おっはよオージおはよっ、と玄関先で声を張り上げたひめかわはいつまで待ってもドアが開けられないことに首を傾げた。念のためもう一度しっかりとチャイムを押してみたが反応が無い。鳴っている音は聞こえるのだが誰も出て来ない。
「あれ、おかしいな……」
庭から縁側へ回り込み、硝子部分から中を覗き込んだひめかわは思わず手にしていたバッグを足元に落とした。
朝日が差し込む居間のこたつには蜜柑の盛られたカゴと勉強道具がのっている。これは問題なし。
それでも寒いのかさらに半纏を羽織ったオージが眠っている。ここまでは問題なし。むしろかわいいから最高。
そんなオージの左隣であぐらをかいている人物、オージの異父兄にあたる倉木光。やむなく問題なし。何故なら彼は同居人だ。
そして右隣であぐらをかいている人物、同じく異父兄にあたる響信哉。まあ大目に見て問題なし。何故なら彼は保護者だ。
光がオージの片方のほっぺたに手をあて、信哉がもう片方のほっぺたに手をあてている。
二人はどちらも真剣な顔でしばらく何か云い合っていたが信哉が取り出した物をオージの唇に近づけると光は口を閉ざした。
まあここまでは問題な、「いや、ありだっ!」。
それは小春日和のようにあたたかな冬の一日。
マ ド ロ ミ ・ シ ン ド ロ ー ム
すぱこーん、という音と共に縁側の戸が開いた。
光と信哉は特に驚きもせず顔を上げる。
「お、ひめちゃんか。今日は早いね。おっはよ」、機嫌の良い声で光が笑いかけてくる。
へろん。
ひめかわは思わず笑い返した後で使命を思い出した。
「じゃなくて、何やってんですかお二人ともっ」
「何って?」、光がわざとらしく首を傾げる。どうやらひめかわの動揺を楽しんでいる。
「だから、眠ってるオージを取り囲んで、そういう、密談とか、ああもうっ、みなまで云わせないでくださいっ」
最後まで云い終えることができず頭を抱えたひめかわを見た光が心得た顔で深く二、三度頷いた。まあひとまず落ち着け若いの、とひめかわをこたつの空いている一辺に招き入れる。オージと真向かいの場所だ。
「……おじゃまします」
寒い場所から温かい場所へ入った所為か目を潤ませ洟をすするひめかわの肩に光が腕を回す。
「……うーん、その様子だと。ひめちゃん。だいぶ溜まってるね」
「え?」
「んじゃ、今からラクになっちまうか。幸い寝てるオージは無防備だし、寝顔くらいは貸してくれるだろ」
「な、爽やかな御顔で何おっしゃってんですか、光さんっ」
赤面するひめかわを面白がり笑っていた光の顔があることに気づいて一瞬で真顔に戻った。
「……貴様ら、オージの寝顔を何に使う気だ?」
信哉が冷たい目を向けている。
光とひめかわは真冬の海に突き落とされたのと変わらないくらいの寒気を全身に感じ震え上がる。
「いや、あの、おれはべつにオージを使って何をどうこうしようとかそういうことは考えてなくて全然っ」
ひめかわが必死で弁解するが信哉の目は徐々に細くなっていった。
取り成すように光が間に割って入るが、
「そうそう。いくらかわいいとは云えオージは男だし、だいじょうぶだって、信哉。な?」
「だいじょうぶって何がだ」
余計だった。
三日月より細くなった目を信哉はゆっくりと光に向けた。光が思わず目を逸らすと次はひめかわを睨む。
(……こ、このままじゃ、凍死する)。
ひめかわがそう確信した時、こたつ越しに伸ばされた信哉の手が襟首を掴んできた。ついさっきまで暗鬱に澱んでいた日英混血の瞳が今度はいっそ清らかに澄み渡っている。微笑みかけられたように感じたひめかわは、えへ、と笑顔になって見せるが信哉の次の言葉で再び意識を失いかけた。
「ひめかわ、溜まってるんだってな。おれが助けてやるよ」
居間のこたつは四人の男子で囲まれている。
じわじわ攻める信哉、泣き出しそうなひめかわ、蜜柑を頬張りながら傍観する光、半纏を着込まされ眠り続けるオージ。
