川岸に沿って来た道を上流へと戻っていたオージは途中で少し休むことにした。
川から離れたところにある、平らで滑らかな石に腰を下ろす。この辺りは大雨で川幅が広がることがあるのだろう、付近の石は水の流れによって角が取れたのに違いない、手のひらで触れる石の表面はすべすべで、そして驚くほどあたたかい。
太陽が高く昇り、姫川家から持ち出した懐中電灯はもう必要ない。
朝から動き回ったので体は温まり、途中で脱いだ上着もめがねもどこに置いたか覚えていなかった。髪の毛はぼさぼさにする暇が無かったのでそのままだ。さらされたオージの額や頬に風が吹く。陽射しも風も川の音も鳥の鳴き声もすべて柔らかく、疲れたオージは眠気を覚える。起きたのが朝の四時近かったから無理も無い。忍び足で部屋を出る時、隣で寝ていたひめかわはまだ夢の中で寝言を云っていた。
オージはついさっき奇跡的に見つけることができた探し物の感触を確かめるように手の中でそれを転がした。
気が済んだところで引き上げるつもりだったのだがまさか本当に見つかるとは思わなかった。
昨日の夕暮れ時、橋の上から投げた「木の実」。
ずっと下流で木の枝に引っかかって浮きのようにプカプカしていた。
「……腐ってなんか、ねえよ」。
ぎゅっと手のひらを握り締めたオージは、ふと、誰かの自分を呼ぶ声を聞いた気がした。
ラ ブ リ ー ・ ブ ラ ウ ニ ー 8
「オージ!」
近くから聞こえているような気がするのだが姿が見えない。きょろきょろと見渡したオージはようやく川の向こう岸に立って自分を呼んでいる人物に気づいた。
「……あ。ひめかわ」
対岸のオージに突き進み川を横切ろうとするひめかわの両脇をエースと松橋が押さえつける。
「……あいつら何やってんだ」
騒いでいる様子は分かるが話し声は聞こえて来ない。
ニコが大きく手を振った。
「オージ、ニコが迎えに来たー!」
エースと松橋の拘束を振りほどいたひめかわが「それずるいだろっ」とニコを突き飛ばす。
「オージ、おれが迎えに来たー!」
突き飛ばされた衝撃によろめいて足首まで川に入ったニコが「ひゃっ」と叫び、ひめかわの背中に掬った水を掛けると。
「うわ、こっちにまで掛かったっ」、松橋、エースまでも参加し、あっという間に水かけ合戦が始まる。
「……何やってんだよ、あいつら。ま、あいつらが何やってようが、いっか」
体力が回復したオージは立ち上がると、上流へ向かって歩き出した。
気づいたひめかわが対岸を同じ速度で歩き出し、その後ろを、ニコ、エース、松橋、まこっちゃんと続く。
やがてお互いの会話が聞き取れるくらい川幅が狭くなってくると、あの橋が見えた。
「……あのさあ、お前ら何しにあんなとこまで来たわけ? 遊びに?」
オージの言葉にひめかわは、
「オージを捜しに、に決まってんじゃんっ。おれ心配したんだからなっ。朝起きたらオージ家にいないし靴も無いしっ」
「……お昼までに帰るって書き置きしてったじゃん。机の上。メモ、見てねえの?」
「えっ」
「……見てねえな」
ひめかわは今朝の自分の慌てっぷりを思い出しながら後方の面々を盗み見た。幸いなことに聞こえていなかったようだ。
小さな橋の上でオージはついにひめかわ達と合流する。
まっすぐに向かい合うと堪え切れなくなったひめかわがオージを抱き締める。
「……オージ、ちっちゃい。オージ、かわいい。オージ、生きててくれて、良かった。思いとどまってくれて、良かった」
しみじみとオージの存在を確認するひめかわは鳩尾に強烈なパンチをお見舞いされるまでなかなかオージを離そうとしなかった。
「……思いとどまって、って。お前まさかおれが入水自殺するとでも?」
「だ、だっておれオージにひどいこと云っちゃったし」
「……はあ? 自惚れんじゃねえよ。ふざっけんな、誰がお前に云われたくらいで死を覚悟するかよ。ちょっと考えたら分かんだろ、本っ当にばかなんだなお前は」
う、と口ごもるひめかわの耳元にニコが「ほらね」と囁いた。
「じゃ、じゃあオージは朝早くから何してたの? 今日は早いって云ってたから、昨日から決めてたこと?」
「う」、今度はオージが口ごもる番だった。
みんなの一番後ろで俯いているまこっちゃんを見る。
オージの視線を感じてゆっくり顔を上げたまこっちゃんの目に、静かな諦めの色が浮かんでいる。
瞬きしたオージは小さく首を振った。
「ん、これ」。
腰をかがめて顔を覗き込んでくるひめかわの鼻先にオージはグーを突き出す。
全員の視線がオージの拳に注目した。
ぼんやりと考え込むひめかわの鼻面をその拳が軽く突いた。
