「クリームコロッケ、おいしかったな……」。
浴槽のお湯に肩まで浸かったオージは白い湯気を眺めながら夕飯を思い出す。
他人の家で他人の作った夕飯を食べ、食後の風呂に入るのなんて、ほんの一年前の自分では考えられなかったことだ。
伸ばした両脚を引き寄せて体育座りの格好になると湯面に赤くなった二つの膝小僧が出る。
熱めの湯が体中の血を温め、心臓が、とくんとくん鳴っているのが分かった。
(「あ、オージだっ。おかえりっ。オージ、おかえりっ」)。
オージを見た途端、手放しで喜ぶひめかわの笑顔。
体まるごと心臓になってしまった。
髪を後ろに撫でつけ、目の前に並んだ膝を両手で覆う。
黒い瞳が湯気の中で潤んだ。
「……あいつ、ほんと、ムカつく」。
ぱしゃん。
小さな飛沫が上がってオージは頭のてっぺんまでお湯に潜った。
ラ ブ リ ー ・ ブ ラ ウ ニ ー 5
先に入浴を終えたエース、ニコ、松橋、まこっちゃんの四人は和室に集まりトランプをしていた。
「はい、ダウト」。
まこっちゃんに指摘された松橋が「うおっ」と呻いた。
上がりまであと一歩というところで一気に増えた手元のカードを、松橋はうんざりした顔で眺める。
「あー、おれもう永崎の隣、やだー。なんか今日すっげー攻撃的だもん」
松橋がまこっちゃんに対してぶつぶつ文句を云っている間にエースが自分の持ち札を捨てる。
「ねえねえ。お布団、足りないよね。どうする?」、家から持参してきた板チョコレートをかじりながらニコが云う。
確かに、和室に敷かれている布団は二組のみ。来客用の布団が足りなかったためだ。
「おれ、松橋とだけは嫌だな」、まこっちゃんがぼそりと呟くと。
「こっちから願い下げだっつうの、5!」、松橋がカードを捨てながら吐き捨てた。
「じゃんけんで勝ったやつ二人だけが布団で寝れるとか?」、ニコが提案し。
「え、おれニコちゃんとだったら寝れる」、最近やけにニコ贔屓のエースが松橋にとって嬉しくない発言をする。
「ちょっと待て。そうしたらおれが永崎とってことか」
「嫌なら雑魚寝でもすれば」
「何でそっちが布団取るの前提だよっ。あ、おれもうお前らとやってらんね。ひめの部屋に行こっかな、っと。じゃあな」
手持ちのカードを投げ捨て立ち上がった松橋の脚を両サイドのエースとニコが一本ずつ捕まえる。
「ここは空気読もうなあ、松橋。上はひめとオージくんってことでさっき決定しただろー?」
「おれが一緒に寝てあげるからっ」
二人を見下ろした松橋は事情を思い出し「あ、そうだった。上はひめとオージくんだった」と再び輪の中に座り直した。
投げ捨てたカードは山に混じり、ゲームはなんとなく終わりということになった。
「今日こそ、ひめ、うまくやるかなあ。シチュエーション的にはかなり良いと思うんだけど。喧嘩して仲直り、の夜でしょ」
あぐらの上で頬杖をついたエースがにやにや笑う。
やらしい顔すんなっつうの。
そう云う松橋だが表情は似たようなものだ。
「風呂上り、最高」
「ぽかぽかオージ」
「ノーモアめがね、ノーモアぼさぼさ」
「むしろふわふわオージくん」
「そ。むしろふわっふわの、むしろでれっでれオージ」
「風呂上りって、最高」
「まじ、最っ高っ」
「とろける?」
「とろけるとろける、氷の心が?」
「まつばせっ」
「うおお、エースっ」
付き合いの長い幼馴染同士ならではの他者を寄せ付けないやり取りを一通り交わしたエースと松橋は互いに気持ちが高ぶってきたのか突然がっしり抱き合った。
まこっちゃんは呆れたように溜息を吐いた。
こいつらまた会話のレベル下がってる。
「はい、ダウト。まこっちゃん、ダウト」。
驚いたまこっちゃんはエースの顔を見た。
口元に笑みを浮かべてはいるが、目は真剣だ。
「……ゲーム、終わってるし」、冷静を装って両手の内をわざわざ見せつける。
もともとタレ目の目尻がさらに下がった。
銀紙を剥いていたニコが二人の顔を見比べている。
しばしの沈黙を破ったのは、ニコの歯に挟まれた新しい板チョコレートの折れる、乾いた音だった。
ぱきんっ。
階下の四人がトランプゲームに興じている頃、二階の自室に布団を敷いていたひめかわは、なかなか上がって来ないオージが気がかりで階段に向かうところだったが、湊の部屋の前に来たところでふと歩みを止めた。
中からオージの声が聞こえたような気がする。
気配を消し、ドアに耳を当てる。
ひめかわはオージが「湊に話がある」と云っていたことを思い出した。それと関係あるのだろうか。
いけないことだと思いつつも素通りできなかったひめかわは気配を殺すとドアの前に座り込んだ。
「オージくん、こういうこと初めて?」
「……すみません」
「いやいや、訊いただけだから。初めてだとなかなか入らないね。穴がちっちゃいのかな」
