桜の樹の下には屍体が眠っている。
昭和の作家・梶井基次郎の短編小説の冒頭を大路に教えたのは小町だった。
鏡の前に並べば瓜二つ。折れば重なる男女の双子。
それだけ似ていれば似ないところが強調される。
活発な小町、物静かな大路。
女系の家筋だったこともあり、小町の勝気は時に一緒に暮らす者を惑わせた。実弟の大路でさえその振る舞いにたじたじになることが多かった。自分でさえそうなのだから、二人の異父兄は一層気を遣ったことだろう。オージはたまにそう思う。
宮沢に産まれた母は生い立ちに関する慣わしへの密かな反発心も手伝って婚前に海外へ単身滞在している。その時に異国の地で授かったのが兄達だ。女児であれば宮沢は大騒ぎになっただろうが、男児であればそもそも後継者とは認められない。落胆すると同時にようやく覚悟を決めた母は帰国し、既に縁談が進んでいた男性と婚姻関係を結ぶと、双子を産んだ。
待望の女児ということで小町は歓迎をもって迎え入れられ、その後も何不自由無くわがままに暮らした。
だがそのことを大路が羨んだことは一度も無い。
「大路。お前だって自分の姉が憎いだろう?」。
ある時、叔父にあたる男からそう云われたことがある。
もしも大路の母親が日本に帰国することが無く、或いはしたとしても女児を産む気が無いのであれば、彼の長女が後継者になる可能性もあった。叔父は小町の誕生を最初から祝福していなかったのだ。
大路は質問には答えなかった。
叔父はその沈黙をどう受け止めたのか頷いて、去って行った。
(姉が、憎いだろう?)。
それは大路にかけられた呪いのような言葉だった。
叔父は自分の姉、つまり大路の母親にあたる女性を妬んでいたのだ。同じ家に産まれたにも関わらず、自分より愛でられ、自分より優位に立った、その女性を。
慣わしは人に人を憎ませる。たとえそれが肉親であっても。
叔父はその現実を甥っ子に教えた。いつかお前もそうなるだろうさ、という考えがあったかどうかは不明だ。ただ、その質問を受けた大路は、宮沢に生まれた小町の立場が将来的にいかに危うく、様々な人間関係の、人間の感情の中心となり対象となっていくのかを暗示された。
今、十四になったオージは公園のベンチに座って黒い瞳で見上げている。
満開の白い花。
春風に散る花弁が、フードをかぶった頭に、広げた手のひらに、スニーカーの足元に降る。
(桜の樹の下には屍体が眠っている)。
あまりにも有名なこの短編小説の冒頭を諳んじた少女は、若き自分もいつかは老い、或いは老いる前にさえ屍となり得、やがて土に埋められることを意識していたのだろうか。
「これは信じていいことなんだよ」。
君は今、そこにいる。
十四に届かないまま。
永遠に、君は若いままで。
フ ラ テ ー ロ 1
ショッピングセンターの広い通路を、巨大なカートを押しながら信哉が手元のメモを見ている。
「はい、先ず、シャンプー」
必要な品物を効率良く揃える為、メモに書かれたリストは店内の入口からの配置に沿っている。信哉ってすっげえ所帯じみてる、と冷やかしながらも光は楽しそうだ。無駄に気合を入れてシャンプーコーナーの前に立つと腰に手をあてた。
「えっと、シャンプーっても色々あるな。うーん……。な、オージ。どれが良い?」
振り返った光は、信哉の陰に隠れるように立っていたオージを呼び寄せた。
手招きされて光の隣に立ったオージは壁に並ぶシャンプーを見比べるために顔を上げたものの、フードが脱げそうになると咄嗟に目の前の商品を指差した。
「……これ」
「お、これか。よしよし、じゃあ、これだ。ほらよ、」
オージが指差した商品を手に取った光が信哉にパスする。
受け取った信哉が「これはシャンプーじゃなくてリンスだ」と棚に返そうとすると光がその手を押しとどめる。
「オージがこれだって云ったんだからこれなんだよ。これはシャンプーだ。な、オージ? 信哉が何て云おうが、これ、シャンプーだもんな?」
「……おい」、ここぞとばかりに屁理屈で対抗してくる光に信哉は溜息を吐いた。
三人で買い物に行くとしょっちゅうこのパターンだ。
