数日間降り続いた雨は朝に止み、青く澄んだ空には白い雲が浮かんでいる。
平日より一時間遅く起床したオージは布団から顔を覗かせ空を見上げていた。目覚めは良かったが外は肌寒く、まだ起き上がる気になれない。
昨夜は居間で読書していた。時計を見上げると間も無く日付が変わろうとしていたことを覚えている。この章まで読み切ろう、と決めて再び本に視線を落としたものの突然眠気が襲ってきた。時刻を確認したことで集中力が途切れてしまい、溜まっていた疲労がどっと出たのかも知れない。しかし一度起き上がって寝る支度をするのもなんだか億劫で、ちょっと休憩しよう、と目を瞑った時、玄関の扉が開く音がした。一瞬体が強張ったが「ただいま」という光の声で安心した。安心して、そこから先は、記憶に無い。
目覚めるといつの間にか寝間着に着替えて布団の中にいた。
そして朝だった。
オージは瞬きをする。部屋の空気が乾燥している。
ふと気づくと庭にある柿の木にいつの間にか実がなっていた。太い枝にカラスが止まって突いている。この日本家屋には当初からあの柿の木がある。しかしオージはまだ一度も実を口にしたことはなかった。毎年カラスが突いているのを眺めるくらいだ。
ジ ャ ン ク ・ ア ン ド ・ ポ イ ン ト
十一月第三日曜日。
今日がその日であることを壁に貼られたカレンダーで確認したオージはもう少し布団に潜っていたい気持ちを抑えた。普段学校のある日は強力なワックスを使って癖を付けているがもともと癖のある方でない髪は、起き上がったオージの頬とうなじにさらりとかぶさった。ぼさぼさ頭を作るためには少し長めがちょうど良い。しかし今日これから対面するのは光と信哉のみだ。髪の毛をいじる必要は無いと判断した。
洗面所へ行き、歯を磨き顔を洗う。
鏡に映る自分の素顔から目を逸らしながらオージは持ってきた厚縁のめがねを顔に掛けた。それでようやく視界に自分の顔を認識できる程度になる。しかしそう長く眺めることはない。逃げるように居間へ行くとすでに光が朝食の準備を終えていた。
「おはよ、オージ。もしかすると今期最後の朝食、さあ召し上がれ。ま、勝つけどな。あいつはりきむとグーしか出さないから」
今期最後の朝食、その内容はスタンダードなものだった。
白飯にわかめと豆腐の味噌汁。おかずは、焼鮭、海苔、卵焼き、キャベツの千切り、そして四種の漬物。茄子、かぶ、きゅうり、大根。どれもすべて光が漬けたものだ。
「すっごいぜ、オージ。ホームセンターでこんなの見つけた」。
これ、つまり漬物キットの購入が一年前の出来事。
それ以来、光はあらゆる野菜を漬物にする。
作る料理が洋風中心の信哉とは対照的に三食とも和食が中心の光だった。
「……いただきます」
両手を合わせて挨拶するオージに光は「はいはい」と返事した。
おかずを食べたオージが一言「おいしいです」と云ってくれると早起きの苦労も報われるというものだ。
「だろ。これからもおれの料理が食いたいだろ」
「……さあ」
「さあ、って何だよ、さあ、って。ったく持ち上げて落とすからな、お前は」
光の半分冗談まじりの愚痴を聞き流しながらオージは、箸を持った手で前髪を横へ流した。いつもより額が見えるようになったが目元は相変わらず鉄壁もとい厚縁のめがねにかくまわれてしまっている。
休日ぐらいそのめがねも休ませろよ、と光は軽く云う。
オージが返事をしないので云い直した。
「おれは、安全だよ?」。
しばし、反応を待つ。
白飯を咀嚼していたオージは回答せず焼鮭の身をほぐしにかかった。
玉砕、と光が大袈裟に肩を落とした直後だった。
「……べつに、光さんのせいじゃない」
相変わらず目線は下に、焼鮭の上に落としたままオージが云う。
朝の光は眩しい。冬の朝はやわらかい。
眩しさとやわらかさの混じった空気がオージを取り巻いて、厚縁の下に見える黒い瞳を潤ませる。
「……オージ」
「光さんのせいじゃないし、誰のせいでもない」
箸の先が器用に魚の骨を摘み皿の脇に寄せる。
その動作から顔を上げた光は、強がっている様子も、本当はもっと心配して欲しいがためにわざとそんな云い方をしている素振りも見せないオージのことが正直分からなかった。
信哉、お前なら知ってるか?
