東高三年生の教室。
 黒板に書かれた課題をいち早く解き終えた響信哉は窓から差し込んでくる陽気に軽く目を閉じた。

 イメージの中で中学生の信哉は沼のほとりに立っている。
 底の見えない沼を覗き込もうと身を屈めると、中から伸びてきた細い手に顔を掴まれた。
 闇雲にもがく。
 かろうじて引きずり込まれることを免れた信哉は駆け上った斜面から沼を振り返った。
「どうして?」
 少女の声。
「どうして、ひどいことするの?」
 長い黒髪で隠された肌が次第に露わになるにつれ、信哉の動悸は激しくなった。
「待ってた。わたし、待ってたんだよ。……シンヤ」

 ゆっくりと目を開けた信哉は教室の時計を見上げ、一分も経過していないことを確認する。
 他の生徒はまだ課題に手こずっていた。

 我慢できないあくびを一つ漏らし、今日はオージと帰ろう、とまどろみながら思った。

「シンヤ。……シンヤ」

 自分を呼ぶ少女の声は鼓膜に染み付いて離れなかった。
 オージの顔と少女の顔が瞼の裏で重なり、やがて一致した。

 シンヤ、ワタシヲ、タスケテ。
 信哉さん、おれを、守って。


マ ー ブ ル ・ マ ッ プ




「さぼり? 昼休み、終わってる」

 所変わって西高屋上。
 昼食を食べ損ねたひめかわの目の前にまこっちゃんは売店から買ってきたメロンパンを差し出した。
 受け取ったひめかわはメロンパンとまこっちゃんとを交互に見比べ、我慢し切れなくなったようにまこっちゃんに抱き付いた。

