「……なあ、ばかずま」
「んー?」
「……おれのこと、覚えてる?」
「え、オージ? 覚えてるよ。ってか、目の前にいるじゃん」
「……そうじゃなくて」
「じゃなくて?」
「……おれとお前が最初に話した時のこと」
「あー、去年のバレンタイン。おれたちの記念日!」
「……じゃなくて」
「え、違ったっけ」
「……それよりも前に、おれとお前、実は会ってるんだけど。話もしてるんだけど。覚えてないかな、って。覚えてないならいいよ、べつに、ちょっと気になっただけだし」


ラ ブ リ ー ・ ブ ラ ウ ニ ー 6




翌朝。
洗面所で顔を洗った後、居間へ行き、食卓を見下ろした松橋は一堂を見回して「おや」と思った。
「ひめとオージくん、まだ?」
茶碗に白飯をおかわりしていたエースが「夜更かししてたんだろ」と云う。
よふかし。
何を連想したのかたちまち顔を赤くした松橋が空いていたニコの隣に腰を下ろした時。廊下にある階段を勢い良く駆け下りて来る音がした。
「オージっ!」、現れたのはこの家の次男、ひめかわだ。起きてすぐの格好に髪の毛は乱れている。
青ざめた表情に異変を感じ取ったまこっちゃんが「……どうしたの。ここにはいないけど」と教えるとひめかわは再び廊下に出た。
数分後、ますます青ざめた顔に涙さえ浮かべながら戻ってくると。
「……どこにもいない。オージが、オージが消えちゃった」
エースと松橋は顔を見合わせる。アイコンタクトで「何も知らない」と頷き、これは自分達の作戦が関与していないことなのだと確認すると改めてひめかわに向き直る。
「靴は?」
靴、と復唱してひめかわが慌しく廊下へ出て行く。数秒後、玄関から「靴も無いっ」と、ひめかわの悲壮な声が響いた。
階下の騒ぎを聞き付けた湊が眠そうな顔で頭を掻きながら階段を下りてくる。
「……何わあわあやってんだ、一馬」
ひめかわが事情を話すと聞いた湊が、
「あ。そういえば。今朝誰かが部屋の前通る気配がしたんだけど、あれオージくんだったのかな」
「朝って、何時くらい」
「うーん。四時、五時くらいかな」
「くらい、って。はっきりしてくれよ、湊っ」
「……トイレかな、くらいにしか思わなかったから」
「うう。それはそうだ」
「一馬こそ何か気づかなかったか。隣で寝てたんだからさ」
「お、おれは熟睡しててっ。その、色々と疲れててっ。……あ、でも。そういえば昨日、寝る前、オージが云ってた……」
(「眠い。寝る。明日は早い」)。
「明日は早い、って。今日、何か用事あったのかな。だけど、荷物はまだ置いてあるし、戻ってくるつもりだったんだよな」
ひめかわの推測を補強するように湊が頷く。
「ああ。おれの部屋に忘れ物もあるし」
未完成のおまもり。
信哉と光に贈る予定だと云っていた、あれを置いていなくなるとは思えない。
「……あ。もしかして」
「どうした、一馬」
「まだ怒ってた、のかも」
「オージくんが?」
「昨日の夕方、オージが帰って来ないことあったじゃん。あの前、実はおれ、オージとちょっと喧嘩しちゃってて。喧嘩っていうか、一方的に、何か云っちゃって。そんでつい、酷い言葉を、」
「でもさ、昨日寝る時は普通だったんだろ?」、エースが質問する。
「うん。でも、そう見えた、だけかも知んない。あっ!」
「また何か思い出したのか」
「そうだ、昨日の夜、オージがおれに質問したんだ。おれとお前、ずっと前に会ってる、って。覚えてるか、って。おれ、去年のバレンタインまでしか思い出せなくて。でも、それより前だ、って。……ニコ、何か知ってることない?」
「うーん。聞いたことないけどね」
「……そっか」
ひめかわが肩を落とし、しゅんと萎れる。
まこっちゃんが口を開いた。
「仮に、仮にだよ。オージくんが何かを原因として怒ってたんだとして、そのことと今ここにいないこととどういう関係があると思うの、ひめは」
「……嫌になって家出をした」
「うん。で、家を出たオージくん、それからどうするの」
「それから……?」

昨日の夜、たぶん、泣いてた。
その前は、湊の部屋で裁縫。
その前は、入浴、夕食、帰宅。
速度を上げながら巻き戻されていた時間の映像が、あるシーンで自動的に停止した。
それは。
夕焼け。
橋の上。
水面を見下ろしていたオージの背中。

(「ひめかわ。お前はおれに興味持たない方が、良いと思う」)。

その時、空には一つ赤い雲が浮かんでいて。
ひめかわにはそれが。
オージの体の向こうを漂いながら横切るそれが。
オージから流れる。
血に見えた。
自分の言葉が刺した、ナイフに見えた。

