自分から放課後ファミレスに誘っておきながら忘れて下校という業を成し遂げた向井をそれと知れず待ち続けていたおれは、たまたま忘れ物を取りに戻ってきたクラスの女子から「向井くんならさっき校門出て行ったよ」との報告を受け、ようやく自分がすっぽかされていたことに気づいたのだった。
「……あいついっぺん殴って良いかな」
机の上で枕代わりにしていたバッグを肩に掛けながらおれは立ち上がった。
「教えてくれてありがとな、野村」
耳の横で片手をひらひらさせながら教室を出て行こうとしたおれを、野村の声が引き止めた。
「宮野くん。宮野くんって、柴崎先輩のこと、本気で好きなの?」
ぎくり、と立ち止まったおれは振り返らず「罰ゲームだよ」と弁解した。
「罰ゲーム?」
「そ。賭けてて、おれ負けちゃったから。そんで、柴崎先輩に告白させられた。これ、向井の提案だから」
順序を追って話してみると確かにそれだけのことだった。
罰ゲームで同性に告白させられた宮野暁。
それだけのおれだった。
一時の話題提供としばらくの恥辱。
本来ならそれくらいで済むもんだろう。
でも。
「でも本当に好きになっちゃった、とかじゃないの?」
おれは思わず野村を振り返った。野村はルーズリーフの束を持っていた。忘れ物とはそのことだろうか。そして野村の目は何故かいきいきと輝いている。
「……え?」
硬直しているおれに、野村はまるで暗示をかけていくかのようにゆっくりと質問を繰り返す。
「遊びのつもりが本当に好きになっちゃった。そうでしょ」
野村はおれの横を抜けると先に廊下に出た。
一言、ちがう、と否定すれば良い。それなのに、口がうまく動かせなかった。
そうこうしている内に振り返った野村が勝ち誇ったように口角を上げた。
「だいじょうぶだよ。わたし誰にも云わないもん。……ただ、書くけどね」
書くって何書くんだ野村てめえちょっと待てえええ!
おれの走り出す気配を察した野村が一瞬早く走り出す。
部活は何もしていなかったはずだがやたら足が速い。
ちょうど階段に差し掛かった時、あと少しで捕まえられると云うのに肩に掛けたバッグがずり落ち、ペースが乱れた。
その隙におれの手を交わした野村は、とんとん、と身軽に階段を駆け下りていく。
バッグを担ぎ直したおれは野村を追って靴箱に向かった。
罰 ゲ ー ム
「……ったあ」
当たり所が悪かったのか、おれと、おれがぶつかった相手は双方とも大きくよろめいた。
た、た、た、と三歩後ろへふらついて、おれは何とか持ち堪えたが、相手は持ち堪えられず尻餅をついた。
「ご、ごめんなさいっ。だいじょうぶですかっ」
慌てて駆け寄る。相手の前に差し出した手を、おれは不意にひっこめた。
「……茜せんぱ、いや、柴崎先輩っ」
おいおい神さま。
あんた一体。
何が目的だ。
「……あ、す、すいませんっ」
おれの手に掴まろうとして空振りになってしまった柴崎先輩の手をおれは自分から取りに行く。
咄嗟の行動だったとは云え、結論から云うと、つまり、おれは、柴崎先輩の手を握ってしまったわけで。
ぎゃあああ薄い白い冷たいいい、とあたふたするおれを見上げた柴崎先輩が小さく笑った。
「やあ、宮野くん。あいかわらず元気そうだね」
そう云って柴崎先輩は自ら立ち上がる。
先日、教室の入口で初対面を果たした際の寝起き顔とはまるで別物で、何だかすっきりとしている。眉間の皺も無い。
こっちの方が本当の柴崎先輩なんだろう。
おれは何故か安心した。
「は、はいおかげさまで元気に過ごさせていただいてますっ」
って、おれなんかにおかげさま云われる筋合いねえだろうよ柴崎先輩は。
心臓と口はリンクしている。
おれの発言は不安定だった。
「はっはっは。そいつはめでたいね。じゃ、おれはこれで」
朗らかに笑いそのまま立ち去ろうとする柴崎先輩の腕を、おれは思わず後ろから掴んでいた。
あの時とは逆に。
「ん、何?」
「え、いや、うわ、どうしよ、何か無意識に肘掴んじゃった。すいません、理由無いんですけど掴んじゃいました。用は特に、無いんです、ほんと」
正直になればなるほど墓穴を掘るおれだった。
