あの夜、帰宅した大路は玄関先で最初の違和感を感じた。
外灯は点いている。
見慣れない置物があったわけでも、表札が曲がっているでもない。
違和感の正体が分からぬまま大路は扉に手をかけた。
「……ただいま?」。
家の中が暗い。
廊下の途中に大きな荷物が置いてあるのが目に付いた。
ひとまず上がろうと靴を脱いだ大路は、突然、自分の体が思うように動かせなくなっていることに気づいた。
物理的な理由からでは無く、精神的な、もっと云えば生理的な理由から。
自分がついさっき「大きな荷物」と認識した物。
その正体を一瞬後に認識した時、全身から血の気が引いていくのが分かった。
(そうだ、誰かを呼んで来ないと)。
頭だけは冷静になすべきことを考えている。
玄関から外に出ようとした大路は、しかし扉が動かないことに気づいた。
内側から開けられないよう、鍵がかかっているようだ。
大路は冷静にそう分析したつもりでいたが、どこの家にそのような鍵が付いているだろう。
動転して内側から鍵をかけたのも、横に滑らせれば開く仕組みを忘れたのも、血の海に倒れる肉親三人を目の当たりにしたばかりの大路自身だった。
「……どうしよう、どうしよう、どうしよう」
生死確認が必要無いほど明らかな屍。
ふと思いついて携帯電話を取り出した大路はすぐにでも駆け付けてくれそうな相手を捜し出した。
震える指でプッシュボタンを押し、何回目かのコールでようやく電話が繋がる。
『……なんだ、大路か。どうした? 何か、あったか?』
受話器から流れ込んできた声は響信哉の物だった。


フ ラ テ ー ロ 3




「……本当に、すいませんでした」。
ショッピングセンターのバックヤード。その奥にある事務所のソファで信哉と光は店長を名乗る男性から傷の手当てを受けていた。
「まあ、大した損害が出なかったから良かったものの。今後は外でやってくれよ。お前らが怪我すんのは構わないから」
そう云って店長は適当な大きさに切ったガーゼを信哉の顔の傷にかぶせる。慣れない手つきでその上からテープで固定した。
「……すいませんでした。商品は買い取ります」、反省した信哉が頭を下げると。
「当たり前だ、バカ共が」、光の前に移動していた店長が低く怒鳴った。
「だいたいお前ら、何だってあんなところでいきなり殴り合ってたんだ?」
その質問には二人とも答えずに俯く。
光の顔に絆創膏を貼り終えた店長の険しい顔つきが急に和らいだ。
「ま、そんなこたどうだって良いか。理由の無い衝動。それが若さだもんな」
手術終了、と云って店長が救急箱を手に立ち上がった。
座ったままの信哉と光は互いの顔を見合わせ、思わず笑った。
「はは、信哉、ひっでえ顔」。
「お前がな」。
戻って来た店長が、どっちもだ、と云いながら二人にミカンを手渡した。
「……これ?」
「遠慮すんな、腐りかけだから早く食べてやってくれ」
いただきます、と声を揃えた二人がミカンの皮をむき始める。
その様子を眺めていた店長は煙草に火を点けると吸い始めた。
「けどなあ、辛いもんだぜ。おれの家も両親の仲が悪くてな、云い合い殴り合いの喧嘩が絶えなかった。女に手をあげる父ちゃんも情けないが、母ちゃんだって負けてない。全然、互角だった」
口から白い煙が吐き出される。
昔を思い出しているのか店長はしばらく喫煙に没頭しているように見えた。
その間に二人はもらったミカンはすっかり食べ終えた。
ではそろそろ会計を、と立ち上がる信哉の前で店長が短くなった煙草を灰皿に潰した。
「……ああ、そりゃ辛いもんさ。親同士が、言葉で、力で、互いを傷つけ合ってんのを見るのはな。だからお前らも今後もう二度と子供の前でそんな真似すんじゃねえぞ」
それを聞いた光が首を傾げる。
「子供?」
「ほら、お前らと一緒にいただろ。背の低いの。あれ、弟とかじゃねえのか」
信哉と光がハッと辺りを見回す。
オージがいない。
どこから、いつからいなかったか。
カートを押している間は、いた。
清算レジに向かう途中も、いた。
では二人が云い合いを始めた時は。
分からない。
二人が殴り合いを始めた時は。
分からない。
「そうだ、店内放送。迷子の呼び出し」、これは名案だとばかりに提案する光の頭を信哉が容赦なく叩いた。
「駄目に決まってるだろう。こんな場所で名前を呼ばれてみろ、今のオージにとってそれが悪いことだってくらいは考えられないのか」
語尾に舌打ちを付けるとようやく治まりかけていた光の闘争心が再び燃え上がる。
が、体格の良い店長が間に割って入り事無きを得た。
「じゃ、どうすんだよ。信哉は捜さないのかよ」
「捜すに決まっている。落ち着け、光。ここはジャングルでも雪山でもない。ショッピングセンターだ。すぐに見つかる」
当然のように云いながら、信哉は不安を覚えていた。
信哉が表情を曇らせる頃、光の心にも同じ懸念が浮かんでいた。