「うわあっ、まこっちゃあん!」

 体の間でメロンパンが押しつぶされる感覚に涙目になりながらまこっちゃんは落ち着きを失わずひめかわの背を軽く叩く。
「はいはい。まこっちゃんですよ」
「おれ、もうどうしたらいいか分かんないんだっ。オージなんか出会わなきゃよかったっ。オージのことなんかずっとただの冴えない男だって思ってりゃよかったっ。知らなきゃよかったっ。でもやっぱりオージがかわいいっ。どうしようっ。まこっちゃん、どうしようっ」
「……えっと、よく分かんないけど、何かあった?」
「昨日、オージの家に招かれた」
 その事実に内心驚きつつまこっちゃんは平常を装い適当な相槌を打った。
「よかったな。なかなかスピーディーに進展してるみたいで」
「うん。そこまでは全然良かったんだ。なのにいざ行ってみたら家の庭先にあの男が、信哉とかいうやつが立ってて。そんで、こんなこと云われた」
「何て?」
「飢えたライオンはサバンナに帰れ、って」
「うーん。あのさ、ひめ」
「何」
「ショックだろうけど、そいつとオージくん、たぶんできてるよ」
「え。やだ」
「おれ、考えたんだよ。オージくんは、ひめの云う通りおそらく素顔はすっごく整ってるよ。きれいだよ」
 オージを褒められてひめかわは自分のことのように喜んだ。
 さっきまで涙を浮かべていた顔に今度は満面の笑みを浮かべ、そうだろうそうだろう、と念を押してくる。
「うん。だからこそ、信哉ってひとはオージくんを変装させたんじゃないかな」
 まこっちゃんの発言にひめかわは動きを止めた。
「どういう意味?」
「ほら、さっきも云ったようにオージくん、きれいだろ。それに背が低いから女の子に間違われたり、そうでなくとも物騒な世の中だから何が起こるか分からない」
「うん。おれなら襲いたいと思う」
(物騒なやつ目の前にいた!)。
 まこっちゃんはやれやれという気持ちになった。
 ここまできたらとことん最後まで付き合うしかない。
 おれはひめの恋を全力で応援する。
「だろ? だから、ひめでさえそう思うんだから別の誰かもそう思うかも知れない」
「やだ。だめ」
「うん、だめだけども。だから、信哉ってひとはわざわざオージくんを冴えない風貌に仕立て上げたんだよ。ぼさぼさの髪。厚いめがね。な? 一度しか見たことないけど、それくらいのことしそうな切羽詰った感じがしただろ。信哉ってひと。高校生にもなって、お迎え付き? ただの友人には見えなかったし」
「うーん。……そう云われたらそうであるような気もしてきた」
 まこっちゃんの推理を聞いたひめかわは半分納得した。
 ようやくまこっちゃんから体を離し、潰れてしまったメロンパンの袋を開ける。
「でもさ、だからって女装させるのおかしくない? 女装は逆効果だと思うんだけど」
「女装?」
 そこでひめかわは自分が見たオージらしき人物について話して聞かせた。
「へえ。女の子の格好したオージくん、ねえ。……それ、他人の空似とかじゃなくて?」
「似てるとかいう次元じゃなくて、もうほとんどおんなじ顔だったんだよ。髪型とか雰囲気はちょっと違ったけど」
 うーん、と唸っていたまこっちゃんが何か思いついたように手を打った。
「分かった。オージくん、双子だ」
「おれもそれは考えた。で、本人にも訊いてみたけどすごい剣幕で否定された。ざっけんなおれはずっとひとりっこだ、って。ついでに蹴り飛ばされた。ほら、見ろよ、まこっちゃん。脛のここ、青痣になってるだろ」
「……。おれ、ひめのこと本気で心配になってきた」
 姫川一馬を蹴る男。
 まこっちゃんの知る限り、今のところそれは宮沢大路ただ一人だ。
「しかもおれ、さいきんその子のことよく見かけるんだ。毎日白いワンピース着てる」
「そんなに気になるんならいっそのこと声かけてみたら」
「うん。だけど、いっつも見えなくなる」
「見えなくなる?」
「ちょっと目を放した隙に、なんていうか、消えたみたいに、いなくなっちゃう」
 ひめかわとまこっちゃんの間を強い風が吹いた。
 メロンパンの入っていた袋がかさかさと音を立てて金網に引っかかった。
 立ち上がったひめかわはそれをポケットに入れると振り返り、アスファルトの地面に座っているまこっちゃんに向かってふいににこっと笑ってみせた。
「まこっちゃん。話変わるけど。おれ、いまね、すっごい楽しいんだ。人から見たら、かっこ悪いかも知んないけど。でも、なんか、楽しい。オージと出会ってから、ずっと」
 ひめかわは照れたように鼻の頭をこすった。
 ああ、とまこっちゃんは頷いて、
「うん、いいと思うよ。ひめが楽しいなら、みんな楽しいから」
 笑い返した。

