ある日、帰りの会で先生がタカシマさんの転校について話した。
ニコはユウマと手のひらに指で書いた文字を当てる遊びをしていた。
学級委員の提案で開かれたお別れ会でもタカシマさんの声は相変わらず小さく、プログラムの最後にあったお別れのあいさつの内容もほとんど聞き取れなかった。
最後の最後になってタカシマさんが教室を出て行く時、ニコは初めて気づいた。
(タカシマさんにとってはあの日が2月14日だったんだ)。
その後ニコはタカシマさんと運命的に再会する。
ようなことも無く、小学校を卒業して中学校に入学した。
ニコは新しいクラスメイトと小学校時代の思い出について話していて、ふとタカシマさんを思い出した。一緒に話していた仲間の内の一人が彼女の転校先を知っていた。同じ年のいとこのクラスにそういう生徒がいたのだと云う。ニコは数年ぶりに思い出した、あの日自分に一足早いバレンタインチョコレートをくれた、いや、くれようとしてくれた、タカシマさんという、地味で目立たないが実は勇敢だった女の子に急に会いたくなった。そこでニコは住所を訊ねてみた。会ってどうするかは考えていなかった。ただ、あの時のタカシマさんが今どういうふうになっているのか見たかった。そして、できることなら、謝りたかった。
「あ、でもね」。
いとこを持つ生徒が口を開いた。
彼にとってタカシマさんは赤の他人であるから、重大な事実を告げる口調があっさりと軽めであることは自然だ。
「でもね、ニコ。残念だけど、その子、死んじゃったんだよ。交通事故で。いとこもビックリしてた」。
とても、自然。とても、普通だ。
チ ョ コ レ ー ト ・ パ パ パ ニ ッ ク 3
空っぽの箱を袋に直したニコはカカオのにおいがするげっぷを吐いた。
エースが笑う。
「あはは。もう中毒じゃん。チョコレート中毒。ニコちゃんのそれは、ひめのオージくん中毒並みだって、かなりね」
「あは、だね。だってこれは罰なんだもん」
罰。
笑うのを止めたエースが問うように繰り返す。
罰、それは、いつも明るく天真爛漫なニコの口から出るにあまりにギャップのある単語だった。
深刻そうな雰囲気にひめかわと松橋が静かになり、体勢を立て直したオージが最後に目を向ける。
「……ニコ」
「あの子の精一杯出した勇気を食べなかったおれは超ずるいの。だからおれは永遠にチョコレート地獄の刑なんだ」
不可解なニコの言葉にひめかわと松橋が顔を見合わせて首を傾げる。
エースがそれとなく探った。
「案外、全然関係無かったりするぜ? まったく自分の所為じゃなかったり、するぜ? ニコちゃんはそうやって、罰とか云うけど。おれ、詳しくは何も知らないんだけど」
それを聞いたニコが、へらり、と笑った。
「エース、ありがと。でも、それもちゃんと知ってんだ、おれ」
「そっか。なら良いんだけど。でも、やっぱ罰は罰?」
「……そう。だね。うん」
いつだって太陽のようだったニコの笑みに、薄暗く何かが滲んだ。
その瞬間を自分で取り消すようにニコがテーブルに袋の中身をぶちまける。散らばったチョコレートを両手で自分の前にかき集め、もくもくとラッピングを剥がす。
食べる。飲み込む。剥がす。
食べる。飲み込む。剥がす。
食べる。飲み込む。剥がす。
食べる。飲み込む。剥が、
ニコの手の動きが止まった。
「……おれにもちょうだい、ニコ」
横から伸びてきたオージの手が山の中から一つを取り出し、ラッピングを剥いだからだ。
「あれ。オージ、甘いもの苦手じゃなかったっけ」
「……うっせえし。食おうと思えば食えるし。ばかにすんじゃねえよ」
オージの歯にナッツが当たった。ごりごり噛み砕き、チョコレートと一緒にごっくんと飲み込む。
呆然とするニコに対し薬の服用を証明する患者のように、んべ、と舌を出したオージは無言で二口目を齧った。
「じゃ、おれも恵んでもらおうかな」、オージの様子を見たエースが選び出すと。
おれもおれも、とひめかわと松橋が競うように群がる。
「もぐもぐ……しかし甘い物も……もぐもぐ……こんだけ積まれると……もぐもぐ……まさに拷問……もぐもぐ……だな。ひめなら……もぐもぐ……理解できるでしょ? もぐもぐもぐもぐ……」、チョコレートを頬張った松橋がしみじみと云い。
「うん……もぐもぐ……いくら好きな物とは云え……もぐもぐ……やっぱ気持ちとは関係無く……もぐもぐ……段々つらくなって……もぐもぐ……くるのは確かだ」、ひめかわが頭を縦に振って同意を示す。
あまり出来が良くないチョコレートを引いてしまったか、渋い顔のエースは。
「……うぐうぐ……」
発言できなかった。
「でもさ……もぐもぐ……これってよく考えたら……もぐもぐ……一日で食べる必要……もぐもぐ……あんのかよ?」
オージの云うことはもっともだったが誰もチョコレートを食べるのを止めようとしない。
それは修行で、それは儀式で、それは意地で、それは中毒で、それはほぼ宗教だった。
「てかさオージ……もぐもぐ……オージさ……もぐもぐ……おれに何か云いたいことあるんじゃない?」
ニコの前に積まれたチョコレートの山が少し低くなる。
