おれは森で眠るひめだった。
それはそれは幸せな場所だった。
どう幸せかって。
ぽかぽかあったかくて。
小鳥がぴちぴち鳴いていて。
青空に浮かぶ雲はふわふわ。
いつまでも好きなこと考えられて。
そこに邪魔は入んなくて。
辺りに生えてんのは全て四つ葉のクローバー。
って感じの世界。


ク ロ ー バ ー ・ ワ ー ル ド




「でもな。そんな世界に突然魔王様が訪れてっ」、本題らしき部分に入りかけたところでひめかわが「あっ」と声を上げる。目線の先を辿った松橋はひめかわの関心を一瞬にして一身に集めた犯人の正体を知る。
「これ、もしかして新作か?」
「うん。ハニィシッポバージョン! やっと出たっ。ああ、あの膨らんだ頬っぺたとか、頭と背中のシマ線とか、しっぽに対して小さすぎる胴体とか丸い耳とか黒い目とか何から何まで全部もうすっげえかわいい、おれもリスになるっ」
目を輝かせ店外に置かれたケースにかじり付くひめかわ。
その肩に松橋は、ぽん、と手を置いた。
「……寄ってくか、ひめ」

店内のテーブル席に場所を移したひめかわと松橋の間に置かれた皿にはドーナツの山が出来上がっていた。
ふと松橋はひめかわの隣に置かれた通学鞄に大量のハニィシッポがぶら下がっていることにようやく気づく。
「ひめ、それ」
「ああ、同じクラスの女子がくれたんだ。おれがハニィシッポかわいがってるの聞いたみたいで。でもさ、どうしてこんなにせっかくたくさん集めたやつくれたんだろうね」
相変わらずアイドル体質のひめかわに松橋は羨望の滲む遠い目をする。
「……うーん、それは確実に下心があったと思うんだが、まあいいか」
まあいいか。
だってひめだから。
はい、一丁解決。
「で?」
ひめかわはレジ奥の新作見本に熱いまなざしを送り続けていたが、松橋に話の続きを促されるとようやく我に返って、
「ん。あ、そうそう。でさ、そこに。信哉さんが来て」
シナモンパウダーの付いた指をひめかわが舐める。
「……信哉さんかよ。さっき魔王っつっただろ。知らねえぞ、ひめ」
「その世界ではそういう設定だったの。世界って、おれの見た夢だけど」
「あ、でもなんかイメージできてしまう。信哉さん、黒マントとか妙に似合いそうだもんな。吸血鬼みたいな。……で、何されたんだ?」
あっ間違ったこれポンデ・リングじゃなくてフンワ・リングだった、松橋がたいして残念そうでもなく云い、ひめかわは二個目を決めかねドーナツ山の上で手を彷徨わせた。間違えるほどそんな似てないじゃん、と指摘しながら。
「ん。で、ぎゅってされた。そんな夢を見た。以上」
「おお。魔王と姫の恋、的な」
「首だよ。首、ぎゅうって」
「殺されかけてんだろそれ!」
思わず声を上げた松橋の前でひめかわはお楽しみのハニィディップを選び取ると両手で捧げるような持ち方をした。
「……か、かわいいっ。ハニィシッポのしっぽ、かわいいっ。この、ハチミツのにおいっ。どっから食べよっかなハアハア。ま、真ん中の穴からいっちゃおっかな、」
「待て。それ以上は変態だぞ」
何が、と顔を上げたひめかわの両頬はすでにそれこそリスのように膨らんでいた。
「もふもふ。おいひい」
「ひめ、浮かれすぎ」
「ん。何が?」
そりゃ好きなやつと家族みたく一つ屋根の下暮らせるようになったら浮かれもしなきゃ男じゃないとは思うけど。
「でもさ」、一部が欠けてC字のハニィディップを無理にくっつけて再び丸い形を作りながらひめかわが目線を落とす。
「オージ、大変なんだ」
「何が」
「あのさ、ずっと前。ヘアワックスの缶、オージ鞄の中に三つも持ってたって話、松橋にもしたじゃん?」
同意を求めるひめかわの言葉に松橋はうんうん頷いた。


詮索をして疎まれるのも哀しかったので何気なくオージの鞄に目をやると開いた口から同じヘアワックスの容器が三個見えた。
(まさか予備とか……)。
ひめかわは無意識に身を乗り出していた。
視線に気づいたオージが鞄のチャックを閉める。
「……なにじろじろ見てんだよ」
(出典:「ワッツ・ユアーズ」)


