後の部分は裏声での表現だ。
松橋は、うげ、と気持ち悪がった。
「でも確かに、夏休みに入ってからお客さん増えた気がする」
まこっちゃんがそう云った通り、夏休みに入ってから、正確には期間限定バイトのオージがカウンタに入ってからというものどういうわけか日に日に客数は増えている。
「……はあ、女ゴコロって分かんねえなあ」
松橋は愉快ではなかった。
「そうか? おれは分かるけどなあ。男子高校生の手料理をお昼に食べれるのって、なんかいいと思うけど」
そこでエースはにやりとして、
「しかも、ひめかわとオージくんだろ。目の前でさ、あーだこーだと云い合いながら作ってくれんだろ。うん、わっかるけどなあ」
おれはわっかんね、と松橋が半ばムキになる。
そんな松橋をからかうみたいにエースは、わっかるけどねえ、と繰り返した。
(まったくもってわっかんねえよ)。
メンバーの興味がカウンタ内の二人から逸れたのを見はからって松橋は再びひめかわとオージを盗み見た。
注文からだいぶ時間が経っているというのに客は気長に待っている。微笑さえ浮かべて。
(だいたい、ねえよ。飲食店であの身だしなみは、ねえよ)。
松橋はオージのぼさぼさ頭に目をやった。店内は冷房が効いているとはいえ暑さが厳しくなるにつれ見苦しさに拍車が掛かった。めがねのレンズが薄くなる気配は一向に無い。
一体何があそこまでオージを頑なにダサくしているのか松橋は理解に苦しんだ。
こないだ旅行に行ったとき現地で山葵味のソフトクリーム食ったんだけどねー、と話し始めたニコからつと目線を横に流したエースは悶々とした様子の松橋が険しい目でオージを見つめていることに気づいた。
(ベリベに来るといっつもこれだな)。
エースはしばらく松橋を観察する。
それからオージに目を向ける。
ひめかわに何か反抗するつどオージがカチンと音のするほど分かりやすい表情をするのが面白く、吹き出しそうになるのを堪えた。
「さっきから何にやついてんの」
そんなエースに気づいたのは、まこっちゃんだ。
「いや、松橋が面白くってさ」
「おれっ?」
自分のことを笑われていることにようやく気づいた松橋が驚いたように顔を向ける。
「おれのどこが面白いんだよ?」
んー、と考え込むように顎に手を当てたエースはもったいぶって見せた。
口の周りにアイスココアのホイップクリームを付けたままニコが挙手する。
「はいはーい、同感。松橋は最近オージのことばっか見てんもんね」
にこにこ。
数秒後、えええ、と松橋が脱力した。
「勘弁しろっての。ひめじゃあるまいし。ああいう地味なのお断りだから。地味と清楚は違うから」
だからないない、と松橋は顔の前で大袈裟に手を振る。
ニコは「そっかなあ?」と首を傾げただけだったがエースは一層にやにやした。
「しっかし松橋も災難だよなあ。せっかく理想の女の子見つけたと思ったら、正体があのオージくんなんだもんなあ」
「ちっげえよ、ばかエース!」
「何が違うんだよ」
「だから、」
松橋は言葉に詰まった。
確かに松橋が運命の人だと信じ思いを寄せていた「夏のお嬢さん」の正体はオージだった。それは七祭で判明した事実だ。それでも松橋はしばらくの間その事実を受け入れることができず、あれは見間違いか何かだったんだと思い込もうと奮闘したが、ことあるごとにエースが思い出させるのでついに認めざるを得なかった。
今さら否定することも肯定することもできない。
悔しいが、事実だ。
「あ。松橋、困ってる」、ニコが松橋の口元にホイップクリームをのせたスプーンを近づけると松橋はそれをぱくりと食べた。
「……あのなあ、エース。でもこれだけは云っとくぞ」