そんなおれをしばらく不思議そうに眺めていた柴崎先輩だったが、一呼吸置いて、ふーん、と納得したような顔をした。
「宮野くん。きみさ」
「……は、はいっ」
早く離せば良いのにおれの手はいつまでも柴崎先輩の肘を掴んでいる。もう自分の意思ではどうしようもないみたいに。そのくせ指先まで、もうやだってくらいに敏感で、柴崎先輩の体温や骨格や肉づき感などをありのままに伝えてくる。
(なんつうか。もう。壊したい。このまま)。
膝の力が抜けそうな危機感に太刀打ちする術など知らない。
おれがただ闇雲に全身の筋肉をこわばらせて、指先に力を込めてみても、柴崎先輩の涼しげな表情に一遍の苦痛も浮かべさせることはできない。
そんな隙に目尻のホクロが急に鮮やかに迫って、柴崎先輩の顔がおれの鼻の先にあった。
「きみさ、おれのこと、本当にだいすきなんだね」
そう云って柴崎先輩はにっこり笑った。
笑うとやっぱり幼く見える。
いつだって伏し目のような瞼の形、切れ上がった眦に、笑い始めの一瞬だけ、皺が寄って。
そうか。
その笑顔を見て、おれはふと悟ったんだ。
もうこれは認めてもいいもんだ、って。
「……ハイ。だと、思います」
なんだ、それだけのことか。
そうだ、それだけのこと。
口に出して伝えておれはやっと落ち着いた。
ほとんどお互いのこと知らないのにね、と柴崎先輩が首をかしげる。
あなたはそうでもおれは先輩について知っていることがあるんですけどね。
とは、まだ云わない。
「あの、柴崎先輩」
「何だい」
「茜ちゃんって呼んでも良いですか」
「駄目」
「んじゃ、柴崎さん、は?」
「許す」
「じゃ、柴崎さん」
さすがにいきなりは茜ちゃんはだめだった、向井とは並べなかった、と内心ひどく落胆しながらおれは会話を続けることに気を注ぐ。
「柴崎さんは、本気で死にたいって思ったこと、ありますか?」
「無いね。怖いもん」
「そうですか。じゃあ、」
おれは深呼吸してから口を開いた。
「中学生時代、屋上から飛び降りた、って話は?」
突然切り出されて柴崎さんは不可解そうな顔をしていたがそれは不快な顔ではなかったが、それもそうだろう。おれだってどうして自分がしょっぱなからこんなにも核心をついてしまったのか解せないでいるくらいだから。
「ああ、あれか」
柴崎さんは、パーをグーで叩くという、やや古めのリアクションをして見せた。
「あれはね、追い掛けていたんだよ」
「誰かを?」
「さあ。以前あそこから飛び降りた子でもいるんじゃないのかな。追い掛けている間はただ追い掛けることに夢中で、おれ、自分が屋上に登っていたことさえ気づかなかったんだよ」
恐ろしいことをさらっと云う。
正直おれはこの手の話が苦手だ。
「追い掛けて、追い付いたら、どうするつもりだったんですか?」
「宮野くん。きみさ、自分の行動の理由についていちいち考えながら生きてるの?」
「いや、特には」
「だろう。それと同じだよ」
「なるほど。これと同じなんですね」
「分かったかな」
「分かったような気がします」
そこで二人の会話はいったん途切れた。
おれは柴崎さんの瞳を覗き込むように訊ねた。
「柴崎さんって、見えるんですか?」
答えは分かっているようなものなのに柴崎さんが頷くことはなかった。むしろおれが答えの分かりきった質問をしたからこそ頷かなかったのかも知れない。
「そうですか」、確証は得られていなかったけどおれは頷いた。
ふと気配を察し顔を上げると、靴箱の陰から野村がこちらの様子を窺っているのが見えた。
「……え、何やってんだ、あいつ」
そしておれは野村の背後にあの男の姿を見かける。
「あっ、向井! お前なに野村と手組んでたわけか!」
おれが叫ぶと野村と向井は息の合った熟年夫婦のように右手首と左手首をぶつけ合わせた。なんとなく達成感を表現しているような仕草にいらっとくる。
「てか、野村てめえ向井は先に帰ったって云ったじゃねえかさっき」
おれの非難などものともせず野村は手の中のメモ帳に何かをすばやく書き込んでいる。
それを覗き込んでいた向井も満足そうにニヤリとした。
彼らはおれを見ると一層ニヤついた。
「なんだよさっきから!」