「確かに、そんな話してたな」
「うん。でもさ、あれ、ホンモノは一個だったんだ」
「どういうことだ?」
齧ったハニィディップの両端をくっ付けて遊んでいたひめかわの手元が止まる。
せっせと口を動かしていた松橋も耳を澄ませた。
「残りの二個の中身ね、おくすり、なんだって」
「お薬?」、松橋が繰り返す。


打ち明けられたのは一週間ほど前のことだった。
その日オージが姫川家を訪れたのは、春からの一年間、お世話になる挨拶をするためだ。両親からはすでに了解を得ていたし、湊はもともと賛成だ。そもそもオージの同居を提案したのは湊なのだ。
姫川家のメンバー全員が集まる場で一通り挨拶を済ませた後、二階にある湊の部屋に三人で集まった時、オージが机の上にヘアワックスの缶を二つ並べ始めた。
あら、手品でも始めてくれるかな?
台所の棚から取ってきた煎餅を歯で割りながらひめかわが見ていると、オージは左の缶を開けて中を見せた。ひめかわは一瞬、ラムネ菓子、と思ったが、すぐに違うことが分かった。銀のアルミ。青や赤で書かれたカタカナの文字。続けて右の缶を開けるとそこにも何種類かの錠剤が入っている。
「こういうの、おれ、飲んでるから」。
至って事務的なオージは閉じた缶をバッグに入れ、チャックまでしっかりと締めた。
「医者から、もらって」。
俯くと目元に前髪が少しかかるが、顔を上げると動物のように黒い瞳でまっすぐ前を見た。
「毎日じゃ、ないけどな」。
オージはそれ以上語ろうとせず、ひめかわも質問しなかった。
顎を苛め抜くかのように硬い煎餅をばりばり噛んだ。
その夜、ひめかわは湊からあの薬は精神安定作用がある物だと教えられる。


「体のどっか、悪いとこあんのかな」
松橋が首を傾げた。「言葉遣い以外で思い当たらないけどな」。
「口悪くてもオージはかわいい」
ひめかわが断言すると、
「あ、すまんかった」
松橋は素直に頭を下げた。
もう一口齧ってさらに小さくなったハニィディップの両端をひめかわは無理やりくっ付けては丸い形に戻している。
「知らなかった、な。そういうの。全然」
松橋が神妙な顔で呟いた。
「うん。知らなかった。全然」
そう云ったきりひめかわが黙ってしまい、焦った松橋はふざけてその手から食べかけのハニィディップを奪った。
「ひめっ。おれ食べちゃうぞ、ハニィシッポのしっぽっ。ほら、ぼんやりしてないで早くおれを捕まえてみろよっ」
ひめかわを元気づけることに夢中だった松橋は、周りの客の面白がるような視線に気づくと、赤面しながらハニィディップを持ち主の手に戻した。
「うう。何やってんだおれは……こんな公共の場で……ひめ相手にバカだな超恥ずかしいっ」
居た堪れなくなった松橋は壁際に体を寄せて身を縮めた。
頭の上からひめかわの声が降ってくる。
「ありがと。まつばせ」。
笑いを含んでいるがそれは周囲から聞こえてきた冷やかすような笑いとは異質の物だった。
まだ恥じらいの残る顔で松橋は見上げる。
「げ、元気出たか?」
「うん。ありがと」
返事通り元気を取り戻したひめかわは何事も無かったかのようにハニィディップの残りをたいらげ、最後の一口を見届けた松橋は苦笑しながら背筋をぴんと伸ばした。
「他にも何か云ってたか?」
「通院もするんだって。ほら、おれとオージがすれ違ってたことあったじゃん。一緒に帰ろうと思って迎えに行ったら裏門使われてたこととか」


「……あんたのせいでなっ、おれは今すっげえたいへんなんだぞっ。何がどうたいへんかって云うとだな、すっごく、オージに会えなくなって、てかたぶんあっちから避けられててっ、電車ずらされててっ、裏門使われててっ、かと思えば昨日は正門でっ、すれ違ってっ、おかげでもう一週間くらい会ってなくてっ、メアドも知らないしっ、家に行きたいけどそこまでしたら嫌われそうだし怖いしっ、てかおれもうストーカーみたいだしっ、でも会いたいしっ、このままで終わっちゃうのやだしっ、なんかもうっ、希望持てなくてっ、生きてるだけですっげえ死にそうなんだっ、ばかあっ」
(出典:「モモイロ・スコープ」4)


