「あっ」。
 ひめかわは思わず声を上げ、歩道橋の上から身を乗り出す。
 たった今、下の歩道を、オージに似たひとが歩いていたような気がした。
 リュックを担ぎ直したひめかわは一緒に歩いていた同級生の群れを離れ、疾走した。
 オージだった。
 あれは絶対オージだった。
 だけど、オージじゃなかった。
「誰だ、あの子?」
 見覚えがあってないような後姿を追いかける。
 オージであって、オージでないもの。
「オージ!」
 追いかける距離がもどかしく名前を呼ぶ。
 心臓はばくばくしていた。
 オージらしき人物が半ば振り返るのが見えた。
 横顔からしてオージであることに違いはなかった。
 ただし、その服装は女物だった。


ブ リ リ ア ン ト ・ グ リ ー ン




「……だから、おれじゃねえって云ってんだろ」
 もう何度目のやり取りか分からない。
 帰りの電車の中でオージは肩に寄りかかってくるひめかわの体を押し返しながら繰り返した。
「絶対オージだったもん」
 視力に自信のあるひめかわも断固として譲らない。
 埒が明かなかった。
 電車の窓からはカナリアイエローをした菜の花が線路沿いにずっと続いているのが見えていたが、贅沢なくらいにどちらも無頓着だった。
「……はあ? だから、どうしておれが女の格好して通りを歩いてんだよ」
 オージはいらだったふうにめがねを押し上げながら、ひめかわの肋骨に肘鉄を食らわせた。
「でも、ふつうにかわいかったよ」
 けろっと答えるひめかわにオージは返す言葉が無い。
「……」
「なあ、オージ。おれ、偏見とかないよ? その、女装癖」
 反論をぐっと呑み込んだオージはすっかりひめかわの存在を無視し始めた。
 鞄から教科書を取り出すと明日の予習を始める。
「似合ってればいいと思うし。それに、女がズボンとスカート普通に履けるなら男だってズボンとスカートの両方を履いてていいだろ。な、そういうことだろ?」
 どうやら話がおかしな方に向かっている。
「……あのな。何度も云うけどな。おれは男だし女装癖もない。あんたが白昼に見た白いワンピース姿の女の子ってのは単なる見間違いか他人の空似か、そうでなければあんたの妄想の産物だ」
 きっぱり教えてやった。
 どうだ、とばかりに睨み上げるとひめかわは感心したような顔で両手を叩いている。
「……なんだ、その拍手」
「今日のオージ、一度にたくさんしゃべれたなあ。って思って。その、お祝い」
「……はあ?」
「ああ、かわいいっ。もう、オージ、かわいいっ」
 がばあっ、と不意に抱き付いてきたひめかわにオージは一瞬呆け、すぐに体を離そうともがいたが、相手の力量にかなわず結局されるがままとなった。
 車両に他の乗客はいない。
 いたところで助けてはくれなかったろう。
 オージの胸の奥が、ちくり、と痛んだ。
(そうだ。世の中、誰も助けてくれないんだ)。
 だから、思わない。
 人から助けてもらえるだなんて、人が助けてくれるだなんて、そんな期待を抱かない。
 人は見てみぬふりをするものだとあらかじめ定義づける。
 どう裏切るか分からない。
 どう変わってしまうか分からない。
 そのように、定義づける。
 すると不思議、楽になれる。
 誰も信じないかわりに、傷つくこともなくなる。

(おれがそういうふうに無機的に生きていったら、あんたもおれを、羨まない?)


「おーい。オージ? もしかして、起きたまま寝てる?」
 はっと顔を上げたオージは今ここがどこで自分が誰と一緒にいたかを思い出した。
 姫川一馬。西高のアイドル、ってやつ。どうやら本人に自覚はなさそうだが有名人だ。
 その手の話に疎いオージも、名前くらいなら聞いたことはあった。クラスの女子が、西高にかっこいいひとがいる、と騒いでいた。芸能人の誰それに似ているという話もあったがオージにはどれも分からなかった。ただ、その苗字がやけに耳に残った。
 ひめかわ。
 そのひめかわが自分の名前を知っていたことは驚きだった。
 あれは2月14日の出来事。バレンタイン当日の朝、チョコレートを渡すため、初めて彼に話しかけた。
 同じ電車で中央まで来ているということは知っていた。
 彼は、自分の乗る二駅前から乗ってくる。それは、毎朝の光景で。
 クラスの女子に云えばそれだけでも羨ましがられただろうが自慢話は苦手だった。
 そのひめかわが、自分の名前を知っていた。
 呼び止めると、振り返って顔を見て、オージ、と叫んだ。