充血した目を見開いて顔を近づけてくる松橋などほとんど相手にしていない様子でエースは「うん?」と生返事をした。
「おいエース、今日こそはっきりさせとくからなっ」
「どうぞ?」
「おれはなっ」
「うん?」
「あいつのことが好きなんじゃなくて」
「じゃなくて?」
「あいつの」
「あいつの?」
「顔が好きなんだよっ!」
「え、誰の顔が好きなの?」
最後の相槌を打ったのは、ケーキを四つのせたトレンチを持ってきたひめかわだった。
松橋はびくっと跳ね上がり辺りを見回した。
「ななな何だ、ひめかよっ」
「うん、おれだよ。嬉しいっ?」
「おおお驚かすなよっ」
「えー、何驚いてんの」
おっかしーの、と続けてひめかわはまこっちゃんの隣に座った。
「また怒られんじゃねえの、さぼってると」
まこっちゃんが指摘するとひめかわは「だいじょうぶ、ちょっと話して来るって云ってあるし」と、へらっと笑った。
「でさ、なになに。松橋、誰の顔が好きって?」
もしかしておれっ、とテーブルに身を乗り出したひめかわの横顔が近づくとまこっちゃんは顔をそらしながら、二三度すばやく瞬きをした。
エースならばまこっちゃんの動揺とその示すところの意味に気づいただろうが幸運なことにひめかわの頭に隠れてちょうど見えなかった。
まこっちゃんはひめかわの横顔を目の前に見ていた。
松橋に詰め寄っているがその会話の内容はほとんど聞こえない。
会話が消える。
声が分からなくなる。
後は、ただ、心臓の音だけ。
「おい。ケーキ、落ちるぞ」
テーブルの端に押しやられた皿を手で支えて、まこっちゃんはひめかわの上体を起こさせる。
「あっ、ごめん。まこっちゃん」
ようやく気づいたひめかわが少し起き上がってちらりと見てきた。
「ごめん、気づかなかった」
一番心臓が大きく鳴って、それから少しずつ正常に戻る。
浅く薄く呼吸を整えた。
ひめ、おまえ、変わった。
な。
まこっちゃんはふと中学時代のひめかわを思い出した。思い出して重ねた。
か弱くて、元気が無くて、何も信じそうになかった目。
あの頃おれは、ああこの目をいつか、おれが柴さんに会って少し変われたように、おれが変えてやれたらな、と思った。
でも、今は。
今の思いは。
ただ。
どうして、変わってしまったんだ?
なあ、ひめ。
「まこっちゃーん。何ぼーっとしてんの?」
奥に座ったニコが気にかけてくる。
案外エース並に観察力あるなこいつは、と思いつつまこっちゃんは「いいや、何でも」と笑顔で返事をした。
ぶしつけに自分を見てくるエースの興味津々と云ったまなざしは無視した。
ドアの札を『営業終了』に引っくり返したひめかわは「っしゃー」と両方の拳を天井に突き上げる形で背伸びした。
今日の売り上げは夏休み中で一番だった。
お疲れっ、と振り返ったひめかわはオージがカウンタ内でがさがさしているのを見て近寄った。
「何してんの、オージ?」
覗き込むとタオルを持って棚や台の上を拭いている。
「おっさん、予定早まって明日帰って来んだろ?」
今朝一番に電話があった。
帰国予定を一週間早める。
「うん。明日の夕方って云ってたかな」
「だったらお前もさっさと掃除手伝えよ。自分のいない間に店汚れてたら、気分悪いだろ。おっさんも」
そう云ってオージは流しでタオルを絞った。
「……オージ」
何度おすわりを教えてもやってくれなかった愛犬がある日突然お手をしてきたらこんな気分かなあ、とひめかわは思った。
自分が犬に例えられたと知ったらオージは少なくとも明日いっぱいは臍を曲げてしまうだろうが。
ぐっと下唇を噛んでこみ上げてくるものをやり過ごしたひめかわは「うんっ」と大きな返事をすると、いそいそと掃除道具を取りに行った。
090816