「……頑張ってみます」
「あ、そうだ。先っぽ舐めると入れやすくなるよ」
「……舐めるんですか」
「うん、濡らしてやってみて。スルっと行くから」
「……はい。あっ、」
「できた?」
「……できました」
「良かった。じゃ、抜けないようにして」
「……はい」
「じゃ、これを先ず下から刺す。うん。で、上に出して。もう一回。うん、上手」
「……痛っ」
「大丈夫? あ。血、出てない?」
ここまで聞いてついに耐え切れなくなったひめかわが部屋のドアを開ける。
「オージの浮気者っ。年上キラーっ。云っとくけどおれだって湊なんかに負けないんだからなっ!」
力任せに開けたドアが壁にぶつかって音を立てた。
勢い良く部屋に飛び込んだひめかわは、自分の想像とは違っている光景を目の当たりにし、やや、いや、かなり戸惑った。
「……何やってんだ、ばかずま」
「お、一馬。どうした、鼻血なんか出して」
湊が差し出したティッシュを箱ごと受け取り赤く染まった鼻の下を拭き取りながらひめかわは部屋の様子、特にオージの服装に乱れが無いかなどをチェックし、何も問題が無いことを確認すると初めて机の上に広げられた物に気づいた。
色とりどりのフェルト布。
裁縫道具。
オージの手には糸と針。
「オージくんが裁縫教えて欲しいって云うから教えてたところだ」
「えっ。さ、裁縫?」
「針に糸通すとこでちょっと手間取っちゃってて。な、オージくん。あ、そうだ。指、大丈夫?」
ここでようやく自分の誤解に気づいたひめかわは顔を赤くした。
裁縫だったとは。
「……オージ、これ、何作ってんの」
「死ね」
「何で死ねなの。教えてくれても良いじゃん」
「……り」
「うん、何?」
「あー、もう、うっせえな、おまもり作ってんだよ、死ね、ばか、分かったら早くあっち行け」
「おまもり、って、あの、おまもり?」
他にどういう種類があんだよてか勝手に触んなっ、とひめかわの手からフェルト布を取り返したオージは付いた埃を払うようにそれを手で叩いた。
「……信哉さんと、光さん、もうすぐ受験、だから……本番、がんばって、欲しい、し……」
ひめかわの視線を避けるように湊の方に体を向けたオージが言い訳をするように唇を尖らせた。
「その為の、おまもりだ、ばあか」。
赤くなったオージの耳と、色とりどりのフェルト布、そしてもう一度オージの耳に目を戻したひめかわは引き攣ったように息を吸った。
直後。
「かわいいっ、オージ、すっげかわいいっ。二人の合格祈願してんだっ。信哉さんと光さん良いなあ、あ、おれにも作って、おれにもおれにもっ」
覆いかぶさるようにオージを後ろから抱き締める。
「……ちょ、ばかっ。どけよっ。だいたいお前の受験はまだ先だろっ」
「じゃ、おれの健康祈願!」
「……そんなもんどっかの神社で勝手に買って来いよ、何でおれがわざわざお前なんかの為にっ」
「分かってないなあ、オージが作ってくれるから御利益あるんじゃん。あー、もう。オージってば水臭いんだから。そんなことなら最初からおれに云えば良かったのにっ。わざわざ湊に頼んじゃったりして、もう、この恥ずかしがり屋さんっ」
「……うっせえよ。それにお前、裁縫できねえだろ」
「え、何で」
「……うーん。何でって、こう、見た感じ的に?」
悪意の無いところがかえってダメージが大きい。
ひめかわは鼻と同時に心臓を押さえた。
見た感じ的に。
「あ、でもオージってこういうのちゃんと手作りするんだ。女の子みたい。あ、女の子でもしないかもな」
その言葉を聞いたオージの眉が片方ぴくりと跳ね上がった。
「……だからお前に知られたくなかったんだ」
「何でそんなに怒んの。女の子に失礼じゃん」
「……あーもうお前うざいから早く部屋に戻れよ」
「やだ。オージ用の布団、敷いちゃったもん。一緒にごろごろするんだもん」
「お前は気持ち悪いからおれは湊さんと寝る」
オージが断言するとひめかわの目の縁がみるみると緩む。
「……うう。うう。うう」
「泣き真似したって無駄だ、お前の手口は見抜いてるんだよ」
「オージは結局、年上の男が良いんだっ」
「……はあ? 何のことだよ」
「信哉さんに、光さんに、ベリベのおっちゃんに、湊っ。オージ、年上にはちゃんと普通に素直だもんっ」
ひめかわに云われたことを自分の行動に照らし合わせていたオージは思わず「確かに」と頷いた。
「……だって、おれの周りの年上はうるさくねえもん。おれ、うるさいの嫌いだし」
「まさかオージはおれがうるさいって云うのかっ」
「ああ、うっせえよ! 今の時点で耳痛いし! てか近い、近い近い近いっ!」
揉み合う内に後ろに引っくり返ったオージは今だとばかりに圧し掛かってくるひめかわの肩を突き飛ばした。