「……なあ、どうしておれなんかを構うの」
 車両はつなぎ目の上を走るたび、がたんごとんと揺れた。
 その無数のリズムのどれかひとつが時として自分の鼓動に重なってくるのをひめかわはしみじみと感じた。
 オージの、くしゃくしゃにかきまぜられた頭。
 不恰好すぎる黒縁のめがね。
 その奥にある瞳が幼い子供のように、正直な答えを待っている。
 これはきっとすごろくのゲームだ。
 おれは今オージに近づいて、嘘を吐くたび一コマ遠ざかる。
「なあ、オージ。それより、どうしてそんなこと云うの」
「……は?」
「自分のこと、おれなんか、って云うの」
 ひめかわのまっすぐなまなざしでオージは全身焼け焦げてしまいそうだった。
 ずるい。
 そんなの。
 車窓から射す陽が、熱いほっぺたの原因でありますように。この体温の意味が、こいつのせいなどでは決してありませんように。
「オージは、えらい子だよ。おれはそう思うけど」
「……なんだよ、えらい子って。子ども扱いしやがって」
「子どもでしょ。おれもだけどね。えへへ」
「……ったく。ばかにしやがって。死ねよ、塩狩峠のように死ね」
 一際強く突き飛ばされたひめかわは緑のシートの上で仰向けになったがすぐに起き上がった。
 めがねを持ち上げるオージの手を取る。
 途中までずり下がっためがねが鼻先でかろうじてひっかかった。
 分厚い硝子越しでない瞳が露わになる。
 ひめかわはその頭を撫でた。
「オージ。いい子、いい子。オージは、いい子だ」
 呆気に取られたオージは言葉が見つからず何度も瞬きをした。
「おれがオージを構う理由? うーん。すきだから。ううん、違うな。えっと、だいすきだから。それだけだよ。それだけだと、悪い? 足りなくて、怖い?」
 わざとらしく大袈裟に云ったひめかわは、てへっ、と笑った。
 怒られる前に、冗談だから、と先手を打つとオージはいつの間にかうつむいている。
「えっ。……ええっ?」
 その両肩を掴んで揺さぶるとオージは逃げるような体勢をとったがひめかわは許可しなかった。
 ふたりでもみ合ううち、やがて緑のシートの上でオージは仰向けになった。ひめかわは上から覆いかぶさる形になった。
 なにやってんだ、おまえら。
 状況を見てそうつっこんでくれるであろうまこっちゃんはこの電車には乗らない。

 つっこみ不在。
 よって続行。

「えっ。なっ、なんで、オージ、なんでオージがそんな顔すんの。かお、真っ赤」
「……ううっ」
 仰向けになったオージは両手で顔を覆って隠そうとした。それでも隙間からは紅潮した肌が垣間見えた。ひめかわも同じくらい顔を赤くして、
「なんでっ。こっちまで恥ずかしくなんじゃん、オージ、いつもみたいに暴言吐けよっ」
「……む、むりっ」
 ひめかわは一瞬間をおいて体の力を抜いてから、ゆっくりとオージの両手首を握った。すぐには許してくれなかったが時間をかけてほぐしていくと諦めたように腕が開いた。
「オージ。どうしよう。オージがかわいい」
「……お、おれに云うな」
「どうしよう」
「……おれの台詞だっつうの」
「片思いでよかったのに。通じ合えなくてもよかったのに。不幸体質だからおれこういうの想定してなかったし。だからこういう場合、どうしていいのか分かんない」
「不幸体質? その顔でよく云うよ」
「ううん。オージのほうが、かわいい」
 攻撃的に褒め合うふたりだった。
 線路沿いの菜の花は五線譜に並ぶ音符となってふたりのために優しい歌を演奏した。


「と、いうわけで」
 駅に降り立ったひめかわを電車の中からオージが睨むように見る。
 その目には、余計なこと云い残したら殺す、と書かれている。
「……」
「……云うなら云えよ。ひめかわ」
「だってオージの目が怖いんだもん」
「蹴らないから云え」
 蹴るほうだった……。
 そっちだった……。
 ひめかわはぶるっと体を震わせながらも云うべきことは云ってやるつもりだった。
「と、いうわけでめでたく両思いになったから。女装姿、見せて?」
 わざとらしく首をかしげたひめかわの顔面にオージはあるものを投げつけた。
 痛みでしゃがみこんだひめかわは地面に落ちたものを拾い上げ、それが何であるかを確認し、しかし意味が分からず、きょとん、とした。

 オージを降ろした電車が再び線路の上を流れて行く。
 小さくなっていくオージを見ながらひめかわは手のひらの鍵を握りしめた。
 頭の中でキュービックが完成し、図柄が見えた。
 そこに並ぶは御宅訪問の文字。
 やっほう、と飛び上がったひめかわは一旦家に帰るのももどかしく、車両内を走り出す。


090316
やっほほーい!(byひめ)