宮沢家に不幸があってから数ヵ月後、家督相続から除外された大路を引き取ることにした信哉に、「おれも力になりたい」と云ってきたのは光のほうだ。
その頃学生だった信哉と光は自分たちについて、少なくとも客観的に、置かれた立場を把握するだけの余裕くらいは脳内にも精神上にも持ち合わせているつもりでいた。
そんな二人は大路を引き取った後のことに関していくつか決まりごとを作った。話し合いの途中で意見が割れることもあったが、本質的には共感できる部分が多かった。以下のような部分だ。
一、大路を優先すること。
一、大路に不自由させないこと。
一、大路の意思を尊重すること。但しその意思を尊重した結果として大路が不利益を被ることが明らかな場合には他の選択肢を探し出す等、状況改善の為の努力を惜しまないこと。
などなど。
事件の後、大路は素顔を晒すのを恐れるようになった。
分厚いめがねと前髪で顔を隠すことはその時から始まっている。
信哉も光もそれぞれ大路には特別の思い入れがある。
その思い入れのどちらも、宮沢の継承権が与えられなかったからといって大路を見捨てて行くほど中途半端な類ではなかった。
幼い頃から鎖でつながれていたサーカスの象は、やがて成長して鎖をちぎることができるくらいになっても、決してそれをしないという。
動物、一番最初に覚えたことは忘れられないのだ。
人間も動物の一種だから、知恵が付いても、思考が複雑化しても、同じように忘れられないことがある。
白 黒
信哉が光に出会った翌日、かくれんぼをする子供の数は四人に増えていた。
その日のオニは信哉と光の二人だった。
「双子のどちらかを先につかまえた方に欲しい物をあげる」。
云い出したのは小町だったか大路だったか。
おそらく小町だろうが、シンメトリーな姿の二人だから、わざと小町らしさを真似た大路が云っている、あるいは、云わせられているのだと考えられないこともなかった。
樹に顔を伏せ、十を数え終えた信哉と光が我先にと走り出す。
屋敷の角を裏庭の方向へ曲がった時、さらに先の角に見慣れたスカートの裾が翻った。
「小町!」
駆け出した二人は、足場の不安定な場所に踏み込んでしまったことを感じた。
落下し、尻をしたたかに打ち付ける。
しばらく状況が理解できず放心していた信哉の隣で光がぽつんと呟いた。
「……おとしあな、だ」
落ちた穴は自分達の這い上がれる高さの限度よりわずかに高い。
しかし信哉と光は「すぐに誰かが気づくだろう」と思っていたのでそれほど心配もしなかった。
小さな二匹のオニは無口だった。
しかし、冬の暮れは早い。
不安を煽るように穴の中が暗くなってくるのだ。
「……どうしてだれもこないんだろう」
光の言葉に信哉は英語で返事をした。
きっとこうであればいいな、というようなことを。
すると光も英語で話しかけてくる。
少しずつ暗くなってくる穴の中、信哉と光は次第に打ち解けていった。
いよいよ夜空に星が出始めた頃、穴の上に人影が見えた。
身長や形からして小町か大路かのどちらかだ。
「……ぼくたち、ここだよ!」
光が声を張り上げる。
気づいた人影はまずその場にしゃがんで、それから地面に這いつくばった。
信哉と光の頭上に人影の左右の手が下りてくる。
当初は自力で引き上げるつもりだったのだろうか、しかし力不足と分かって人影は溜息を吐いた。
「……ちゃんとつないでいてね」
横で泣きそうな声になっている光につられて信哉まで悲しくなってきた。
自分の握っているその手が自分と明るい世界とを繋ぐ唯一の細い糸。
ちぎってもちぎれてしまっても、だめになる。
しっかり繋いでいなくては。
ひとりぼっち、置き去りにされるぞ。
その時信哉は、人影の腕が、地面の草に擦れて汚れていることに気づいた。
肘から下の内側。
白くて柔らかな部分。
人影は何も云わない。
すぐに大人が来てくれることを知っているからだろうか、落ち着いている。
