「おれ一人で良かったんだし」。
橋の上からは小さな駅が近くに見える。夕陽が景色を赤く染めている。浅い川面はきらきら光り、足下を流れていく。
相手の顔色を窺っていたひめかわは少し気分が楽になる。だがここで気を抜いてはいけないと思い、素っ気無い態度を取った。
「ふうん。でもオージ一人じゃあんま荷物持てないだろ」
お、云えた。
今度は昼ほどの罪悪感は湧き上がって来ない。ひめかわはパーカーのポケットの中で、まこっちゃんからもらった謎の物体を握り締めた。手のひらから伝わってくるざらざらの感触が心地良い。つるつる、でも、さらさら、でもなくて。ざらざら。
「……おれ、湊さんに話したいことあったんだよ。ばかずま、邪魔だし」
湊に話したいこと、の内容が気になるひめかわだったが全く気にならないふりをして聞き流した。
「ふうん。いつからそんなに仲良くなったの」
「お前には関係無い」、オージが蹴った足元の小石が川面に小さな波紋を作った。
「そっか。おれには関係無い、よな」
これでいいんだよな、エース。
な、松橋。
ひめかわは誰かに頷いて欲しくなった。
「おれも、ほんとは、オージにあんまり興味無いし」。
それは自分が恐れていたことの裏返しなんだ、ひめかわは自分に弁解する。オージがおれに対してそう思っていたらどうしよう、オージにそんなことを云われたらどんなに辛いだろう、もしおれがいつかオージと喧嘩してしまって、本当にそんな気持ちになってしまったら、どうしよう。
って。
「……うん」、オージは小さく頷いただけだった。
「うん、って?」、ひめかわは堪らず問いかける。
風が吹いて髪の毛がなびき、めがねの隙間から睫毛が見える。それは先っぽまで黒く輝いていて、ひめかわは自分が初めて歪んでいくような気持ちになった。歪みながら落ちてゆくような。暗いどこかへ。
「……うん、おれもそれが良いと思う。ずっと、そうじゃないか、って、思ってた」
「何。それ、って何のこと」
「ひめかわ。お前はおれに興味持たない方が、良いと思う」
その時、電車が駅に入って来た。開いたドアから湊が降りて来る。手には買い物袋を提げていた。
「あ。来た。行こっか」、ひめかわはつとめて明るい声でオージを誘ったがオージは「もうちょっと見てる」と断った。もう一度声を掛けることもできたがひめかわはしなかった。オージは川面を見ている。その横顔を見ていると、もう一度同じことを云ったところで同じ返事が返ってくるだろうことは容易に想像できた。
「じゃ、ほんとに先に行くからな」
「……うん」
ひめかわはオージに背を向けて歩き出した。
しばらくして、あのさ、と聞こえた気がして振り返る。相変わらず同じ姿勢で川面を見下ろしているオージに、幻聴かな、と空耳を疑うひめかわだったがそんなことはなかったようだ。
「あのさ、ひめかわ」
「な、何だよ?」
「……お前にとって永崎は大事?」
突然のまこっちゃん登場。
ひめかわは拍子抜けしたような気持ちで「え、うん」と頷く。
「……どれくらい?」
「どれくらい、って」
「どれくらい好きなわけ?」
「へっ?」
「あいつがいないと生きていくことに困るくらい、好きか?」
「え、と。ちょっと待て、オージ」
回答に詰まっていたひめかわはふとあることに気づいて頬を熱くした。
(もしかして、これ、作戦の効果が出てるってことじゃん!)。
今にもオージに抱き付きたい気持ちを押し殺しつつひめかわは真顔を保った。
「うん。好きだ」
「……ふーん」
「すっごく好き。だっておれまこっちゃんがいないとダメダメでほんっと生きていけな、い……って、ああ、何でっ!」
ひめかわの見ている前でオージの腕が大きく振り被った。
その手から解き放たれた小さな物体が夕陽に向かって放物線を描く。
スローモーションのようにゆっくりと回転しながら飛んで行き、ぽちゃん、と遠くの川面に波紋を立てたのは。
「まこっちゃんからのお土産っ」
ひめかわは欄干に身を乗り出した。
目を凝らすが遠くの川面には波紋さえ残っていない。
当然、跳ね返って戻って来るなんてこともない。
「何してんだよ、オージ」
ひめかわはオージの肩を掴むと強引に自分を向かせた。
「……ちょ、ばか、離せ、痛いからっ」
「こっちは何してんだって訊いてんだよ。無視すんなよ」
肩に食い込む手から逃れようと身を捩るオージをひめかわは容赦無く揺さぶった。
「……何って見てただろ、捨てたんだよ、永崎からもらったやつだよ、だっておれああいうの要らねえもん、みんなで仲良くおそろいとかそういうのなんかバカみたいだしっ」
暴れるオージの顔からめがねがずり落ちそうになる。
「そっか、オージっていっつもそうなんだ?」
突然声色の変わったひめかわをオージは不安そうに見上げた。
「……な、何がだよ」
「いっつもそうやってバリア張ってんだ。何も信じないようにしてんだ。自分以外の人間の気持ちとか分かろうともしないんだ」
「……」
「自分のしたことで人が傷つくことがあるって、ちゃんと考えたことあるか?」
「……」
「ほら」
「……何」
「嘘吐くじゃん。オージ、そうやっていっつも、本当に云いたいこと飲み込んで隠すじゃん。絶対に教えてくんないじゃん。一年くらい一緒にいるけどさ、おれ、オージのこと全然分かんない」
オージが口ごもるのを見たひめかわは続けた。
「こういうこと、ちゃんと云わなきゃだめだったね。おれ、オージが好きだから我慢してたけど」
「……どうして、我慢してた、なんて恩着せがましく云われなきゃなんないんだよ。頼んでねえし」
「誰にだって色んな秘密あると思うよ。でも、これだけは覚えとけ」
ん、と顔を上げたオージの肩からひめかわはようやく手を離した。
「何があっても、腐るんじゃねえよ」。
改札を出て来た湊に駆け寄ったひめかわは、その手から荷物を一つ受け取った。
「あれ、オージくんは?」
「もうちょっとあそこにいたいんだってさ」
「置いてっちゃって良いの」
「本人がそう云ってんだもん」
ちらりと盗み見たオージの背中は赤い景色の中でとても小さく見えた。
向こうに赤い雲が浮かんでいて、ひめかわにはそれがオージから流れる血に見えた。