オージは学校の靴箱の前に立っている。
目の前に靴箱があるのだが、名前部分はインクが滲んで読み取れない。
靴箱の扉に手をかけたオージは吐き気を覚えてその場にしゃがみ込む。開いた靴箱から溢れ出した紙切れがオージに降ってきた。紙切れは新聞や雑誌の記事だったり、誰からとも知れない言葉の数々だったりした。同級生達に見られたくなくて慌ててかき集めるのだが次から次へと降ってくる。紙切れの山に埋もれながら、「おれは学校の靴箱で死ぬのか」、とすでに諦観しつつどこかでは恍惚としていた。体を覆っていく紙切れの大群はやがて石鹸泡のように柔らかく軽くなり、オージは目を閉じた。
(そうだ、最初からこうだったら良かったんだ)。
オージはいつも自分を守ってくれる二人の兄の顔を思い浮かべた。
周囲の視線が深い意味を持ち自分のことを眺めるようになってからも二人の視線はたとえそれが自然では無いにしろ変わることはなかった。しかし、今後決して時を経ることのない、行ってしまった者達とは正反対に、可能性としてこれからも生存し続ける自分の存在は母親の異なる兄達の気を惑わすだろう。
信哉も光も本当はもっと自由で良かったのだ、そう考えるオージの頭の中で細い糸がぷつんと切れた音がしたような気がした。
紙切れの落下は止み、辺りは静かだった。
横たわって眠りにつこうとするオージの肩を誰かが揺さぶった。目を開けたくなかったオージは振動を無視する。
「オージくん。オージくん」
男の声が連続して自分を呼ぶ。
確実にどこかで聞いたことがあった。
オージは薄目を開ける。
さっきまで体を覆っていた紙切れも泡も消えていた。オージは電車内にいた。電車は止まっている。窓の外はいつもと違う風景だ。どうやら終点まで乗り過ごしてしまったらしい。オージは顔を上げた。ひめかわだろう、と思った。果たしてそこに立っていたのは同じ「姫川」に違いは無かったが、弟の一馬ではなくて兄の湊の方だった。
ネ ー ム ・ ノ ス タ ル ジ ア
「久しぶりだね。今日は、一馬に会いに?」
んなわけねえだろばあか、とオージはぼんやりする頭で思った。
湊とは一度だけ会ったことがある。五月頃、姫川家に宿泊した時のことだ。口数は少なかったが落ち着いた印象を与えた。それは比較対象として隣にばかずまがいたからかも知れないな、とオージは分析する。
「ごめん。でも今日あいつ帰り遅くなるって云ってたよ」
オージが何も答えなかったので肯定という方向で話を進めていた湊に「ごめん」などと謝られてオージは分厚い眼鏡の下で目を細めた。
「うちで待っとく?」
「……いや、べつにいいし。ここで待つし」、そう断ってからオージは後悔した。自分は信哉か光に迎えに来てもらうつもりでここで待つと云ったのだが湊に対しては一馬を待つと宣言したようなものだ。
オージは俯いてめがねの縁を揺らした。
しかし湊はオージの返事など聞かなかったふりで「じゃ一緒に行こうか」と促した。夢を見ていて寝過ごしてしまっただけなんだ、とは今さら云い出せずオージは仕方無くといった様子で姫川家に向かって歩き出した。だが実はわくわくもしていた。
オージは俯き加減に歩きながら、昼間降った雨で出来た水溜りをうまく避けて歩く湊の靴の踵を眺めた。
「大きくなったんだよ」、湊の言葉にオージは顔を上げた。湊は振り返らず「猫」と付け足す。オージはまた俯いた。適当な相槌が思い浮かばなかった。
「……怖い、夢だった?」
舗装された道に出た頃、湊が訊ねてきた。オージが再び顔を上げると湊は振り返っていた。やはり一馬とは似ていない。オージは「……怖い、夢?」と繰り返した。避ける間も無く湊の指がめがねの下から入り下瞼と頬の境目付近を一撫でした。咄嗟のことに不快感など感じない。オージは驚いて湊の目を見つめる。一馬と違い黒々とした瞳だった。
「だいじょうぶだよ。夢で見た悪いことは現実にならないから」
科学でもジンクスでもないなら思いつきで云ったのだろうが湊の断定っぷりにオージは反射的に頷いた。
湊がバッグから取り出したミニタオルを差し出してくる。
「おれが一馬に疑われる」
オージは乾いた涙の跡を拭いたミニタオルを畳んで返した。先に切り出した湊の動作や言葉にわざとらしさが無かったからこそ自然にできたことだ。
「うちに来た頃の一馬ってしょっちゅう泣いててさ。その度に、おれ、親から疑われるんだよ。お兄ちゃんなんだからいじめたら駄目でしょう、って。おれだってあいつがどうして泣いているのか知らない時でさえ、だぜ」、再び歩き出した湊の後をオージは付いて行く。今度はほぼ隣を歩くようにした。
「な、ひどいだろ?」
「……あの。来た頃、って?」
「ああ、一馬がうちに来た頃のことだよ。もう何年経つかな。八年か」
オージは頭の中で簡単な引き算をした。八歳の頃のことだ。
「でさ、何がそんなに嫌なのかって訊いたことがあるんだ。本当に理由が分からなくてさ。そしたらあいつ、姫川っていう苗字が嫌なんだって。姫って女の子の漢字だろ。小学生の頃ってそういうの気にするもんな。でも、途中で苗字変わるのって、やっぱ嫌だよな」
湊は何か思い出したのか微笑んだ。
オージは、あ、と呟いた。
姫川家に泊まった夜、湊と一馬は似ていないと云うと、一馬は少々むきになっていた。
「……おれも、途中で変わった」
罪滅ぼしに近い気持ちでオージが云うと湊は、そうなんだね、と優しい声で頷いた。そしてそれ以上何も訊ねてこなかった。
オージは湊がどこからどこまで確信犯なのか分からなくなる。一馬は分かりやすいが湊のことはよく知らないが故に分かりづらい。
(と云っても、事実まだ知らないこともあったんだけど)。
姫川一馬。
その名前を受け入れて、「ひめ」になって、オージに出会って、「むしろオージとかかっこよくてうらやましいし」と云えるようになるまで。
オージは視線を落とした。湊の影が自分の前方に伸びている。一歩踏み出せば踏めそうなのにそれも同時に前へ進むから踏めることはない。
「……あいつ、何時頃帰って来るんですか」
オージの質問に湊は「うーん。でもオージくんが今うち来てるよって云ったら即効で帰って来ると思うけどな。電話しちゃおうか」と云い、携帯電話を取り出した。
呼び出し音が鳴っている間「キムチ好き?」と首を傾げてくる湊にオージは無言で頷いた。
なら良かった、と湊が笑う。
「あ、もしもし。一馬? ああ、おれだけど、今さ……」
湊の話し声を遠く聞きながらオージはふと背後を振り返った。
空は橙色に染まり、山の向こうに太陽が燃え落ちるところだった。
091213
えっ、まじ、補講だったけど今すぐ帰りますっ。オージと囲むキムチ鍋っ。(by ひめ)