茜。

アカネ科の多年生つる草。山野に自生し、初秋に淡黄色の花を開き、球状の黒色の実を結ぶ。根から赤黄色の染料をとる。根は止血・解熱剤。

以上、旺文社国語辞典第十版より。

「うーん」
英語の授業中に国語辞典を繰っていたおれは無意識にその単語について調べてしまっていた。重症。もしかしなくとも即効。
「……向井。おい、向井ってば」
小声で向井を呼ぶ。すぐ前に座る向井は確実に聞こえているだろうにまったく聞こえていないふりをしている。英語教師の雨山が教科書の英文を読み上げながら後ろから近づいてくる。ひとまずおれは姿勢をただすと国語辞典の上に英語の教科書を重ねて隠した。
「おい、向井ってば。柴崎先輩のことちゃんと教えろよ」
雨山が横を通過した途端おれは再び上体を前に乗り出し、向井の背中をシャーペンでつんつん突いた。
「なあってば」
向井は強情にもまだ気づかないふりを続けようとしている。
「どうしておれの罰ゲームの相手、柴崎先輩だったわ、け?」
ん。
椅子から腰を浮かせていたおれは、斜め前から鋭い視線を感じ、そのままの姿勢で硬直した。おそるおそる顔を上げると、振り返った雨山が中指一本で眼鏡の縁を押し上げつつおれのことを見ていた。
「宮野。今おれが読んだところ、訳せ?」
「え、あ、はい……ええと」
ページを適当に開いていたおれは時間稼ぎのため無駄に咳払いしたり椅子から立ち上がる際に足が引っかかったふうを装ったりと姑息な小細工を駆使してやたら時間を掛けた。 その間に向井が自分の教科書に何か書き込んでいる。やがて向井は、書き上げた文章がおれに見えるような角度に立ててくれた。まじで恩に着るぜ、と心の中で両手を合わせたおれは、あろうことか向井という名の腐れ縁の男を信用し何の疑いも無くそこに書かれていることを読み上げたのだった。

「えーと、この星でいちばんおれは茜先輩のことがすきです」

云ってから、ん、と思ったが発言は撤回できない。おれの罰ゲームの内容を知っていた仲間はもちろん、何も知らないであろうクラスメイトまでくすくす笑い出した。
「茜、ってのは、三年の柴崎のことか?」
気づくとすぐ横に雨山が立っていてその顔はちっとも笑っていない。おれは意地でも冗談を貫こうと笑みを絶やさなかったが頬が引き攣るのを隠す術は無かった。
「そういえばおれ確か次の授業は柴崎のクラスでだったな。分かった、おれからも伝えておく。苦しい恋になると思うが、がんばれよ、宮野」
「……いやいやどうぞお構いなく! てかむしろお願いですから構わないでください!」
しかし雨山は聞く耳を持たない。何事も無かったかのように正しい訳文を述べ、次の段落に入っていった。
「ううう……」、脱力したおれは崩れ落ちるように着席した。