おれじゃなくてお前になら分かるのか?
オージは、どうしてオージはこんなに静かなんだ?
「いや、誰かのせいだろ」、光の口調は思わず吐き捨てるようになった。自覚した後に慌てて改めたが、云いたい内容に変化はなかった。
「不幸なやつがいたら、もしそれが自分なら、絶対に誰かのせいなんだ」
そう断定する光のことをオージはじっと見上げた。
光も決して目を逸らさない。
自分を見つめてくる黒い大きな瞳。
それは、遠い日のかくれんぼ、落とし穴の上から自分を見下ろしていた、あの目だ。
「それくらい、ずるく考えて丁度良いんだよこの世界は、オージ。そうじゃなきゃ、」
じゃなきゃ、これからもずっと生きづらいぞ。
そうだろ?
すんでのところでその質問は飲み込んだ。
生きづらさ、そんなものは、今更おれが思い起こさせなくともオージは分かっているんだ、十分すぎるくらい、分かってる。
朝起きたらまずヘアワックスに手を伸ばし、洗顔後すぐにめがねを掛けてから朝食を取る。姓を住所を学校を変えて、それでも、それを、毎日。毎日。毎日。もしかするとこれからも、ずっと、気が遠くなるくらい、毎日。
「……光さん」、いつもと少し様子の違う光に戸惑いつつオージは切り出した。
「おれ、光さんが心配するほど、ずるくないわけじゃないし。ラクになれる道なら、色々と考えたし。その中で、これを選んで、ラクしてるとこ、です」
一応は、とオージは最後に付け足した。
「そう、か?」、光はそんなオージの顔にゆっくりと手を伸ばした。
信哉が英国の血なら光は南伊太利の血を引いている。髪と瞳の色は黒色だが顔の彫りの深さやシャープな輪郭が、信哉同様、彼を実際の年齢以上に大人っぽく見せる。
近づいてくる指先にオージが身を引こうとすると、動くな、と命じられた。
「……いいからじっとしてろ、オージ」
「……光、さん?」
オージの頬に光の指が、今にも触れそうになる。
その時、庭から大きな音がした。
車が柿の木に追突したようだ、食事を邪魔されたカラスが苛立ったように鳴きながらも飛び立って行く。
何が起こったのか把握できず硬直しているオージの頬に付いていた米粒を指先ですくいあげた光はそれをぺろりと食べた後、にやりと好戦的な笑みを浮かべた。
「お、来た来た」
立ち上がった光はガラス戸を開け、顔の前で手首をひねり、っしゃー、と気合を入れる。
ボンネットに大きな凹みを作った車から降りてきた運転手は、すでに短くなった銜え煙草を砂利に投げ捨てると生まれつきの金髪をなびかせながら颯爽と歩いて来る。眉間には遠目にも明らかな皺を刻むほど不機嫌な表情で。
「……あ、信哉さん」、一口分の焼鮭を箸に摘んだままオージは、その体が無傷であることに驚愕した。
「待たせたな、オージ。ラテンの血を引く黒猫野郎に振り回される生活から今日こそ解放してやるからな」、信哉がそう真顔で宣戦布告すると。
「いやあ、これはこれはグレートブリテンおよび北アイルランド連合国からお越しの白猫様、車一台まともに駐車できないような貴殿にたやすく渡せるような子はうちにはおりませんが」、指の骨を鳴らしながら満面笑顔の光が対応する。
「お前に突っ込んでも良かったんだが近くにオージがいたから断念した」、信哉は土足で畳に上がってくると光の朝食に注文を付けるつもりだったが見た感じの第一印象はなかなかだったのでそれに関しては今のところは言及しなかった。
「わたくしの推測どおりながら貴殿は何か勘違いをなさっておられるようですが」、慇懃な態度で相手の感情を逆撫でしながら光はさきほどの衝撃で信哉に怪我が無かったかさりげなく確認した。
「は、何が勘違いだ。朝からオージに手出しをしておいて」
「ほう。わたくしの先ほどとった行いが貴殿の目にはそのように映った。と、いうことはさぞかし貴殿にそのようなやましい願望がおありなのでしょうね」
「弁解も御託も十分だ。さあ、始めるか」
「同感です、始めましょう」
信哉と光は鼻先が付き合うほど距離を狭め、しばらく相手を無言で睨みつけた。
その後、互いに三歩ずつ後退した。
「今日から半年間、オージとこの家で暮らすのはおれだ」
「引き続き半年間、オージとこの家で暮らすのはおれだ」
