和室で目を覚ましたまこっちゃんは横たわったまま庭を見た。
外は日が落ちすっかり暗い。
台所から夕食の支度をしている峰子の声が聞こえてくる。
「うわー、松橋くん、キャベツの千切り上手ね! 細いし早いし、すごーい!」
なるほどあのテンションをひめは受け継いだのか。
体を起こしたまこっちゃんは脚の間で白と黒のぶち猫が丸まっていることに気づいた。まこっちゃんの膝に小さな顎をのせて気持ち良さそうに喉を鳴らしている。
(もう少し、このままにしておこう)。
細いひげを震わせている額を人差し指でそっと撫でた時、猫がその丸い目をぱっちりと開けた。
「久しぶり。まこっちゃん」。
起き上がった猫はまこっちゃんの脚の間をすり抜けたところで行儀良く座り、子猫のような甘え声で「みうみう」と鳴いた。
湊だ。
猫は顎を掻いてもらいたそうに頭を仰け反らせている。
やはり飼い主には敵わないか。
「はい。バンホーテンのココア。好きだったよね」
「あ、ありがとうございます」
猫につられたわけではないがまこっちゃんも正座した。
湊は隣にあぐらをかいて座る。
「さっきニコちゃんって子に会った。かわいくて面白いね。子供みたい」
他の人が云うと皮肉に聞こえるだろう言葉も湊が云うとちっともそうは聞こえない。聞いているまこっちゃんも素直に頷くことができた。もちろん、皮肉の意味ではなく。
姫川湊。
弟である一馬とは血が繋がっていないこともあり似ていない。外見のことだけではなく、中身のことだ。
それを云うと、ひめかわには珍しくまこっちゃんに対して拗ねるのだが。
「今日は家の中が学校みたい。賑やかで、たまには良いな、こういうの」
そうですね、と頷いてまこっちゃんは抹茶を飲むようにバンホーテンのココアに口をつけた。
あたたかかった。
自分が以前この飲み物がおいしいと云ったことを覚えていてくれた。
だからあったかいココアだった。
「まこっちゃん」
「はい」
「ありがとね」
「……はい?」
ココア表面の白い渦巻き模様を見ていたまこっちゃんは隣に目を移した。あぐらをかいた脚の間にすっぽり納まった猫が人間のような表情を浮かべている。会話の内容を理解しているかのようだ。
「一馬のこと。おれが云うのもなんだけど、ありがとね。あいつ、まこっちゃんのおかげで変われたからさ」
まこっちゃんの胸がちくりと痛む。
猫の真っ黒な瞳が「それはどうして?」と訊ねてくる。
まこっちゃんは答えることができない。
猫の真っ黒な瞳が「それはどうして?」と問いかけてくる。
まこっちゃんは目を逸らした。
「……違います。おれが変えたんじゃなくて、あいつは元に戻っただけ。あいつが明るくて人気者なのは、もともとです。あいつは、いじめられたことなんか無かったです。全部あいつの被害妄想で、ほら、そういう時ってあるじゃないですか。なんかの理由で弱ってたりなんかすると、」
「親の再婚とか」
「です。……あ、すいません」
「お構いなく。その話は別に傷じゃないよ」
「で、だから、えっと、あれ、何の話だったっけ」
珍しく混乱しているまこっちゃんの手からココアの入ったカップが抜かれた。あ、と云う間も無く湊が口を付けている。猫が首を伸ばして同じ物を欲しがる。気づいた湊が「だーめ。猫舌だろー?」と諭すと猫はおとなしくなった。
こいつやっぱり言葉を理解している。
呆然としているまこっちゃんの手の中にカップを戻した湊が「おいしい」と笑う。
(そんなハズ無いハズなのに、ひめに似てる)。
ありがと、と繰り返す湊の横でまこっちゃんは俯く。
自分のしてきたこと。
してはいけないことを、してきたこと。
その内容を知っていたら湊は自分にその言葉を与えてはくれなかっただろう。
ありがと。
って。
「あ、あのっ」
顔を上げたまこっちゃんを湊が見下ろす。
「ん、何?」
まこっちゃんの舌が願っている。
全部、云いたい。
もう、やめたい。
だが、出てきた言葉は。
「お、おいくつですかっ」
何だこの流れは。
まこっちゃんは自分の発言に硬直した。
「え、おれ?」
「はい」
「十九だけど。一馬と三つ違い。前、云わなかったっけ?」
「いや、知ってます」
何だそれ。
まこっちゃんは毛布にもぐってじたばたしたいような気持ちになったが今ここでそうすることはできない。
その時、丁度良いタイミングで峰子の声が響いた。
「みんな、ご飯、できたわよー」
本日のメインメニューはクリームコロッケとキャベツの千切り。松橋製だそうだ。
ラ ブ リ ー ・ ブ ラ ウ ニ ー 4
「実はおれ母親との二人暮らしで、夕飯作ったりしてます」
人数分の茶碗にご飯をよそいながら松橋が云うと峰子は感心したように拍手した。
「だから料理上手なのねー」
「え、松橋んとこって二人なんだ」、松橋から茶碗を受け取ったエースがそれを一つずつ食卓に並べていく。
「なんでエースが知らねえんだよ。おれとお前の仲だろ」
「じゃ、松橋。おれの家族構成は?」