「……うう、信哉さん、やっぱおれ自分で処理しますんでっ。どうか構わないでくださいっ」、始まって早々ひめかわが弱音を吐く。
「まだ五分も経ってないが、それは降参宣言と受け取って良いのか」、一方の信哉は嬉々とさえしながら逃げ腰のひめかわを追い詰めた。
「まあ、それでも構わないがな。おれは今後おまえのことを五分未満の男と呼ぶことにする。オージにも教えておこう」
「不名誉っ」
「そうだ、不名誉な事実だ」
「うっ。嘘です、もう逃げたりしません、だから信哉さんも出来ればもうちょっと優しく、」
「だいたいな、こんなものは溜め込むもんじゃないんだ。毎日少しずつやってれば後で困ることなんてないだろ。部屋の掃除と同じだ。どうせおまえの部屋も散らかり放題散らかってるんだろ」
「お、おっしゃるとおりです」
「分かったらさっさと取り組め」
「はいっ」
「……」
「…………あ、あの、信哉さんっ」
「どうした」
「そんなにじっと見られてると、おれ、集中できないんですけど」
「そうか」
「はい」
「そうだったのか」
「そうなんです」
「ま、気にするな」
「いえ気にしますっ」、ひめかわが語気を荒げると信哉が鼻で笑った。
「はん。なあ、ひめかわ。おまえ何才だっけ」
「今年で十七になりましたけど」
「来年から受験生だな」
「ええ、まあ」
「だったらこれくらいのこと、場所がどこだろうが、誰の視線を感じようが、自分の具合がおかしかろうが、最後まで終わらせられるようでないと生きていけないぞ」
「え、生きていけないんですかっ」
「そうだ。最初は難しいだろうが、慣れるところから始めろ。もし行き詰ったらその時はおれが手を貸してやる」
「信哉さん……」、ひめかわが目を輝かせる。
「分かったら返事」
「はいっ」
「返事したら即実行」
「はいいっ」
大きく頷いたひめかわは今までにない集中力を見せることとなるのだった。
三個目の蜜柑に手を伸ばした光はオージが目覚めたことに気づいてその口に房を近づけた。
みずみずしさにつられてオージは口を開ける。
「……なんか、すげえ、うるさい、夢。見た」
オージはどうやらひめかわの訪問にまだ気づいていないようだ。
仰向けのまま顔の横で手を動かす。何かが指先に触れた。見るとリップクリームのスティックが転がっている。
「荒れてたから」、光が自分の唇を指した後でオージの唇を示す。
「……どうも、ありがとうございます」、だけどそこまでしてくれなくても、と内心思いながらオージは礼を述べる。今に始まったことじゃない。
「それより、さっき、ひめかわの声が聞こえたような気が、」
オージの呟きを耳にした光が新たな房を口元に寄せてくる。オージはそれも食べた。おお二個も食べた二個とも食べた、と光が嬉しそうにした。
朝の眩しさの中で餌付けを楽しむ兄。
まだうつらうつらしながらオージはそれを放置する。
シャーペンの芯が紙に何かを書き付ける音。
消しゴムがネチネチ云いながら間違いを消していく音。
光の向かい側に座って何かを眺めている様子の信哉がオージに気づき、ワックスで重く固まった前髪を指先で梳く。
「……信哉さん、勉強、ですか?」
オージの問いかけに信哉は頷いて見せた。
「ああ。宿題だ」
「……そう、ですか。がんばってください」
寝惚けたオージからのエールに信哉は目頭を押さえる。
「ああ、頑張らせるよ」。
ん、使役形。
おかしい点に気づいたオージだったがいつまでも覚えていられなかった。
甘い物を食べて眠くなった。
光と信哉が傍にいる生活。甘い生活。この毎日にも終わりがくる。春になったら。年が明けて冬が行って春になったら。
オージはもう一度目を閉ざした。
シャーペンの芯が数式を書き出す音が音楽のようにまどろみを続行させる。
うるさい夢だった。
常にそわそわして落ち着かなかった。
それでもオージは夢の続きを見てみたかった。
甘さの後に来るものを知ることができれば自分はその甘さを一生忘れらないでいられると思うからだ。
091230