土曜日の早朝、目が覚めた信哉は昨夜の出来事をざっと思い出した。
テーブルを隔てた奥にはひめかわと松橋、まこっちゃん。
自分のすぐ隣にはオージが眠っている。
上半身を起こしかけた信哉は、着ている上着の半分がオージの下敷きになっていることに気づくと動きを止め、袖から静かに腕を抜いた。オージが目を覚ます気配はまったく無かった。その寝顔をしばらく見下ろした後、部屋の中に光の姿が見当たらないことに気づく。
(オージを差し置いて自分だけ布団使ってたら殺すぞあいつ)。
しかし寝室を覗いても光の姿はなかった。
「ま、あいつの行方に興味なんか無いけどな」、信哉は煙草を持って庭へ出た。
十一月に入ってからというもの朝方の気温はぐっと低下した。しかし上着を取りに戻るのも億劫だし、眠気覚ましにちょうど良いだろう、とポケットに入れたはずのライターを探す。
「おはよう」、挨拶と共に差し出された手の主は確認しなくとも分かる。
「……いつの間に盗った」、煙草に火をつけた信哉は寝癖の付いた髪をかきあげた。
「いやいや、信哉がよく寝てたんで、つい」
「……答えになってない」
「うん、答えてないから」
朝っぱらからこいつと問答を重ねるのもつまらない、と考えた信哉は煙を吐き出すふりをして顔を背けた。
「いいやつだな」、唐突に光が云う。「ひめかわ、だっけ。信哉が話してくれたことあったよな。オージに付きまとってる西高生がいる、って。いいやつじゃん」。
明け方の白い空を二羽の小鳥が飛んで行く。
どこへ向かうんだろう、あんなに急いで。
「いいやつだと思ったか?」
「うん。いいやつだよ。オージがおれ達以外の他人に対してあんなに警戒してないの見るのって久しぶり」
「……そうだな」
「あ、その前にニコちゃんがいたか」
「ニコは特別だよ。あれは、ちっちゃい子供みたいなもんだから、頭ん中」
信哉の言葉に光が「褒めてんだよな、それ」と笑った。信哉としてはそのつもりだったので頷く。
白 黒
かくれんぼ、よくしてたよな、昔。
ちょうど同じことを考えていた信哉は驚いた目を光に向けた。光は気づいているのかいないのか、信哉の視線に構うことなく続ける。
「一本もらっていい?」
光の手が煙草の箱に伸びる。
「駄目だ」、信哉が遮ると光は口を尖らせた。
「健康に悪い」と付け足そうものならお手上げのポーズだった。
「そういえば、信哉は忘れたかも知れないけど、二人して穴に落ちたことあったよな」
また、だ。
またこいつはおれと同じことを思い出している。
昨夜見たアルバムが原因かも知れない。
「ああ、あったな。あの時は、小町がずっと手を繋いでてくれた」
信哉は鎌を掛けてみる。
もしも光がそのことに対して異議を述べたとして、異議の内容が自分が考えていることと等しければ、もう少し光のことを認められる気がした。
「そうそう。小町がずっと傍にいてくれたよな」
だが光の回答は信哉の望んでいたものとは違っていた。
信哉は密かに肩を落とす。
その時、でもな、と光が顔を上げた。
「でもな、おれ、たまに思い出すんだ」
「何を」
「あの日の夕食。大路が食べられなかった時の。小町はワンピースを着てた。夏だったから、半袖のワンピースだ」
「そうだったな」
「おれ、小町が手を繋いでくれてた時、小町の腕がずっと草に擦れてんの、見てたんだ。草負けしてかぶれちゃったらどうしよう、って、ずっと見てた」
でも、と光が信哉の顔を覗き込む。
「夕食の席に着いた小町の腕には、傷一つ無かった」
これってどういうことだと思う、と光は信哉に答えさせようとする。
オージの腕には弱い部分がある。
水に濡れるとそこは赤く目立ってくる。
ある日擦れて破れた皮膚の間から浸透した植物の液が、そのまま再生した皮膚の中に少量閉じ込められ、水やお湯を受けるなどして温度の変化を感じ取ると、今も皮膚表面に蚯蚓腫れのように浮き上がる。
黙っているだけならそれほど印象には残らなかっただろう。
しかしあの時、人影は微笑んだのだ。
「だいじょうぶ」、そう云って、穴の中にいる信哉と光を安心させようとした。
小町と大路が遊びの時以外でも入れ替わっていたことを信哉も光も薄々気づいていた。
