信哉が進路指導室を出る頃、外は既に薄暗くなっていた。
この季節は昼と夜の寒暖差が大きい。
コートの前を合わせ、首にマフラーを巻いた信哉はふと足を止めた。
ピアノの音が聞こえた気がした。
(そんなわけない、か)。
音楽室は中庭を隔てて隣の校舎にある。
窓に歩み寄った信哉は小さく息を飲んだ。
中庭に生えている一本の桜の樹。いくつか花が咲いていた。それが宵闇の中で、夜空に浮かぶ満月のように淡い光を放っている。
ピアノの音が今度ははっきりと聞こえてくる。
流れてくる旋律に吸い寄せられるように、信哉は音楽室へと足を運んだ。
もう二度と二人きりで会わないと決めた、あの人の所へ。
「卒業式にね、みんなでこれ歌うの」
曲を弾き終えた彼女は信哉を振り返る。
入口のドアに体を預けて立っていた信哉は「ふうん。だけど確か伴奏者は」、そう云いかけ口を噤んだ。
童顔の彼女が笑っていた。
「そう。伴奏者は、私じゃない。卒業生じゃないしね。つまり補欠なの」
「補欠か」
「必要かも、知れないでしょ?」
信哉は、確かに、と頷いた。
「福島先生と、お話して来た?」
信哉が顔を上げると彼女は、それ、と信哉の持っている書類を示した。
「ああ、はい」
福島は信哉の進路相談を担当してくれている数学教師だ。宮沢邸における複雑な家庭環境と、一年ほど前に起こった事件について知りながら、親身になって話し相手になってくれる。
「東高、行くの?」
「ええ。……まあ、受かれば、の話ですけど」
「響くん、顔は思いっきり外国人なのに日本人みたいな謙遜の仕方するのね」
「笑わないでください」
「あはは。無理。だって絶対受かるんだもん」
一体何を根拠にそんなことを云えるのか、断言した彼女の声に迷いは無かった。彼女のこの予言が嘘になってしまわないよう自分は必ず合格しなくてはならない、そんな義務感を信哉が勝手に負うくらいに。
「ごめん、ごめん。笑っちゃって。だけど響くんは大丈夫です。私は至って真面目です。だから信じなさい」
強引ですね、と信哉は呟いたが彼女は聞こえなかったふりをした。
ようやく室内に足を踏み入れた信哉は窓辺に立って中庭を見下ろした。あの桜の樹が音楽室からも見えるかどうか確かめたかった。確かめたところでどうなるでもないが、さっき自分が見たあれは幻では無かったかと疑い始めていたのだ。
果たして桜の樹はそこにあった。
学校の中庭という植樹鉢に容れられ、少し窮屈そうにも見える。白い花は確かにいくつか咲いていたのだが、最初見た時ほど光って見えなかった。
「……響くんでも、何かに見惚れることって、あるんだ」
いつの間にか声が近くでした。
肩越しに同じ物を見下ろそうとした彼女が体勢を崩したふりをして背中にしがみつく。
信哉が動じないのを確認した彼女は薄いカーディガンを羽織っただけの腕を前へ回した。
「……おれ、さっき、あっちの校舎の廊下を歩いて来たんですけど」
「ん、何?」
「見えますよ、ばっちり」
信哉としては自主的に離れて欲しくて云ったのだが、彼女は笑うだけで動こうとしない。それどころかますます体を密着させてきた。
「ねえ、響くん」
「はい」
「時々、捨てたくならない?」
質問の意味が分からないのとこのまま体をくっつけているわけにはいかないのと二つの理由から信哉は後ろを向いた。
「捨てるって何をですか」
ようやく距離を取った彼女は信哉のマフラーの両端を持つと子供がじゃれつくように上下に振った。
「ぜーんぶっ」
「全部?」
そ。重さがある物全部だよ。と云って細い手が信哉の顔に触れる。
間違いなく。
そうだ、間違いなくおれはかつてこの手が好きだった。
「あ、いいね、いいね。響くんのそういう顔。だってあんまり困ったこと無さそうなんだもん」
「……いえ、そんなこと無いです」
ふうん、そうなの。
白い指が髪に入る。
首を振りながら俯いた信哉は手から書類を落とした。
「ねえ、一体何なの。何がそんなに重いの。どうして君はいつまでも捨てきれないのかな。手を離せば、ほら、私はすぐだよ」
それはとても甘かった。
それはとても美しかった。
そうだ自分はこの人をもう一度選び直せ、そうしたら後はもう、少しずつ忘れてゆくだけ。
「……良いなあ。響くんは。月みたいに綺麗で、良いなあ」
ゆっくり傾きかけていた信哉の体が、途中で止まった。
彼女が「お?」と驚いた表情になる。
携帯電話で時刻を確認した信哉はさっきまでの魔法が解けたようにてきぱきとマフラーを結び直し、少しだけ乱れた髪をかき上げた。
「すいません、突然ですが」
「う、うん。どうした」
「行きます」
「う、うん。行っちゃうのか」
「あと、おれ、前も云ったけど、やっぱりあなたを好きになれません。今のおれがあなたを好きだと云ったら、それはあなたにとって失礼にあたる。だけど、ありがとうございます。あなたみたいな人と、少しの時間でも共有できたこと、楽しかったです」
云い終わらない内にも信哉は荷物をまとめて既に音楽室を出掛かっていた。
「そっかそっか。はいはい分かりましたよ」、呆然とした表情を少しずつ笑顔に変えて見送る彼女を信哉は最後に振り返る。
「そうだ。さっきの曲、何て云うんですか」
「え、知らない? 聴いたことくらいあるでしょ?」
しばらく考えた挙句、いえ、と信哉が首を横に振ると彼女は「これがジャネレーションギャップかっ」と頭を抱えた。
「いや、卒業式で歌われるくらいだから世代は関係無いはずです。おれが音楽に興味が無いだけです」
「うわ。傷つくわ、それ。云うか、わたしに云うか? なるほど、よろしい。曲名は自分で調べなさい。はい、帰って良し」
腕組みをした彼女が顎で出口を示す。
信哉は一瞬目を細め、しばらく黙っていたが、やがて「そうします」と答えた。
「あ、あと。もう一つ」
「何だい、響くん」
「生徒に手出すの、おれで最後にして下さいね。先生」