罰 ゲ ー ム




授業終了後にやっとおれを振り返った向井の第一声はこうだ。
「今日の帰り、ファミレス寄ってく?」
これに対して云いたいことは色々あるが要約すると次のようになった。
「何てことしてくれんだよ向井」
何が、と不思議そうな表情を浮かべられると本気で分かっていないのかと不安になるが向井に限ってそんなことはない。すべて分かってる。分かってやっている。そういうヤツだ。そういうヤツだからこそおれとつるんでいる。何故ならそれはおれが騙されやすくて信じやすいから。
「あのさ、前から思ってたけど向井って性格悪いよな」
「よく云われる」
「直せよ」
「いやだね」
こうもはっきり云われるとたまに、自分を持っていてかっこいいな、と錯覚してしまうことがある。でもよく考えれば単に開き直っているだけだったりする。特に今日の場合は。
「てかさ向井ってばおれのこと何だと思ってるんだよ」
常々訊きたかったことをおれはついに口にした。緑ヶ丘中学入学時から数えるとこいつとの付き合いももう五年弱。さまざまな罠や策略に嵌められてきた経験を数えだせばきりが無いが、べったりじゃなくてあっさりしたところは唯一好きだ。だから、必然的に、おれと向井は互いについて知らないことも多い。たとえばおれはいまだに向井の家族構成を知らない。もっとも家で猫を飼っているという話は一度だけ聞いたことがあったが。品種がロシアンブルーだということも。ちなみにおれの家にも猫が三匹いる。自慢できることに三匹とも三毛猫だ。美女ぞろいだ。名前は上から雪ちゃん、月ちゃん、花ちゃ……って、いや待て、そういう話ではなくて。
「宮野のこと? うーん、そうだなあ」
向井は即答せず教室の中を見渡した。そして一点に目を留め、あれだ、と呟いた。
「黒板、かな」
「え。黒板ってあの黒板?」、思わず訊ね返す。
「そう。書いても消せる。何度も繰り返し使える。あれだな」
「……いじりやすいってことか?」
「そうかも知れないな」
それを聞いたおれは溜息を吐きながら頬杖をついた。
「ああ、そうですか」
「そうですよ。あのさ、ところで宮野、」
「黒板には耳が無いのできっこえませーん」
「……拗ねたか」
おれは向井の視線を無視する。しばらくすると向井も諦めたか、後ろにひねっていた体を前に向け直した。
「残念だな、せっかく柴崎先輩について解説してあげようと思ったのに」
それを聞いた途端おれは、拗ねていたことなどすっかり忘れてしまい、後ろから向井の肩を両手で掴んで揺さぶっていた。
「えっ、何! 教えてよ!」
それほど強く揺さぶったつもりはなかったが振り返った向井の髪は乱れていた。ごめん、と指で整えてやると向井はふと困惑のような表情を浮かべたが、こほん、と咽喉を鳴らすといつもの向井に戻った。
「まあ、おれが柴崎先輩を選んだのは柴崎先輩について宮野も知ってると思ったからなんだけど」
「知らないよ。おれそういうの疎いもん。で、先輩について何を知ってると思ったって?」
「アノ人さ、ちょっと変わってるんだよ」
「変わってるって?」
「もしかすると幽霊かも知れないんだ」
「いやあ、それは知らなかったな。って……はい?」
「先輩は青葉中学出身なんだけど、その時もほとんど保健室登校だったらしいんだよね」
「その時も、と云いますと現在も?」
「いや、今はちゃんと教室に出てるよ。ま、授業は寝てばっかりらしいんだけど。不思議なことに先生達は黙認している。授業中だけじゃなく一日のほとんどを寝て過ごしてる。同級生の中には先輩の顔をまともに見たことのない生徒が何人もいるくらいだ」
なるほど。それでおれが尋ねて行った時も寝ていたわけか。
「あ。じゃあおれ幸運なんだ。だって柴崎先輩の顔、真正面から見ることできたもん。うわ、レア」
これは良い兆候だ、と笑いを堪えきれないおれを向井は呆れたような目で見た。
「相変わらずのんきなやつだな」
「え、だってそうだろ。同じクラスの人間でさえあんま顔拝めないんだろ」
「そうだけど」
「じゃやっぱり幸運だよ。確率の低いものに立ち会えるということは幸運ならではだよ」
あ。
「そうだ。で、柴崎先輩が幽霊かも知れないって話は具体的にどういう意味なんだ」