「もぐもぐ……はあ? ひめかわに云いたいことなんか……もぐもぐ……ねえし」
「おれは……もぐもぐ……オージに……もぐもぐ……云いたいことあるけど」
「べつに……もぐもぐ……興味は無いけど……もぐもぐ……聞いて欲しそうだから……もぐもぐ……云わせてやる」
オージから発言の許可を受けたひめかわが両手を握り締める。
「もぐもぐ……オージっ……もぐもぐ……おれオージのこと好き!」
口の周りにチョコレートを付けたひめかわが顔を寄せるとオージは反射的に顔を背けた。
「……もぐもぐ……何云ってんだよ……もぐもぐ……手を離せっ」
オージが手を払った拍子にジュースグラスが倒れ、制服を汚されたニコが立ち上がる。
様子を見ていた松橋が堪えられず笑いを吹き出し、松橋の口から飛び出したチョコレートを顔に受けたエースがテーブルを叩き付ける。
自分が引き起こした思わぬアクシデントに油断したオージにひめかわが一層迫り、松橋の襟首を掴むエースをニコが止めようとする。
それぞれ主張したいことがあって喋ろうとするのだが口の中のチョコレートが邪魔をして喋れない。
自分達の光景を把握した五人は口に手を当てた。
笑いたいがここで笑ってしまったら惨状だ。
そんな切迫した状況がますます呼吸を苦しくした。
「……ねえ、君達さ、何やってんの」
通りかかったまこっちゃんがつられるように店に入って声を掛ける頃、テーブルの上は色とりどりのラッピングやらリボンやらシールやらチョコレートやらココアやらシナモンパウダーやらナッツやらトッピングやらが散らばり、ひめかわに掴まって必死にもがくオージを除いた全員が笑い、ニコに至っては泣き笑って、それはそれは大変なチョコレート・パニックだったと云う。まこっちゃん談。
ベリベからの帰り道。
夕陽に向かって右から、松橋、エース、オージ、ひめ、ニコ、まこっちゃんの六人が駅までの短い道のりを歩いている。
「おれバレンタインにこんなにたくさんのチョコ食べたの産まれて初めて」
松橋の台詞にエースが「そりゃそうだろうな」と頷く。深読みした松橋が「どういう意味だっ」と体当たりすると弾かれたエースの肩が隣を歩いていたオージをひめかわへ近づけた。
「オージ、大胆っ」
よろめいたオージに袖口を掴まれたひめかわが「さあ、もっとおいでっ」と両手を広げる。
「……え。やだ」
さらりと拒絶されたひめかわが右隣のニコを向いて涙を堪える。
「あはっ。ひめ、ヘンな顔っ」
端を歩いていたまこっちゃんが真顔で「確かに」と同意した。
「でもさ、おれ、こうやってみんなで一緒に歩いていられんの奇跡だと思うなっ」
奇跡。
ひめかわの言葉にニコが強く頷く。
「うん。奇跡。例えばオージがめがね外して歩いてるとかね、一年前は全然起こりそうになかったことが起こってんの。それだけじゃないよ。ひめがオージと仲良くなれる日が来るとかもね、全然見込んで無かった、最初」
「……おれはべつに仲良くしてるつもりはねえし」
一応は否定するオージだったがその声に刺々しいところは無い。隣で聞いていたひめかわもこっそり笑顔になった。
「思ってなかったことが、でも、実現した。ってことは、誰からも期待されていなかったことなんかじゃないんだと思う。だって、それが確かに実現した時、誰かが、ああこれは奇跡だ、って呼ぶんじゃん。じゃ、少なくともその人はそれが実現することを願ってたの。知ってたの。だって、その人はそれをずっと信じてたんだから。本当に一ミリも信じてないことって、人間、願えないものだよね。だから奇跡は、奇跡の積み重なりである今は、みんなの小さな希望の集合した物なの」
だからみんな一緒に歩いていられて、輝かしい日だねっ。
ニコがまこっちゃんの腕とひめかわの腕を掴むとそこにぶら下がるように引き寄せた。
体勢を崩したひめかわの手がオージの肘を掴み、オージがエースを、エースが松橋を掴む。
「よし、じゃ、ここを基準値にしようっ」、屈託の無いニコスマイルを見下ろしたひめかわが提案する。
「……基準値?」、オージが首を傾げた。
「そ。今の状態。今日のこの、みんなで駅に向かって歩いてるこの状態。これがこれからのおれ達の基準値だっ」
「……説明になってねえし」
「何か問題があったら思い出す日。迷子になったら目指す場所っ」
ひめかわが「そうだ、そうしようっ」と自画自賛しているところへニコが乗り上がって「そうしようっ」と声をそろえる。
松橋とエース、最終的にはまこっちゃんまでが声を揃えると、オージはもう何を云う気にもならなかった。
ただ、ニコの笑顔を見ていると何もかもどうでも良くなって、初めて顔を合わせた時の頑ななバリアはもうどこにも存在していないことに気づいて、少し俯き加減にオージは笑った。
七年目の今日。
ニコにとって、雪降るあの日、過ちを犯してしまったあの日から七年目の今日は。
イジワルよりも罰よりも鮮明にして太陽のように大きくあたたかかった。
そしてそれは何とも心強いことに、いつまでも消えることがないという。
永遠のチョコレート地獄。
それは何とも皮肉なことに、毎年この時期になるとやって来て、自称甘党なニコに食べた分と同じ量の不幸と幸福を落としていくという。
100213