始発の車両に西高男子二名が乗り込んできた。
「あー、さっぶい。外、さっぶかったあっ」
座席に着いて松橋が両手を擦り合わせる。
二人の他に乗客はいない。貸切リムジンさながらだ。ただしシートはやや毛羽立った緑色、壁と窓には年期を感じる代物だが。
「手袋使う?」
ひめかわが提言すると松橋が振り返って怒鳴った、「あるなら出せよっ」。
自分だけちゃっかりマフラーまで巻いたひめかわは、え、と首を傾げ、「だって、寒いって一度も云わなかったじゃん」。だから平気なんだと思ってたむしろ寒いの大好きかと思った。そう云ってにへにへ笑った。その笑顔を見ていた松橋は脱力しながらも何故か安心を覚え、ほっと溜息も吐くのだった。
と云うのも先週まこっちゃんと松橋とひめかわの三人で初めてオージの家に行った時のこと。てっきり一人暮らしをしているのだと思っていたオージに実は同居人がいて、しかも彼は北高の生徒会長で、さらにオージの幼少期の写真を所有しており、オージとあたかも家族のように慣れ親しんでいる様子をまざまざと見せ付けられて以来ひめかわは学校でも「同居か」と遠い目をして呟くという有様だったからだ。いや同居とかそんなに大したことじゃねえってむしろ一緒にいる時間が長いと相手の欠点まで目に付いてきてだんだんうざくなってくるってゆうか、とフォローする松橋の肩越しに「欠点まで愛したいんだよ、ひめは。そういうやつなの」と要らぬ茶々を入れてきたのはエースだ。「でなきゃそもそもオージくん選んでないって」。ひめかわ本人もその言葉が図星だったのか余計に暗くなってしまった。それからというもの松橋が放課後スイーツに誘ってものってこなくなってしまった。
まるで不治の病に罹られた息子を献身的に看病する母親がごとくいよいよ心配を深めた松橋が「おれ今日お前ん家泊まりに行くからな!」と半ば押し掛け女房的にひめかわの自宅を訪問したのが先日のこと。突然の宿泊希望にもかかわらず家族は松橋のことを快く受け入れてくれた。その夜、一つの布団で一緒に寝た松橋とひめかわは暗がりに目が慣れてだんだん天井の木目が数えられるようになってきてからぽつぽつと他愛もないことを話した。話題はやがてオージのことに及び、その件に関しての二人の見解は次のようになった。
松橋、「おれはあの顔が好きなだけから、別にひめかわがオージもらってもいいんだぜ」
ひめかわ、「おれはオージの全部が好きだから、うん、えっと、そうだよね、ありがとう、松橋」
オージがその場にいたら「何がそうなんだよ」とこめかみに青筋を浮かせること請け合いだ。
しかも微妙に論点がずれていることに二人は気づいていない。
いずれにしても松橋はひめかわの元気が取り戻せたことに自分としても大きな達成感と安堵を覚えていたし、やっぱりひめは笑ってなくちゃ、と思うのだった。
(あれっ。おれがひめのこと好きみたいになってる)。
ふと心に浮かんだ言葉を松橋は「ないない」と打ち消した。
二人を乗せた電車が走り出す。
窓の外はいつまでも田と畑だった。
「……いやいや、ないない」
数分後、松橋は少し真剣な表情で首を横に振っていた。彼はつい先ほど自分の中に芽生えた疑惑を何とか晴らそうと奮闘しているのだった。
「何が?」
ポケットに手を突っ込んでハミングしていたひめかわが面白いものを捜し求める子供の目で松橋の悩ましげな顔を覗き込む。
反射的に仰け反った松橋は続けて反射的にひめかわとの間に大人三人分の距離を置いた。
「え、何だよ……松橋、おれのこと嫌い?」
ひめかわの目がみるみる悲しげになる。
「そ、そんなことねえって!」
松橋は慌てて首を横に振ったがどうも元の位置に戻ることができなかった。