(オージを大切にしたところで、今さら罪滅ぼしにはならねえよ)。

逆上して、つい口走ってしまった。
それを云ったら確実に信哉が傷つくことを分かっていたから。
だけど、傷つくのは信哉だけだろうか。
云った自分だって、それに、何より、オージだって、傷ついたに違いないのだ。
「すいません。お金だけ、置いて行きます。オージ、捜さないと」
店長が呼び止める声も聞かず、顔面に不恰好な「手当て」を貼り付けたまま、信哉と光は走り出した。



風に乗って流れてくる歌声に聴き入っていたオージは瞑っていた目を開け、自分の体じゅうに白い花弁が付着していることにようやく気づくと驚いたように瞬きをした。
ショッピングセンターのだだっ広い駐車場には何台分もの自動車をとめられるスペースが確保されていたが、その端に小さな公園があった。何故そんな場所に公園があるのかは、一目で分かる。そこには一本の桜の樹が立っている。
信哉と光が存在を忘れてくれたのを良いことにオージは外の公園に来ていた。
ベンチに座ると陽射しが暖かく、うとうとし始めた頭が揺れてしまう。
歌声は、ショッピングセンターの駐車場に隣接するようにあった学校から聞こえてきた。卒業シーズンになると聴かれる歌だが、曲名が思い出せない。
(何、だったっけ)。
再び目を閉じたオージはまたすぐ目を開くことになる。
後ろから、信哉の声がした。
「……オージ!」
振り仰いだオージは立ち上がると、駆け寄ってきた信哉の顔に手を伸ばした。
「……ケガ、してる」
一応ガーゼがあてられているのだがサイズが小さ過ぎ、傷がはみ出している。
「あっ、オージ!」
遅れて辿り着いた光の顔にも同じような処置が施されている。
オージが顔へ伸ばした手を光はしっかりと掴み、「捜した。見つかって良かった」と笑った。
「ずっと、ここに、いたのか。その、独りで」、 オージが座っていたベンチの右端に信哉が腰を下ろす。
つられてオージも頷きながら座り直した。
「なんていうか、その、悪かった。オージ、ごめん」、左端には光が腰を下ろす。
なんとなく体裁が悪い様子で落ち着かない二人の兄をオージは見比べた。
「ううん」、オージが小さく首を振ると俯いていた信哉と光が顔を上げる。
「……おれのこと迎えに来てくれて、ありがとう、ございます」
そう云った瞬間、二人の表情に笑みが戻る。
「あー、やっぱオージはかわいいなあ」、オージの肩に回した光の手を信哉がピシャリと叩いた。が、すぐその上に自分の腕を重ねた。
「痛っ。何だよ、信哉」
「たまには家族っぽくて良いだろう」
「うーん。おれ、信哉の家族の定義が分かんねえや。ま、定義なんかどうでも良いけど」
「そうそう。分かりそうにない物は無理に分かろうとしない。利口だな、光」
「それ絶対バカにしてんだろ」
オージの頭越しに云い合っていた二人は何かに気づいたようにやがて静かになった。
「……あー、ごめん。オージ。おれ達、学習しねえな」
またやっちまった、と光が額に手を当てる。
「どうしてもこうなってしまう」
懲りずに同じ過ちを犯す自分に呆れたような信哉が髪をかき上げる。そして、「あ」と声を漏らした。
「あ、この歌。聴いたことがある」
聞こえてくる歌声に信哉が耳を傾ける。
つられて光も耳を傾けた。
ベンチに座って黙りこくるおかしな三人組を考えたオージはつい笑いそうになった。
わずかに接した肩の揺れを感じた光がフードの中を覗き込んで「なあに笑ってんだよ」と頬を突く。
「……いえ。だって、なんか、家族みたいだし」
オージが云うと光は頬を突いていた手で口元を覆った。
あああ、と呻きながらオージの上からかぶさるように小さな体を抱き締める。
「……光さん」
「ううん、気にしないで気にしないで。おれ、オージに感動してるところだから」
「……何が?」
光の体重を受け止めて背凭れから起き上がれないオージの頭を、フードの上から信哉がぽんぽん撫でた。
「オージはそうやっていつも気づかない。自分でも知らずに、オージは何でも与えてくれる」
それを聞いたオージはますます首を傾げた。
(今日は二人ともヘンな日だ)。
歌のサビが繰り返される。
不ぞろいでデコボコでちっとも整っちゃいないが、決して聞き苦しくはない。
それどころか、ずっと聴いていたいと思える。
こうしていられることは、きっと、奇跡なんだろう。
曲名を思い出せないまま、できたてほやほやの家族は三人ぽっちで春を見上げていた。





100217





信哉「なあ、光。チンチョーゲって何だ」
光「んー。蚊取り線香とかじゃなかったか?」
信哉「確かにそれっぽい。が、微妙に違った気もする」
光「じゃ、人名か」
信哉「お前が云いたいのはクリミアの天使のことだろ」
光「それそれ」
信哉「そうか。彼女を称える歌なのか、これは」
光「でもどうしてそれを卒業式に歌うんだ?」
信哉「さっぱり分からないな」
オージ「……花です。キンチョールでもナイチンゲールでもないです」