「痛っ」、思わず仰け反ったひめかわの前でゆっくりと開かれた手のひらにのっていたものは。
「……あ、それ、まこっちゃんからのお土産」
「おれは、これ、さがしてた。で、ちゃんと、あったし」
オージの言葉に顔を上げたひめかわが手のひらに視線を戻し、そしてまたオージの顔を見る。
案の定、ひめかわの目には涙が浮かんでいた。
「ここで泣くのか」、呆れたように後ずさるオージをひめかわが覆うように抱き締める。ひめかわの肩口に鼻を押し付ける格好になったオージは今度もまた即座に体を離させるつもりだった。が、自分を見ているまこっちゃんを見て気持ちを変えた。
宙に浮いたままになっていた両手でしっかりとひめかわの背中を掴む。
(これは、おれの)。
まこっちゃんに対して示すつもりが自分にとっても大きな真実となって、オージは不覚にも視界を滲ませた。
まさかの「抱き締め返し」に感動したひめかわがオージの体に回した腕に力を込める。
その時、何かが音を立てて砕けたのがオージに分かった。
「……おれ、昨日お前に腐んじゃねえよって云われて、すっげえ悔しかったし、だけど、間違いないな、って。そうだな、って。だから、これ、さがしに行こうって思って。見つかんないかも知んないけど、でも、気の済むまでちゃんとさがそう、って。さがして見つからなかったら、それはそれでいい、って」
「……うん、うん。そっか、そっか」
オージの頭に手を置いてひめかわは頷く。
ずっと前に、まこっちゃんがおれに云ってくれたこと。
教室の隅っこで、ちっちゃくなって、顔を上げなくなって。
バリア張ってたおれに云ってくれたこと。
おれに響いたその言葉を、今度はおれが響かせてる。
(おれ、やっと、オージのまこっちゃんになれた)。
まこっちゃんの、おかげで。
なれたんだよ。
ねえ、まこっちゃん。
「……あー。何だ、これは、えーと、ひめとオージくんの抱擁シーンを見守る会?」
吹っ切れたように軽い口調で云うまこっちゃんの台詞で我に返ったオージがひめかわの脚を蹴り飛ばした。
「痛っ、なんでっ、イイ感じだったじゃんっ」
「……うっせえよ、いつまでもくっついてんじゃねえよ、ばか!」
体を離してもまだぶつぶつと悪態をつき続けているオージの横を笑いを噛み殺しながら松橋がすり抜けて行く。
「んじゃ、お先に。おれ、湊さん安心させて来るから」
おれもおれも、と歩き出したニコがオージの肩を、ぽん、と叩いた。
「王子さまとお姫さまはこうしていつまでもときどき仲良くときどき暴力的にそして総合的に幸せに、と」
「……何云ってんだ、ニコ?」
「何でも無いよん。あはっ」
絶対何かあったな、とオージは踏むがニコはもうだいぶ遠くへスキップしている。
「やっぱオージくん、今のが一番かわいいって。おれの目に狂いは無かったってことだな?」、すれ違いざまのエースに云われたオージは、今まで素顔をさらしていたことを思い出した。
が、平気だった。
めがねはどこかへ消えてしまったし、ヘアワックスだって正直もう面倒だ。
この春には高校三年生になって、そして大学生になって、やがて大人になって、いつか必ず社会に出て行く自分にとって。
ひめかわがまこっちゃんの前に立った。
「まこっちゃん、ありがと」
「は?」
「まこっちゃんがさ、おれに云ってくれた言葉。それの、おかげ。だから、オージのことは、まこっちゃんのおかげ」
まこっちゃんは何か云おうと思ってひめかわを見上げたが、ひめかわの幸せそうな表情を見ていると自分が何を云いたかったのか忘れてしまった。
だって、おれ。
ひめが幸せだと、幸せなんだ。
(また自分に嘘吐いたな)。
嘘吐きな自分にうんざりしながらまこっちゃんは表面上は冷静を装い「どういたしまして」と手を振って見せた。
話の内容が伝わったつもりでいるひめかわはくすぐったそうに笑っている。
知らぬが仏とはこのことか。
幸せなひめ、だったら死ぬまで仏でいさせてやるよ。
その代わり、おれの舌は、無くなるけど。
「オージくん」
スキップしながら立ち去るニコの背中を見送っていたオージにまこっちゃんは声を掛ける。
「オージくん。今まで、ごめん」
「……いや、おれは、べつに何とも、」
「って、おれが云うと思った?」
「はあ?」
「悪いけど云わないね。おあいこだろ。その代わりおれの舌は無くなるんだから」
「……永崎」
まこっちゃんは何か云いかけたオージの顔の前に人差し指を立てた。
「あと、幽霊同好会は、今日で解散!」
驚いたのはひめかわだ、「えええっ。どうしてっ」。
「どうしてって、最近ほとんど活動してなかった会員が云うかよ」
「ご、ごめんなさい」