「オージくん、オージくん。これの続き、明日にしよっか」
二人の様子を空気のように見守っていた湊がタイミングを見て切り出す。
「いや、そんなっ。頑張りますっ」、やる気を見せるオージの言葉を湊は制した。
「ううん、おれが眠くなっちゃったの。だから、また明日ね。おやすみ」
頼む相手の湊に云われてはオージとしても引き下がらざるを得ない。
湊の部屋を出てひめかわの部屋に入ったオージは重なり合わんばかりの二組の布団の間に広い隙間を作るとその奥側に潜り込んだ。
「……オージ」、電気を消したひめかわがそっと寄り添う。
「お前は隣だっ」、同じ布団に入って来たひめかわを全力で外へ蹴り出したオージは自らの体に毛布を巻き付けた。
「オージ。もう寝た?」
「……まだ三秒も経ってねえぞ」
「あのさ、ありがと」
「……何がだよ」
「ちゃんと、帰って来てくれて」
あ、とオージは声に出しそうになった。
暗闇に少しずつ目が慣れる。
前回この部屋でこうして眠ったのは去年の夏のこと。
もう半年近く前になる。
去年の2月14日から起算すると、もうすぐ、一年。
「……チョコレート」
「ん、オージ、何か云った?」
「……チョコレート、食べたか。あの時の」
「あ、ずっと前にオージがくれたやつ?」
「……おれからじゃない。まだ分かってねえのかよ」
「あはっ。ごめん、嘘。分かってる。オージからは貰えなかったもん」
「……ふうん。分かってんなら、べつに、良いけど」
「けど、何?」
「べつに良いって云ってんだろ」
それから数分くらい経った気がするが、案外数十秒の世界かも知れない。
夜は何も分からない。
昼と違って感覚がおかしくなる。
「オージ、もう寝た?」
オージは寝たふりをした。
「今日、いきなり怒っちゃって、ごめんな。置いて帰ったりして、ごめん。でもさ、まこっちゃんの気持ちも考えて欲しかったんだ。二人があんまり仲良くないのは分かってたけど、だからって、あんな風にせっかくくれた物、捨てられたら、オージだって哀しくなるでしょ、」
「ない」
寝たふりをしていたオージだったが思わずそう口にしていた。
「……おれだったら哀しくなんか、ない」
封筒の束。
今朝ゴミ箱に捨ててきたその中身。
事件を思い出させる記事と写真。
顔の見えない送り主。
オージには、分かっている。
散らついている。
宛名の筆記。
とめ、はね、はらい。
利き手を使わないからこそ安心してクセは残る。
分かっていても、それをひめかわには云えない。
その人がいないと生きていけないと云う、ひめかわにだけは、云えない。
「オージ?」、ひめかわが自分を心配している。
何も分からないくせに。
何も知らないくせに。
おれが汚いのも。
秘密ばっかりなのも。
だからお前は他人の心配ばっかなんだな。
その中におれも、含めてくれるんだな。
「なあ、ひめかわ」
「うん?」
「おれ、永崎と同じなんだ」
「え、何が?」
「……だから、永崎が悪いとは、思えない。でも、お前が、永崎のこと、かばったりするから。なんか、それがすごい嫌で、」
「オージ、今、もしかして泣いてない? ごめん、おれの所為なんだよな、ごめん」
「何に謝ってるか自分で分かってないやつから謝られてもありがたくねえんだよ。あと、泣いてねえから。しょっちゅうぐすぐすやってるお前じゃあるまいし」
「ご、ごめんなさいっ」
「はあ。……でも、お前の云ったことも、もっともだ」
「おれの何がもっともだと?」
「……もういい。忘れろ」
「オージ」
「眠い。寝る。明日は早い」
「オージっ」
「……寝てる間に近付いてたら、殺すからな」
少しずつ布団をずらしながら接近していたひめかわは体を硬直させた。
暗闇に入ってすぐの頃、ここには暗闇しか無いと人は云う。
だけど本当は光が残ってて、見つめ続けてればその内必ず見えてくるんだ。
もう目は必要無くなったからって潰してしまった人には一生見えない。
不要なモノを捨てなかった人にだけいつか見える、それは、闇の、光。
凝らし続けているとオージの顔が薄っすらと見える。
瞼は開かれている。
青い肌色の顔に、紺色の瞳が二つ。
月のようにそれは光って、心の道を照らしてくれる。
おれは身を乗り出して体の陰に閉じ込めて。
もう光なんか与えないよ。
だって一人で輝くんだもの。
一人で泣いたりなんか、きみは、するんだもの。
「ちょうだい、オージ。おれにも、それ、ちょうだい。……欲しい」。
オージの指が震えてひめかわを掴む。
「……欲しいよ、オージ」。
その瞬間、二人の涙腺は一本に繋がって、オージの涙はひめかわの目から零れた。
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