すると向井も忘れかけていたのか、ああ、と思い出したように頷いて、
「アノ人さ、中学時代、学校の屋上から飛び降りたことあるらしいんだよね」
聞いた瞬間、おれの背骨が氷結したように冷たくなった。
「それから今の感じになったみたい。何かを超えちゃった、みたいな」
そこでいったん言葉を切った向井は顔を伏せ、ごめん宮野、と謝った。
「え、え、なにごとですか?」
これまでの付き合いで向井から謝ってきたことなど一度もない。おれの言葉遣いもつい妙になる。
「宮野に黙ってたことがあるんだ。実は、おれ、柴崎先輩と親戚関係なんだ。正確には、従弟。母親同士が姉妹で」
「え、あ、そうなの」
「ま、アノ人にはちっちゃい頃から良くしてもらってた。遊んでもらったり、勉強見てもらったり」
「ほ、へ、そうなんだ」
突然の告白におれは間抜けな相槌を打つことしかできない。向井が云わんとするところがまだよく見えてこなかった。
「でさ、だから」、向井が核心を述べようとする気配を見せる。
「う、うん。な、何?」、おれも思わず体を前に乗り出した。
真剣な表情の向井が伏せていた瞼をぱちっと持ち上げる。
自分で近づいておきながらおれは「近いっ」と叫んだ。
「だから、救ってあげてよ、茜ちゃんのこと」
「え、救うの? おれが?」
「いや、救うって云うから大仰になっちゃったな。そうじゃなくて、なんていうか、仲良くなってみてくれ。犬のように」
「い、犬のように?」
「イルカのように」
「い、イルカのように?」
「だって宮野からはそういうオーラが出てるから」
もうめちゃくちゃだ。
わけ分からん。
「あと、今、女子の間でそういうの……流行ってるから」
「またそれかよ! てかお前むしろそっちだろ。本心はそっちだろ。そっちってどっちかおれ分かんないけども! どうしてその話題の時だけ目逸らすんだよ!」
てかお前何か報酬めいたもの貰ってんじゃねえのかその女子から絶対、とつっこむと向井は一瞬の間を空けて首を左右に振った。
「って、なに今の間! 気になるんですけど!」
「気にしない気にしない」
「いやいや普通に気にしますからね!」
おれがなおも問い詰めると向井はついに白状した。
「はいはい貰ってますよ。ええ、お察しの通り妥当な報酬貰ってますが何か?」
「うわ、開き直っちゃった! 開き直りすぎて脚とか組んじゃった!」
「だって仕方ないだろ。西高には永崎真と姫川一馬の永姫、東高には桐谷コウと響信哉のリバ組が存在するんだから。北高にはまた別のマイナーカポーが存在している。……四高のうちの三高はすでに主軸を打ち出していて、我らが南高だけ何も出さないってわけにはいかないだろ」
「え、何の話。まったく見えない」
「今後も需要があることは……確かだ」
「そ、そうなのか。よく分からないけど高校総体みたいなものか?」
「ある意味近いかもな。いやしかし最近は東高と西高の間で頻繁に交流会が行われている。中でも最近目立ってきているのが西高の姫川一馬と東高の響大路による姫大」
「へ、へえ。そうなんだ」
「だから、宮野。南高からの出品はお前と柴崎先輩の宮柴ということでひとつ手を打ってくれないか? 締切日が間近なんだ」
締切って何のだ。
訊ねたいのは山々だったが向井の鬼気迫る熱弁ぶりにおれはただただ圧倒されて、気づけば頷いていた。
「分かった。どうせ向井の思惑抜きにしてもおれ今、柴崎先輩のことちょっと気になってるから」
おれが云うと向井は満足そうに頷いた。
「そうか。さすが宮野だ。これで原稿も間に合うな」
原稿。
おれはもはや疑問さえ抱かなくなった。
だっておれは向井についてこれまでもあまり知らなかったし、これからも無理に暴きたいことなど何一つないからだ。まあ、飼っているロシアンブルーの名前くらいは、いつか訊ねてみたいかも知れない、かな。

「てか向井、柴崎先輩のこと茜ちゃんて呼ぶんだ……」

(茜ちゃん)。
その呼び方で呼んでみると柴崎先輩が今後どんな目で睨んできても怖く感じなさそうだな、とおれは思った。
そんな日が来るのかどうかそれとも来ないのか、それはきっと、神さまにしか分からないんだけど。
神さまの所在さえ知らないおれには、ますます未知の、未定の世界だ。


090906