「……えっと、」
答えられない松橋の代わりに挙手したのはニコだ。他のみんなが協力して食卓を整えている中で一人だけすでに席を取っている。幸せなのは、そんなニコに誰も指示をしない点だった。サボっていても不思議と違和感が無いのである。本人に云わせればこれも神様からもらった才能の一つだろうか。
「はいはい、おれ知ってるよん。エースは両親とお姉ちゃん三人の六人家族だもんね」
「ぴんぽーん。ニコちゃん大正解。愛してるぜえ」
今度は松橋が「え」と驚く番だった。
「……会って一年にも満たない他校の生徒には教えて、おれには教えないなんて……」
嘆く松橋の隣でまこっちゃんが、付き合いが長いほど案外知らないこと多かったりするから、と独り言のように呟いた。
「永崎のとこはどうなんだ?」
松橋が問いかけると、
「うち? うちは両親とおれの三人家族。平凡な核家族。兄弟いないし、ペットも飼ってないし、こんなにうるさい夕食とか食ったこと無いな」
「だってさ。ひめ、知ってた?」
エースと松橋ほど歴史は長くないがまこっちゃんとは中学時代からのおさななじみであるひめかわにニコは話をふってみた。
「おーい、ひめー、無視すんなー」
「……ひめ?」、様子に気づいたまこっちゃんが再度呼びかけるも廊下に立ち尽くしたひめかわは振り返らない。
「おれ、外、見て来ようか」
ドレッシングを混ぜる手を止めた湊のその言葉でまこっちゃんはひめかわが待っているものを知った。
「オージ、道に迷ってるかも知んない……」
そういやずっと前にも似たような状況あったな、エースはふと回顧する。あれは確か夏。西高の七祭の終わり。
「一本道だったし大丈夫だろ」、エースとしては元気付けるつもりで云ったのだがひめかわの不安は別の方向に逸れただけだった。
「でも、でも、逆方向に歩いてったのかも知んないしっ」
そこまで音痴じゃねえだろ、とつっこむ松橋に被せてニコが「あはは。オージならありえる」と暢気に笑っている。
ニコが云うならありえるということか。
「そだ。信哉に探してもらおう。オージセンサー付いてるからすぐ見つけてくれるよ。そのかわり連帯責任とらされるけどね。あはっ」
それだけはダメだっ。
満場一致で反対だった。
連帯責任。
その言葉で全員の頭に浮かんだのは金属バットを引きずりながらゆっくりと迫ってくる信哉の姿だ。前髪の陰に隠れた顔が照らされると、開き切った瞳孔に薄っすらと不吉な笑みを浮かべている。
「……やばい、おしっこ漏れそう」、ぶるりと震え上がった松橋が股間を押さえた。
「うーん。じゃ、どうしよ。だいたい、どうして一緒に帰って来なかったの?」
ニコの質問にひめかわは答えることができない。
その上、想像は悪い方へ転がる一方だ。
「……うう。誘拐だ。オージかわいいから誘拐されたんだ。どうしよう、どうせならおれがオージ誘拐したかったのにっ」、その場に崩れ落ちるひめかわ。
「何云ってんだ、落ち着けよ。大丈夫だって。な、ひめ。一般的に見たらオージくん全然かわいくないから大丈夫だって」、松橋が慰めるも効き目はない。
「じゃ、やっぱり迷子になってんだ」
「だからそれは無いってさっきも、」
「……今頃どこかで泣いてるわ!」
「サツキか!」、便乗した峰子の肩をエースが叩いた。ぺちっ。
分かってくれて感動したわ、と頬に手をあてる峰子の前でエースがお辞儀する、「いえいえ、どういたしまして」。
その頃、姫川家の玄関先でオージは立ち尽くしていた。
家の中からみんなの話し声が賑やかに聞こえてくる。
(なんか、入りづらい)。
背中に冷たい風が吹き付け、上着の前をぎゅっと合わせた。
話し声と一緒に夕食の良い香りが漂ってくる。
オージの空っぽのお腹が、ぐう、と鳴った。
「……よし、と」
いつまでもここに立っているわけにもいかない。
ようやく意を決したオージは、しかし自分より先に内側からドアノブが回される気配を察知して一歩後ずさった。
勢い良くドアが開き、俯いていた顔を上げたオージは湊に抱き締められた。
「あ、ちょうど良かった。おかえり、オージくん」
「……あの、ちょ、っと」
戸惑ったが、突然の抱擁からはすぐ解放される。
そうかこれはこの家の習慣なんだべつにおれが特別なわけじゃないんだ。
そう結論付けることによりオージは自分を納得させる。
「あ、オージだっ。おかえりっ。オージ、おかえりっ」
「……あ、ばかずま」
この時ばかりはエースも松橋もオージに駆け寄るひめかわを止めることはしなかった。
食卓に箸を並べていたまこっちゃんがオージの帰りを知り、ほっと息を吐く。
ぶつかる勢いで頬を擦りつけて来るひめかわの体を全力で押し返しながらオージは小さな「ただいま」をした。
ひめかわはたった一度の「ただいま」に、大きな「おかえり」を何度も何度も返した。
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