「……捜す。次は、おれが、捜さないと。迎えに行ってあげないと」
「ひめ?」
「だってオージ、帰って来てくれたもん。昨日、ちゃんと、ここに帰って来てくれておれすっごく嬉しかったんだもん。だから今度はおれなの。おれの番なの。おれがオージを迎えに行くの。そうじゃなきゃおかしいんだ。そうしなきゃなんない」

すでに決意を固めたひめかわは二階から上着を取って戻って来ると食卓に揃っている面々に頭を下げた。

「騒いじゃってごめん。おれ、オージ迎えに行って来るから。ご飯、食べてて」。

玄関に向かうひめかわをエースが呼び止めた。

「ひめ!」
「何?」
「あー、えーと。おれも一緒に行って良いかな。今回のことは、おれにも責任があると思うし」
「……エース」
「お、おれも行かせてくれ。ひめとオージくんのこと、掻き回してしまった。何かこのままじゃ気持ち悪い、っていうか。飯が喉を通らないんじゃ、ご飯どころじゃねえし」
「……松橋」
「おれも行くもんね!」
「……ニコ」
「だって、信哉と光に殺されちゃうもん」
その言葉を聞いた全員がもうそれを悪い冗談だとは笑えなかった。
「おれも、行って良いかな」
「……まこっちゃん」
「謝りたいことが、あるんだ」

仲間の顔を見回したひめかわの背中を湊が押す。

「一馬、おれはここで待ってる。オージくんが帰って来たら、呼びに行くよ」
「……湊」

その時、農作業姿の峰子が縁側からひめかわを呼んだ。

「ねえ、ちょっと、一馬か湊。懐中電灯、どこにやったか知らない?」
「懐中電灯?」
「納屋で探し物してるんだけど、電灯切れちゃってて。戸口に掛けておいたはずの懐中電灯も無いの。もう、どこに置いたかしらねえ。最近使った覚え無いんだけど。ああ、知らないなら良いわ。……みんな、ご飯、冷めない内に食べてね」



朝食を中断しての捜索は手分けして行うことになった。
日が昇り一帯は明るい。視界の限りの田畑や遠くの山が良く見えた。気温も昨日より高く、体を動かしていれば冬の上着が不要なくらいだ。
ひめかわはニコと一緒に家の前の道を駅の方向に向かいながら草むらや雑木林に向かってオージの名前を呼び続けた。
「あはっ。ひめ、猫とか捜してるみたい。おーい、オージ!」
真似してニコが笑う。
「ニコってさ、どうしてそんなに暢気で居られるわけ」
「だって信じてるもん」
「何を?」
「ひめがオージを見つけてくれる、って」
純真無垢という言葉がぴったりの笑顔を満面に浮かべるニコ。きらりんっ、と効果音の出そうなほど輝いている。自分へ寄せられた信頼に、じーん、と胸を震わせたひめかわは一瞬後、真顔に戻った。
「って、他力本願なだけじゃん」
「えー、でもおれの所為じゃないしい。ひめがオージ怒らせたんだしい」
「うっ」、云い返したいのは山々だったが実にその通りだった。
「あはっ。でもね、オージは大丈夫だと思うよ。カンだけどね」
「カンですか」
「大丈夫。逆に、ひめはどう考えてるの?」
「お、おれは常に最悪の事態を想定している」
「……落ちてたお菓子を拾って食べてお腹壊しちゃってる、とか?」
「ニコじゃねえよっ」
「最悪の事態じゃん。せっかく落ちてたのに腐ってたとか」
「おれ別の意味でニコから目が離せない。……いや、だからおれが云いたいのは、オージが……じさ、じさ、自殺とかしてんじゃないかなあ、って、」
自分で云った台詞に「うわあああっ」と絶叫したひめかわは立っていられなくなり地面に膝を着く。
「あはっ。ひめってば面白いこと考えるね」
「どこがどう面白いんだよっ。ぜんっぜん面白くねえよっ」
「ひめ、分かってないね」
「どうせ分かってませんよ」
「オージはね、負けず嫌いだよ。たとえひめに何か云われて怒ってるんだとしても、その所為で自分が死ぬのとか絶対許せないと思うと思う」
「そ、そう?」
「うん。だってね、八ツ森でだってね、ほんとは入院を勧められてたんだよ。学校もしばらく休んで、もう少し時間を置いてみましょう、って。先生も云ってた。けどね、オージは、行くんだ、って。無理しないと負け癖が付く、って。それでダメだったら、ちゃんと云う通りにするから、って」
話の内容に付いていけずひめかわは首を傾げた。
先を歩いていたニコが畦道で「うわー、ホンモノ!」、ひめかわにとっては見慣れたカエルを見つけて喜んでいた。

「ねえ、ひめ。そうだ。おはなし、聞きたい?」
摘み上げたカエルを顔の高さで揺らしながらニコが首を傾げる。
「おはなし?」
「こんな時に、って思ったでしょ。でもね、いいおはなしだから、聞きたいでしょ?」
なんとか立ち上がったひめかわは膝に付いた泥を払い、ニコを見据えた。
「うん。聞きたい」
だよねー、と振り返ったニコがやっぱり効果音のしそうな笑顔を浮かべた。きらりんっ。

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