特に習い事の時や親族の集まりがある時など、小町は妙に大人しかったし、大路はいつになく活発だった。
「確証は無いが、だいたい同じ解釈だと、思う」
信哉の回答に光は「だよな」と頷いた。
それきりしばらく沈黙だったが、次に光は不可解な質問を口にした。
「じゃあさ、信哉。そういう入れ替わりって、どの時期まで続いてたと思う?」
その質問が何を云わんとしているかを考えた信哉はふとある可能性に気づいた。それは信哉が今まで考えてもみなかったパターンであったが、まったくありえない話でもなかった。
確かに大路はいまだに小町の格好をしておばあ様の見舞いに行く。それが「小町のふりをした大路」だと知っている自分は考えたことがなかったが、もし現に小町が現在まで生きていたとして同じ格好をしていたとしたら「小町の格好をした大路のふりをした小町」というものもありえるのじゃないだろうか。
「いやいや待て。たぶんちょっとずれてる」
信哉の困惑顔を見て、彼の推測がだんだんおかしな方向に向かっているであろうことに感づいた光はストップを掛けた。
「おれが云ってんのは今のオージが小町なんじゃないかってことじゃなくて、事件のあった時点でのことだよ」
「事件のあった時点?」
「そ。あの頃はオージも小町も同じように髪が短かったよな。しかもあの日オージは一人だけ帰りが遅かった為に難を逃れてる。じゃ、オージの帰りが遅かった理由って、何だっけ?」
「……補講を、受けてたんじゃなかったか」
「そう。じゃ、その科目は?」
誘導尋問的なところが気に食わなかったが信哉はなんとか思い出そうと目を閉じた。
「……数学?」
あ、と声が漏れた。
あくまで可能性だから、と光が釘を刺す。
宮沢小町の苦手科目、数学。
宮沢大路の得意科目、数学。
これは何かの偶然だろうか。
猿も木から落ちるように、数学が得意科目だったオージが補講を受けなければならないほど点数を取りこぼすなんてこともありうるだろうか。答えは、イエス。人間だから、勿論、ありうる。試験本番でたまたま調子が出なかったのかも知れない。もしくは気まぐれに白紙でも出したのかも知れない。それだって正当に成り立つ可能性だ。だとするならば、もう一つの可能性だって、それが事実だったとしてもおかしくないだけの確率はあるわけだ。
もう一つの可能性とは次のようなものだ。
(犯人が狙ったのは、本当は、姉ではなく弟の方だったのかも知れない)。
替え玉で補講を受けているなんて家の者にばれたら叱られるに決まっている。
オージは学校を出てすぐ、どこかで制服を着替えたのかも知れない。小町のスカートから、自分のズボンに。
それからオージはようやく安心して帰路に着いた。
「補講を受けていたので遅れてしまいました」、そう何食わぬ顔をして家へ入れば良い。
しかしそこでオージが見た物は、真っ赤に散らばった、それは、
「……確かに可能性に過ぎないな」、信哉は煙草の吸殻を靴の裏で踏み潰した。
事件以来オージが素顔を晒せなくなった理由はてっきり一つだと思っていた。
だが考え方によっては、今のことも十分理由になりうるわけで。
「……光」、縁側から居間に戻りながら信哉は振り返った。
「はい?」
「おれは、お前のこと嫌いだから」
「知ってる。悲しいけどな」
「でも、オージのことをそこまで知り、そして考えられるという点において唯一の同士でもある」
「ごもっとも」
「……ずっと、同士でいてくれ」
光は「お」と目を丸くした。「信哉が素直だ、めっずらし」。
「オージの為だからな」
「はいはい分かってます」、光はそれでも嬉しそうだ。
云わなきゃ良かった、と後悔しながら信哉は居間へ戻った。
肌寒かったのだろう、信哉の上着を体に巻きつけたオージが小さく寝息を立てている。
「……だいじょうぶだ、オージ、おれと光がいるから、だいじょうぶだ」
その言葉がオージの吸う息に溶けてオージの魂にちゃんと浸透しますように。
切に願いながら信哉は西高生三名を振り返った。
松橋の腹の上に頭を、まこっちゃんの腹の上に足をのせた、なんとも迷惑にして不可解な体勢でひめかわが眠っている。
「……いいやつとバカってのは紙一重みたいだな」
その時、ちょうど良いタイミングでくしゃみをしたひめかわに、信哉は思わず苦笑した。
091107