ひめかわは「じゃあなんでそんな遠ざかるの?」と下唇を前に突き出す。
松橋は混乱した。
(いや、だいたい。ちょっと待てよ)。
そういえば。
「そういえば、ひめ」
「うん?」
「どうして昨日おれたち一つの布団で寝たんだっけ」
「そ、それは寒いからだっ」
今度はひめかわが慌てて目を逸らす。心なしか頬が赤い。松橋はぎょっとした。
「さ、寒いから?」
冷静に冷静にと唱えても鼓動が高鳴るのを止めることはできない。それどころか松橋は自分まで顔が赤くなってきていることを体温の上昇で察知した。
「……で、でもさ、ひめ、お前ん家って布団いっぱいありそうじゃん。てかおばちゃんもさ、一枚しか敷いてないけど良いの? なんて途中で上がってきた時訊いてきたじゃん。あ、あれってさ、何、ってか、ど、どういう意味?」
松橋がたどたどしく紡ぎ出した質問にひめかわは答えない。答えないと云うよりは答えられないといった様子で膝の間の床を見下ろしている。
松橋は眩暈がした。
「ちょ、ちょっと待て。まさかひめ、おれのこと……」
「違う!」
「そんなムキになって否定しなくても!」
「ご、ごめん。でも、これ云うと、松橋、ひいちゃうんじゃないかなって思って」
「な、何! これって何!」
松橋のこめかみを嫌な汗が流れた。
いるはずのないエースやまこっちゃんが自分のことを鬼のような形相で睨んでいる気さえしてくる。
ひめかわはと云うと松橋にその秘密を教えるべきか否か、もしくはどう云うべきか考えあぐねているようだ。マフラーに顎どころか口元まですっぽり埋め、頬を染めている。
「ちょ、ひめ、どきどきしてきた」
「うん、おれも」
「驚かないから云ってくれ。むしろ云ってくれないと呼吸困難で死にそう」
松橋が冗談抜きで訴えるとひめかわはついに意を決したか顔を上げた。
「松橋。ほんとは、押入れに、もう一枚あったんだ。布団」
「お、おう。そうだよな、おばちゃんもそれらしいこと云ってたもんな」
「うん。でも、おれは、どうしてもその一枚を敷くことはできなかった」
「そ、そうか」
「だって、おれ」
ひめかわの目が松橋を見上げる。叱られることを恐れて罪を告白する子供のような目に松橋は胸を痛めた。
(ひ、ひめ。お前いつからそんな目を覚えた!)。
「松橋、ひかないで聞いて欲しいんだけど」
「ひ、ひかないひかない。うん、おれ絶対ひかない自信あるね」
真剣な松橋の目を見てようやく決心が着いたひめかわが座席から立ち上がる。
すう、と大きく息を吸い込んだ。
「だって、おれ」
「う、うん?」
「だっておれ、オージが寝た布団、洗えないんだもん!」
ドアが開き、ちょうどオージが乗り込んできた瞬間のできごとだった。
「……ひくし」、分厚いめがね越しでもはっきり分かるくらいオージの目が冷め、ぼさぼさ前髪の奥で眉間に深い皺がくっきりと寄った。
(布団に関する参照:「ハウス・ハピナイ」)
キ ャ ラ メ ル ・ ラ メ A
数分後、二人から三人になった車内にはひめかわのすすり泣く声が響いていた。
「ひ、ひどいっ。松橋、約束したじゃんっ。ひかないって云ったじゃんっ」
「いや、ひいてんのはオージだから。無理もねえよ。てかオージが泊まったのって夏だろ。もう冬だぞ。要するにおれにその布団使わせたくなかったってことだな」
「だ、だってもったいないじゃんっ。オージが使った布団とかその辺に売ってないしっ」
「そりゃそうだよ、売れねえよ!」
「その点、松橋が使った布団は別にそこまで欲しくないし」
「ああそうですか余計な比較どうも!」
「あ、あと、全然汚れてないしっ」
「……ふう。ひめ、気持ちは良くわかった。洗えは難し過ぎたな」
「そうだそうだっ」
「ならば、せめて、干せ」