普段から意見のすれ違うことが多い信哉と光だが、口論になった場合はかなりの高確率で信哉が勝利する。信哉に難しい言葉で返されると光は、昔はカタコトだったくせにな、と嫌味を云うくらいしかできない。だが、そんな光でも唯一確実に信哉を云い負かせる技がある。それは「おれじゃなくてオージが云ったんだからな」攻撃だ。トランプで云う無敵のジョーカー。不滅の切り札。絶対勝利。それを持ち出されると信哉としても戦意を消失せざるを得ない。
「でも、リンスで髪を洗うのか?」
さすがにそれはないだろ。
内心で葛藤していた信哉だったが、ふと横からの視線を感じて顔を上げた。
二人の女性客が小声ではしゃいでいる。信哉と目が合うと「きゃっ」と声を上げ会釈した後、歩き去った。
去ってからも気にかけて何度か振り返る二人連れを見送っていた光が不意に信哉の髪をつまんだ。
「ま、この色この顔だもんな。産まれ持ったら仕方無いさ」
「どういう意味だ」
「田舎じゃ目立つってこと。信哉は特にね、父親の血が強いんでしょ」
生い立ちに関する台詞も同じ境遇の光だからこそ叩ける軽口だ。
「そういう光だって同じだろ」
信哉も云い返す。
「いや、おれは髪とか目の色まで違わないでしょ。自慢じゃないが新しい場所でハーフに見られる確率は三分の一程度だ。えへん」
「おれへの嫌味か」
「それは、どうかなあ」
離せ、と信哉が手を振るよりも早く、光は金髪から手を離した。
「さ、早く進もうぜ。買い物終わったら食事。おい、次の品物は何だ、英国少年」
オージの肩を抱きながら歩き出す光の後姿に信哉はカートをぶち当ててやった。
「ええと、次は、歯ブラシだな」
痛みに呻く光を無視して信哉はカートを進める。
「オージは、えっと、水色だな。ついでにおれの替えも買っとくか。光のは要らないな。さてと、次は……洗剤。おい、光。何してんだ。迷子にならないようにちゃんとついて来い」
「……くっそう、あのやろう」
蹲っていた光は立ち上がると駆け出し、オージの背中から抱き付いた。
「なあ、オージっ。今日は何食べよっか。ハンバーグ? パスタ? あ、それとも和食にするか? ん、でもオージ、この辺痩せてんなあ。よっし、今日はがっつり洋食だな」
そう云いながらオージの体を撫で回す光に信哉が蹴りを見舞った。
が、空振り。
「そう何回も当たるかよ。なあ、オージ?」、攻撃をかわした光がオージの頭をぽんぽん撫でた。
「あ。そういや、信哉。高校どこ行くんだ?」
強引に話を変えられ不機嫌な信哉だったが「東高」と答える。洗剤の棚からCMで見たことのある物を手に取り、カートに入れる。
「あ、やっぱり。信哉がそっちだよね。じゃ、おれが北高か」
「ああ。そっちはお前に任せたからな。入学制限が無いの、東と北の二校だけなんだから。北高は東高よりは偏差値低いから受験勉強もそこそこで済むぞ」
「うっわ、ありがとう信哉様っ。恩に着ますっ。はい、ハグっ」
「……お前に抱かれても全然嬉しくないんだけどな。オージの為だ」
「んじゃ、これオージの分」
「そういう意味じゃない。……行くぞ」
次は調味料だ。
砂糖、塩、醤油、味噌、料理酒。一通り揃えながら信哉はカートを進める。結局自分で選ぶのが一番手っ取り早いようだ。
必要品が集まったところで信哉はふと足を止めた。
「オージ。何か食べたい物あるか?」
場所は菓子コーナー。
後ろを歩いていたオージが信哉の声にはっと顔を上げる。咄嗟に辺りを見回すが、何を手に取ったら良いのか迷っている様子だ。
「大丈夫。ゆっくり選んで良いからな」
オージを気遣う信哉に光が抗議の声を上げる。
「くっそ、おれがオージだったらなあ。信哉に優しくしてもらえただろうになあ。おれに対しては氷のように冷たい神経の信哉にだって優しくしてもらえただろうになあ。ああ、残念だなあ」
「……氷で悪かったな。光も何か買えば良いだろ」
「やったあ」、飛び上がる光を見て信哉は苦笑した。
「……ったく、ちっちゃい子供みたいだな」
明治に手を伸ばすオージの隣で光が「絶対こっちのが良いって」とロッテを主張している。すすめられた方が気になったオージが少しでも視界を広げようと自らフードの裾を少し広げた。
今日のような外出が平気なら、そのうちフードも外せるかも知れないな。
安心した信哉は自分も棚に手を伸ばした。普段は食べないが急に甘い物が食べたくなった。
宮沢邸を出てからの新生活は、不安よりも期待が大きかった。
そう思い込んでいれば、願いは現実に変わるだろう。
100217