まるで示し合わせたように決意の声が重なる。
それから数秒後、どちらからともなく利き手を高く振り上げた。
二人が向かい合っているのを真横から見ていたオージは手に持っている箸の間に焼鮭が挟まったままあることにふと気づき、それを口に運んだ。
ぱく、と焼鮭がオージの口腔に消えるタイミングで二人の両手が勢いよく相手の前に振り下ろされる。
「じゃんけんぽん!」
野次はくどいが勝負は一瞬。
そこに平等の二文字は存在しない。
存在するのは勝者と敗者の二者のみ。
凹んだボンネットの上に渋柿が落ちて音を立てた。
ぼこっ。
「……何故だ」、爪痕が白く残るほどきつく握り締めた自らの拳に向かい信哉が問いかける。
「お。連覇」、顔の前で広げた自らの手のひらを眺めて光は勝利を実感した。
「悪いな、信哉。と、いうわけで今回もおれの勝ちだ。おれとオージの円満スローライフ、あと六ヶ月の延期ね。たはっ」
他の事物ならいざ知らず、オージを賭けた勝負に負けた悔しさは言葉にできない。
余裕綽々の態度で煙草を吸い始めた勝者の光に敗者の信哉は鋭い目を向けた。
「お前まさかとは思うがオージのいる場所で煙草吸ってないだろうな」
「吸ってるけど?」
それが何か、と云わんばかりの光の腰に信哉は蹴りの一撃を見舞った。
「いいか、オージの前では二度と吸うな。分かったか」
蹴られた腰を手でさすりつつ光は「でもさ」と反論する。
「でもだぜ、信哉。おれ達がどんなに手を尽くしたってさ、鳥カゴの鳥じゃないんだからオージだっていつかはどこかの誰かに汚されちまうんだぜ? だったらいっそこの手で汚したほうがいいんじゃないか、って、そういう考え方を……」
「ほう、何だ?」
「……ひっ」、相手をリラックスさせるつもりであえて軽率な言い回しをしていた光は自分に向けられるあまりにも強力な殺意に気づき息を呑んだ。
「何だ、光?」
距離を狭める信哉。どうも目が据わっている。
おお怖、と内心かなり焦りながらも光はなんとか笑みを作った。
「そういう考え方をするやつとかいたらサイテーだって話!」
煙草を揉み消す光の表情から視線を外さず信哉が唱える。
「……ああ、本当に、最低だ……死ねば、いい」
「お、おっしゃるとおりです、はい、異論ございません!」
そんなやり取りを毎度繰り広げている二人を見ながらオージは思った。
(……おれ、不幸じゃねえし)。
信哉と光。
彼らのやさしさが自分のために溢れんばかりであることを。
彼らの注意がいつも深く自分のためにそそがれていることを。
彼らの感情が精神がいつも自分のために乱されては落ち着かないことを。
長くは望まないから、ずっと独占したいとは願わないから、もう少し、そう例えば自分が前髪を短く切って、めがねなんか外して、せめてこの二人の前で、平気でいられるまでは。
(夢中でいて欲しい)。
自分の中にそんな気持ちがあったことを初めて知ったオージは首をぶんぶん横に振ると急に白飯を口の中にかっ込んだ。
「オージ!」
そして、むせた。
柿の木に戻ってきたカラスがその日本家屋の内側を窺った。
中では金髪の男と黒髪の男と一人の子供が一つの食卓を囲んで朝食をとっている。
「おい、光。ふと質問が生じた」
「はい?」
「この味噌汁だが、味噌を入れ過ぎじゃないのか。塩辛い」
「いつもどおりだけど」
「だったらいつも入れ過ぎなんだな」
「へいへい」
「あと、この千切りキャベツ。太さがまちまちだ。こんなものをオージに食わせてんのか」
「食わせてて悪かったな」
「海苔も湿気ている」
「気にすんな」
「それからこの漬物なんだが、」
「ああ何ですか、え、今度は何ですか信哉様! さっきからダメ出しばっか食らわせやがってあんたおれの姑か?」
「この漬物は、うまい。まあ、お前の朝食で褒められたのはこれくらいだな」
「え……」
「うん。うまい」
「て、うわ、何だ今これ普通にキュンてきちゃった。これだから信哉のこと嫌いになれないんだよな、おれ」
「おれはお前のこと嫌いだけどな」
「……ですよね!」
(人間って大変だな)。
カラスは再び柿を突き始めた。
今年もまた冬が来る。
091115
ですよねー。……。うわ何だ今これ普通にシュンってなったおれ。(by光)