ああ一瞬でも夢を見たおれがばかだった、と松橋は少し前までの自分を鼻で笑いながら半分涙目だ。
オージはというとそんなひめかわとは目も合わせずに、鞄から取り出した本を膝の上に広げて読書している。
「……オージ」
土下座の格好で床から見上げたひめかわは、ああオージ今日もかわいいっ、と心の中で連呼した。
反省はしていない。
当然。
「あれっ、オージ、今日マスクしてるね」
話題が話題だっただけに松橋も気づくのが遅れたが今日のオージはマスクにマフラー、髪とめがねはいつも通りだが雰囲気が違う。飛び上がって隣に座ったひめかわはオージの顔を横から見つめた。
「もしかしてオージ、風邪、ひいちゃった?」
「……うっせえ、あっち行けよバカ」
くぐもったその声を聞いたひめかわは両手を握り唇を噛み締め、体の奥から湧き上がってくる感動に打ち震えた。
「ま、まつばせっ。オージがおれの健康を心配してくれたっ」
向かいに座った松橋が「何故そうなった」とひめかわを心配そうな目で見ている。
「うう、マスク姿で暴言吐くオージも、それはそれでかわいい……もごもご云っててかわいいっ……!」
「……重症だ」、呆れた松橋は窓の外の田園風景に目をやった。
本に視線を落としたオージは今朝のできごとを回想した。
「ああ、オージ。おはよう。……光は今何してる?」
光の作った朝食に箸を付けようとしたところでかかってきた信哉からの電話にオージは「えっと、今は、卵焼き食べてます」と素直に答えた。
間違いなかった。
「うん、おいしい。おれの作った料理はおいしい。だよな、オージ、幸せだよな?」
漬物作りが趣味という日伊ハーフの倉木光は、電話の相手を分かっている様子だ。
一本勝負のじゃんけん試合に勝ち、オージとの同居権を連続で勝ち取ったことに対する優越感か、受話器の向こうに届かせるように「二人で食うからおいしい」だの「夕飯は何が良いか?」だのと聞こえよがしに話しかける。
オージは信哉の舌打ちを聞いた。
「……まあ、良い。それより、オージ。今日からマスク着用で登校しろ。マスクは光に買っておくよう云ったからあるはずだ。無かったら買いに行かせろ。ま、うちの高校でも風邪で欠席する生徒が増えてきているしな」
オージは「分かりました」と答えた。
受話器の向こうで信哉が何か云いかけ、「うん」と一人で頷く様子が聞き取れた。
「うん、オージ、風邪対策は大切だからな」
風邪対策、というところを特に強調した信哉にオージは申し訳ない気分になった。
「……はい。光さんにも、伝えておきます」
「いや、あいつが風邪ひいてもおれは困らないから。むしろ、ひけ。そうしたらメンバーチェンジだ」
さほど冗談にも聞こえない言葉を吐いた信哉は「ところで、オージ」と話を切り替えた。
「はい?」
「……最近、変わったことは無いか?」
「変わった、こと?」
「……いや、特に無いなら良いんだが」
無いなら良いんだが何かあったらすぐに携帯に電話しろよ。着信を残してくれるだけでも良い。ま、授業中でも試験中でも出るけどな。
ほぼいつも通りの言葉なのにいつもより慎重に聞こえる。
オージがそう思って聞くからなのか、実際にそうなのか。
「……じゃあ、また、学校で。マスク、忘れないようにな」
信哉の言葉にオージは「はい。また、後で。マスクのこと、わざわざありがとうございます」とお礼を述べてから電話を切った。
通話を終えてからもしばらく受話器を握り締めたまま無言のオージに光はちらりと視線を投げた。
まだめがねを掛けていないオージの素顔は、すでにかき混ぜられた髪の毛に邪魔されていても、少なくとも日中よりははっきりと見える。