二人の握る重みで人影の柔らかな肌はますます草の上に擦り付けられる。
信哉は人影が双子のどちらなのかを確認しようとして目を凝らした。
するとたまたま人影の目が笑った。
「だいじょうぶだよ」
人影の手のあたたかさもその笑った顔の綺麗さも、全部全部が信哉の不安を取り除く要素になった。
日本に来る途中ですでに心細さは最高潮に達していたこと。
宮沢の大人達から受けた冷遇。
一つ一つ小さなことが積み重なって、壊れそうだった。
それは些細なことの積もり積もったものだから、苦しみは数値化しづらかった。
(もう、だめだ)。
差し伸べられた手は、草に擦れて痛んでも、ずっと繋いでいてくれる。
「だあいじょうぶ」。
人影が繰り返す。
信哉は隣の光を見て、彼もまた自分と同じような気持ちでこの人影を見上げてるんだ、と思った。
夕食の時刻になっても現れない双子に気づいた大人達が動き出し、信哉と光はようやく穴の中から救出された。
「小町はだいじょうぶなの?」
大人が最初に心配したことはこれだった。
人影の正体は小町だった。
長時間這いつくばっていたためワンピースは汚れていた。白いレースの靴下も、お気に入りだったはずの赤い靴も。
「大路がいけないの。大路がこの穴を作ったの」
小町は抑揚の無い声で云った。
大人達はその言葉を信じて大路に罰を与えた。その日の夕食を与えない、という罰を。
夕食の席に現れた小町は新しいワンピースに着替えていた。靴下も履き替えている。お気に入りの赤い靴はどうしただろうか。
その日は信哉と光も一緒の席で食事することを許された。
「大路はどうして来ないの? おなかすいていないの?」
信哉よりは日本語の話せる光が小町に問いかけると、
「あなたたち二時間も穴の中にいたんでしょ、どうして大路のことなんか気にするの? 罠を作ったのはあの子よ。わたし、ちゃんと知っているもの」
と、小町は答えた。
小町はふざけて、信哉のことを白猫さん、光のことを黒猫さんと呼んだ。
それきり大路のことは話題に上らなかった。
信哉と光は慣れない箸であたたかい食事を口に運んだ。
携帯電話が鳴った。
昔の出来事を回想していた信哉はその音ではっと我にかえった。
「……遅いぞ、光。もう八時前だ」
不機嫌の滲んだ声になる。
電話の向こうで「第一声から、それ」と光が笑うのが聞こえた。
何がおかしいんだ。そういうところがいちいち気に食わない。
オージはちゃんと帰宅しているか、と恒例の質問を浴びせかけようとした信哉はふといつもと違う背景に気づいた。
「……光、今どこにいるんだ」
「どこって家だけど」
「……辺りがやけに騒がしいな」
「ああ、今日はお客さん来てるからね」
「……客?」
「そうそう」
「……オージは?」
「だから、ちゃんとここにいるって。ったく信哉は相変わらず過保護で心配性だなあ」
「……おい、光。拳とバットは、どっちが良い?」
「しかも凶暴」
「……で?」
「で、って?」
「……客は誰だと訊いているんだ。ニコか?」
それなら心配ないけどな、と内心で呟きながら信哉は生徒会室を出た。
書類チェックの期日など考えていられなかった。
自分から質問しておいて何だが、なんとなくニコではない気がする。
そしてその予感は的中する。
「いやいや今回はニコちゃんじゃない。別の男が三人」
「……男が三人?」
信哉のこめかみが疼いた。
携帯電話を持つ手に力がこもる。
「うん。西高の二年生が三人ほど。オージを囲んで、」
「……何だと」
「オージを囲んで、和気藹々とおしゃべりしてる……って、おい、信哉? おーい、もしもし?」
光は携帯電話を耳から離す。
画面はすでに「通話を終了しました」と告げていた。
「ったく、せっかちな白猫さんだな、おい」
光は苦笑しながら居間を振り返る。
これからしばらく後に信哉が飛び込んでくることはあえて告げないでおこう、と思った。
091107
まだ治ってないのな、携帯電話依存症もといオージ依存症は。って、おれもか。 (by 光)