「ま、嫌味はさておき。ちょうど良いと思うんだ。今日で解散するのが、ちょうど良いんだと思う」
「……まこっちゃん」
「捨て犬のような目をするな。解散したからって会えなくなるわけじゃないし、今までと何も変わらないよ」
「本当に?」
「だって、そんな簡単に変えられないだろ。親子の絆は」
「お、親子っ?」
「そう、親子だ」
まこっちゃんは「親」と云って自分を指し、「子」と云ってひめかわとオージを指した。
「今はそういう、気分なんだよ」。
橋の上に二人きりで残されたひめかわとオージはまこっちゃんの最後の言葉の意味を考えたものの結局本当のところはまこっちゃんのみぞ知ることだ。もしかすると意味などあまり深く考えるものではないのかも知れない。それが一番賢いかも知れない。
「ねえ、オージ」
「……何だよ」
「おれ達って前にも会ってたってオージ云ってたじゃん。あれ、どこでかな? 考えてみたんだけど、正直、全然分かんなくてさ。教えてくれない?」
「ああ、あれか。覚えてなくても無理ないと思うぜ。だっておれ、小町の格好して、帽子かぶってたもんな。……二年前くらいかな、おれ、おばあ様に会うために初めてひとりで駅に行ったんだよ。それまではずっと信哉さんが付き添ってくれてて。だけど、もう自分で行けるから、って、頼んで。で、いざ行ってみたら早速切符の買い方分かんなくて。券売機の前でもたついてたら、隣の人が買い方教えてくれて。おばあ様に会いに行くの、すごいドキドキしてて、恐かったんだけど、そのおかげでなんか安心して」
「へえ。そんなことがあったんだ、ふーん」
初めて聞くことのように大きく頷くひめかわをオージが睨む。
「……だから。その教えてくれた人ってのがお前なんだよ」
「え、切符の買い方教えてくれた人が、おれ?」
うそマジで、と目を丸くしているひめかわは本当に覚えていない様子だ。
「うわ、おれって、いいひとだったんだ! すげー!」
「……自分で云うな。頭悪く見えるぞ。いや、実際悪いか」
「あ、だからか。だからオージ、その時のお礼としておれにバレンタインチョコ作ってくれたんだ。他校の女子の所為にしちゃってさ。だっておれあの後あの子にちゃんと返事しようと思って声掛けたんだもん。そしたら、わたし何も知りません、ってすっごい気持ち悪がられた。そっか、これで謎が解けた。オージだったんだな。実は自分が贈り主だって知られたくなかったからだろ、もー、オージってばー、ただでさえかわい過ぎるのにこれ以上かわいいことするとかおれ限界だからいい加減にしてくれよ……って感じ、って、あれ? な、何で赤くなってんの?」
ひめかわが問い詰めるとオージはくるりと背を向けた。
みるみる染まる小さな耳たぶを見ているとひめかわの体が熱くなってくる。
「ま、まさか。おれずっと冗談のつもりで云ってんだけど、まさか、オージ……、ノン・フィクション?」
「……悪いか」
「へっ、何がですかっ?」
「お、おれはただ借りを作りたくなかっただけでべつに特別に変な思いを込めたとかそういうわけじゃ絶対に無い。単なる礼だっ。ちょ、チョコレートだったのはたまたまその日がバレンタインという、贈り物をしても違和感の無い日だったからであって他の理由はねえよ、分かったら死ね、ぼけずま!」
「ぼ、ぼけずま……? あ、ちょっと待って、オージっ。せっかくみんなが気遣ってくれてんだからさ、もうちょっとここに居ようよ。ねっ?」
「ダメだ、おれは信哉さんと光さんの為におまもりを仕上げないといけないから」
「えー。つまんなーい」
「……じゃ、一緒に作るか?」
立ち止まって振り返ったオージは自分がちょっとでもひめかわを甘やかしたことが間違いであるとすぐに気づいた。
「うん、おれも合格を祈願しておまもり作るっ。信哉さんと光さんの分はおれが作るからオージはおれの分作ってっ」
「……ねえし」
家に続く一本道。
くねくねと曲がってでこぼこを追い越したり追い越されたり待ったり突き放したりしながら、それでも道は続いてく。
「あ、じゃあおれがオージの分も作ってあげるからっ」
「何をだ?」
「恋愛成就おまもりとかっ」
「うっわ、要らねえ」
「あ、そうだよね。オージの恋はさっき成就しちゃったから意味無かったなあ。なあんてね、てへっ」
「……じゃあな」
「待って、待って、うわ、オージ、待ってってば、真面目に手伝いますからっ」
二人で歩くから、それは長い帰り道。
そうだ、明日、髪を切りに行こう。
オージは思う。
瞳に映る景色、ひと。
頬に触れる風、ぬくもり。
すべてすべてが想像以上に愛おしい。
かなしいほどに、愛おしい。
100202 fin.