昨日はあまり眠れなかったのだろう、起床もいつもより一時間ばかり早かったから睡眠は不十分だ。目の下に薄く赤い縁ができている。オージは寝不足の時によくそうなる。時間が経つと消えていくのだが、朝方はまだ分かる程度だ。
表面上は対立していても、オージの健康を管理するという点で光は信哉に心配を掛けたくはない。
健康、それは肉体的な意味でも、精神的な意味でも。
(ふざけてんのは、どこのどいつだ?)。
受話器を戻して食事を始めたオージを見ながら光は今日の放課後の計画を立てた。
電車が中央駅のホームに滑り込む。
駅には東西南北の名称を冠する四校の生徒が入り乱れている。
ひめかわ、松橋、オージの三人は電車を降りた所でまこっちゃんに会った。
「あ、まこっちゃんだ、おはようっ」
真っ先に気づいたひめかわが飼い主に再会した犬のように喜ぶ。
「今日も朝からテンションハイだな」、白い息を吐きながらまこっちゃんが笑う。
「すげえ、ひめ。この中からよく永崎のこと見つけたな」、その光景を見ていた松橋が感心している。
「もっちろん。そりゃ、おれたち、おさななじみですから!」、まこっちゃんの肩を抱いてひめかわがよく分からないアピールをする。
オージはというといつの間にかその場を去っていた。
しまった、と嘆くひめかわの肩を誰かが後ろからポンポンと叩いた。
「あああっ、ニコだ、なんか久しぶりっ」
振り返ったひめかわに、だね、とニコは爽やかな笑顔を浮かべた。
同年代の女子よりはむしろ中年の女性に愛されそうな、裏の無い(かのような)笑顔だ。その正体がまさか無類の喧嘩好きとは誰にも想像できまい。知ってからはそのようにしか見えなくなったりもするのだが。ニコ本人も「そうじゃなかったらおれ信哉からオージのこと頼まれてなかったね」と断言したことがある。あながちはずれでもなさそうだ。しかも一見そうは見えないところもニコの武器なのだ。
「てか、ニコがこの時間に駅にいるの珍しいな」
「あはは、おれいっつも遅刻しちゃってるからね。遅刻っていうか起きられないだけなんだけど」
それを遅刻と呼ぶんだ、とまこっちゃんと松橋が同時につっこむ。
ひめかわとニコは「だな」と笑った。
「今日はひめに伝言あってさ、待ち伏せしてたってのもあるんだけど」
「おれに?」
「光さんが、あ、分かるよね? 北高の光さん。オージのもう一人の保護者さん」
「うんうん。こないだ会った」
「がね、放課後ここで待ってるって」
ここ、とニコが取り出したのはとある喫茶店の名刺だ。駅から少し歩いたところにある。ジェラートとエスプレッソで有名だ。冬場はキャラメルトーストとワッフルで。
「へえ。光さんも甘いもの好きなのかな」
「嫌いだよ」
「え?」
「あの三人の中ではね、オージと光さんがブラック派で、信哉さんはシュガーアンドミルク派。これちょっとした豆知識」
ミリ単位で飛躍したがコーヒーの話のようだ。
コーヒーだけに豆知識、と自分で解説してしまうニコだがそんなところも女性に受けそうだ。同じことを同じように云って薄ら寒がられる人間もいる一方で。
以上、ジャニオタを母に持つ松橋の推測。
「おれも、行っていい?」、ひめかわの横から店の名刺を見ていたまこっちゃんが呟く。
「ここ、行ってみたいと、思ってたから」。
ニコは「いいよん」と目を輝かせた。「同伴不可とか聞いてないから」。
んじゃおれもおれもー、と松橋が便乗する。放課後スイーツをごちそうになる気まんまんだ。
「ちゃんと伝えたからね。忘れないでね。んじゃ、そゆことで、ばいばい」
右手でグーとパーを二回繰り返してニコは雑踏に消えていった。オージを追い掛けていったのかも知れない。
ばいばい、とひめかわはニコのやり方を真似てその仕草で見送った。
091122
頼むから洗って干してくれ……。(byオージ)