そう云ったおれは自分がまだ柴崎さんの手を握っていたことに気づいて飛び上がった。
「ぎゃっ、マジすいませんっ、でもありがとうございますっ」
ようやくおれから解放された自分の手を、柴崎さんは、不思議なものでも見るように見つめていた。
「わっ、すいません、ヌルヌルしてたらすいません、今すぐ洗って来て良いですからっ、おれはしばらく洗いませんけどっ」
と、やっぱり墓穴を掘るおれだった。
しかしどこかで甘い答えを期待している浮かれたおれに。
「ほんとだ。ヌルヌルしてるから、洗って来るね」
柴崎さんは容赦無かった。
帰り道、何食わぬ顔で向井はおれの隣を歩いている。
野村とは校門で別れた。野村と同じ方角の柴崎さんが野村から妙なことされなければいいが、と案じながらおれはおれで向井を睨んだ。
「……説明しろ」
どうせはぐらかされるだろうと思っていたが向井は真面目な顔で振り返った。
「宮野。おれには確信があるんだ」
「……確信?」
「ああ」
「どんな確信だよ?」
「お前と茜ちゃんは絶対うまくいく」
おそらく赤面しているだろうことを、熱くなったほっぺたで実感したおれは目を輝かせた。
「そ、そうかな」
ああ、と頷きながら向井は顎に手を充てる。
「宮野暁。柴崎茜。まずこの名前の並びだろ。夜明けを意味する暁と、夕方の空の表現にも使われる茜。ここがくっつかないわけがない」
向井があんまり確信を込めて云うのでおれも「くっつかないわけがない」と復唱してみた。
確かにそんなことになる気がした。
かっこ、願望という名の妄想。
「じゃ、なんとか締切に間に合いそうな記念としてファミレス寄ろうか。おごるよ」
向井からの申し出におれは嬉々として乗った。
即興でつくったハンバーグの歌を歌いながらファミレスまでの道を歩いていたおれは前方から三人の生徒が歩いて来るのを発見した。
一人は東高の制服で、他二人は西高の制服だ。
「えー、いいじゃんいいじゃん今度オージもキャンプ行こうぜ。おれ、オージと一緒に川で釣りとかしたいなあ」
西高生の内、背の高い方が東高生に話しかける。
ぼさぼさ頭に現代の物とは思えないぶ厚いめがねをかけた東高生は、その勧誘を面倒臭そうに手ではらっている。
「……おれは別にしたくねえし。少なくともばかずまと一緒にはな」
「夕飯は定番のカレーライス。そんで夜は一つの寝袋でいっしょに……、」
ごふっ、と音がした。
ばかずま、と呼ばれた生徒が腹を抱えて前のめりになっている。
蹴ったのはもう一人の西高生だ。さっきから一言も発していないが誰よりも不機嫌そうな顔をしている。
「……なるほど、次のテーマはトライアングルでも良いな」
向井の囁きは聞かなかったことにする。
うん。
「……あ、ども」
ばかずまと呼ばれた生徒がおれに向かってぺこりと頭を下げる。
「あ、ども」
つられておれも頭を下げた。
その時、「あ、同じにおい」と思った。
後で向井に聞いたところによるとさっきの三人組は西高の姫川一馬と永崎真、東高の響大路だったそうだ。
どこかで聞いたような気がするが思い出せない。
以前確か向井から聞いたような気がするのだが。いつだっけ。
「宮野と茜ちゃんには期待してるからな」、レアチーズケーキを注文した向井が真剣な眼差しで見てくる。
ハンバーグセットをおごってもらえると聞いて上機嫌のおれは向井の言葉に反射的に頷いた。
「うんうん。期待してて」
「ミステリアスビューティーな先輩と、バカが付くほどの正直さだけが取り柄の後輩。これ、ちゃんと、需要、あるから」
「うんうん。需要あるある」
今ちょっとけなされた気もするが気にしないぞ。強い子だもん。
「主に女子の間で」
「うんうん。主に女子の間でな」
大好物のハンバーグを待ちわびて脳みそがふわふわしているおれは向井が何を云ってきても疑問には思わない。
何故ならこれまでもそうだったしきっとこれからもそれが心地良いからだ。
天然と思惑。
策略と偶然。
お互いの利益と損失に無頓着なおれたちのバランスは、これからもおれたちを支え続ける。
「宮柴、ってか、柴宮も、ありか……」
ただ、ちょっと、気がかりな部分もあるけど。
090906