「あっ。そうだ、ひめ。次の廃屋探検だけど、良い物件みつかったんだ」
 コーヒー牛乳をストローで吸い上げながらまこっちゃんはポケットから地図を取り出した。
 住所は郊外の閑静な住宅街。
 富裕層の邸宅が並んでいることで有名な土地だ。
 その内の一つに矢印が向けられ、上に赤ペンで六桁の数字が記されていた。
「これは?」
 覗き込んだひめかわが数字を指す。
「ああ。これは、三年前の今日の日付を示している」
「ふうん。今日が、どうしたわけ?」
 その質問を待っていたとばかりにまこっちゃんは、二人しかいない屋上で声を落とした。
「今から三年前の今日、ここで殺人事件があった」
「そんな事件、覚えてないけど」
「大々的な報道はされなかったからね」
「どうして」
「被害者の身内がマスコミに手を回し、この事件に関する報道を制限した」
「被害者の身内って?」
「資産家だよ。一族からは官僚も多く輩出されている」
「で、殺人事件ってのは?」
「ああ。今から三年前の今日、この家に住む一家が殺された。被害者は、家主とその妻、それから、当時中学生だった長女」
「犯人は?」
「とある実業家。この家とは仕事上の繋がりがあったらしい」
「財産目当てかな?」
「長女のストーカー」
 ひめかわは体育座りの体勢から後ろに手を付き仰け反った。
 青い空を流れていく白い雲が、途中、ガーゼのように薄くちぎれていた。
「実業家は仕事のために日中この家を訪れていたが、ある日学校から早退して来た長女を見かけた。たぶん、一目惚れだろう。長女と実業家との間に会釈以上の交流は無かったみたいだから」
「思い余って殺しちゃったわけ?」
「うん。そこには記録に残っていないいざこざがあったんだろうけど、長女には許婚がいたようだから、そのこととも何か関係があるのかも知れない」
 ここでふとまこっちゃんは言葉を切り、躊躇うような目をした。
 気づいたひめかわが促す。
「何だよ、まこっちゃん。隠し事はやだやだ」
「うーん、偶然だとは思うんだけど」
「何。どうしたわけ」
「この長女の許婚の名前が、シンヤっていうんだ」
(信哉)。
 ひめかわは、オージの前に立ちはだかっていた男の顔を思い浮かべた。
 神経質そうな物言い。
 隙の無い完璧な防衛。
 オージを変装させ素顔を隠させるという彼の不可解な行動。
 と、最後のはひめかわとまこっちゃんの勝手な考えに過ぎないが。

「ところでさ、まこっちゃん。いっつもいっつもそういう廃屋情報、どこから仕入れてくるの」
「全国に拡がる幽霊同好ネットワークの絆の賜物、とでも云っておこう」
 うっ、またはぐらかされた。
 本当のことを教えてもらうには幽霊会員のレッテルを自ら剥がすしかなさそうだ。
 ひめかわはそう思った。
 その時まこっちゃんが口ずさむ。
「木の葉を隠すなら森の中、銃を隠すなら戦場の中」
「エラリー・クイーン?」
「そ。この原理で行くと、恐怖を隠すなら、恐怖の中……」
 まこっちゃんは小さく呟いて、自嘲気味にふっと笑った。「くだらないね」。
 恐怖を隠すなら、恐怖の中。
 その言葉を聞いたひめかわはふとオージを思い浮かべる。

 いつも攻撃的で。
 だけど本当は素直で。
 つまりそれは作り物で。
 自分を知られることが怖くて。

(なあ、オージ。おまえ、何がそんなに怖い? 何にそんなに怯えてる?)

 切なくなって肌が痺れた。

(ねえ、オージ。その頑なさは、自衛のためか?)

 これがただの恋なら良かった。
 イエスかノーで終わりにできる、ただの恋なら。

(ひめかわかずま。おまえなんかに人が救えるか?)

 ひめかわは茶色い大きな瞳で空を睨む。
 コーヒー牛乳の最後の一滴を吸い上げたストローが、ずずっと鳴った。

 うっせえ神様。
 あんたよりもずっと、おれはオージの近くにいる。

「さ。そろそろ教室に戻ろっかな」
 ひめかわは背伸びをした。先に扉へ向かう。
「じゃ、放課後、校門で。またな、まこっちゃん。今日はありがとう」
 まこっちゃんはひめかわの背に向かってひらひらと手を振った。
「ああ。それじゃ、また後でな、ひめ」
 ひめかわも振り返らずにひらひらと手を振る。

 ひらひら。
 ひらひら。

 モンシロチョウの卵を一途に観察していたあの頃に戻れたら、おれたちはきっと、何も怖くないはず。
 だけど、そのままでいられたら、と願うとおりに、もし、ほんとに、なっていたら。
 誰が、オージが、何に怯えているかなんていう心配だって、きっと、ずっと、できなかっただろう、おれ。


090317
ん? そういえば、ひめのやつ、もしかしてもうオージくんと付き合ってんのか? (byまこっちゃん)