「うわ、あったあった、そういう時期。懐かし」
「東高の裏門にバス停あるじゃん」
「なんだ、いきなり。ああ、あるな」
「あそこから、八ツ森行きのバス出てんだ」
「八ツ森?」
「病院の名前。オージ、今も定期的に通ってるって。だから、裏門から出てく時は、その日だったって」
それはどういう、と質問しかけた松橋は口を噤んだ。
代わりに別の台詞を選んだ。
「そっか。色々教えてくれたんだ。それって、すげえ頼りにされてるじゃん? やったじゃん?」
松橋は喜ばせるつもりで云ったのだがひめかわは真剣な顔のままこっくりと頷いただけだった。
「おれ、オージのこと、わがままだなあって思っちゃう時あったんだ」
「まあ、あいつを知ってるなら誰でも思いそうなことだな」
「でもオージ、自分から何かを要求する種類のわがまま、一度も云ったことないんだよ。何かをしてくれ、とか、何々が欲しいから与えろ、とか。たぶん、信哉さんや、光さんにも云わないんだと思う」
「確かに、嫌だとかあっち行けとか触んなとか死ねとかは云うけど、それだって相手からの働きかけに対してのことだもんな」
「オージ、本当にして欲しいことは、云わないんだ」
ついさっき元気を取り戻したばかりなのにひめかわの表情は再び沈み始める。
「ううん。云えない、んだ。きっと」
「なんつうか、複雑だよな色々……」
松橋の言葉にひめかわは頷くと鞄からある物を取り出した。
テーブルの上に差し出されたある物を見た松橋は「ぎゃっ」と悲鳴を上げるとそのある物を隠すように体を倒した。
「ちょ、ひめ、おま、なに、これっ」
「え。銃だよ? 信哉さんにもらったんだ」
「もらったんだ、じゃねえよ、今すぐ返しに行くぞっ」
「何で?」
「逮捕されたいのかよっ」
「だけど、ニセモノだよ」
その言葉におそるおそる顔を上げた松橋は体を起こし、まじまじと眺めた。
「……なんだ水鉄砲かよ。だけど何に使うんだよ、こんなの」
「使い道は、今、松橋が証明してくれたじゃん」
「え、おれ?」
「そ。人を驚かすんだ」
「ねえ、云って良い? 超迷惑なんですけど」
「だれかれ構わずじゃないよ。オージに危害を加えそうになった人物に対してだよ。威嚇っていうか」
「ひめが危険思想植え付けられてる……! てかからかわれてるだけだろ、信哉さんに!」
「あと、これも預かった」
「何だこれ、って、うわ大金じゃんっ」
「オージに必要な物はこれで買ってくれ、って。足りなかったらおれに云え、って」
「とかなんとか云ってこれもどうせニセ札なんだろ。……って、ニセ札とかお前やっぱ逮捕されたいのかよっ」
「ううん、こっちはホンモノ」
「うお。あ、ほんとだ。しかしこれはこれで物騒だな。何で持ち歩いてんだ?」
「オージのお部屋作りに使うんだ」
「飼ってるリスの小屋作り、みたいな軽さで云うな」
「これからオージと待ち合わせしてる。一緒に家具とか見に行くの。えへえへ」
でもその前に腹ごしらえ、とひめかわが次なるドーナツに手を伸ばす。
ニコか、とつっこみながら松橋も今度こそきちんとポンデ・リングを見極めた。

ショップを出て歩き出したひめかわは駅前で松橋と別れる。
時計を見ると待ち合わせ時刻の三十分も前だった。
橋を渡って空いているホームに移動したひめかわは、四つ並んであるオレンジ色の椅子の一つに腰掛けた。
正面に改札口が見える。ここからならオージが来てもちゃんと見えるだろう。
レールに目を落とすと、黄緑色の葉が脇に芽生えている。
すごいな、強いな。
しかもそれはずっと遠い先まで続いている。
突然、鼻がくすぐったくなってくしゃみをした。


「自分のしたことで人が傷つくことがあるって、ちゃんと考えたことあるか?」
(出典:「ラブリー・ブラウニー」3)


あの時自分が投げ付けた言葉をオージはどんな気持ちで聞いたんだろう。
傷つく側。傷つけられる側。
世界はそれで二分されるほどはっきりきっぱりしちゃいない。
みんな誰かに傷つけられて、知らずに誰か傷つけている。
傷の深さを口にする人、しない人。
さらけ出す人、秘める人。
冗談にできる人、できない人。
云う人、云わない人。
云える人、云えない人。
外から見たその人が内から見てもその通りだとは限らない。
だけど、だからこそ、おれは、云うべきじゃなかった。
「考えたことある」どころじゃなくって、考える暇さえ許されないくらい、ずっと、戦ってきたひとに。
早朝、まだ暗い時間。誰も起こさないようにとひっそり家を出て行ったオージの気持ちを考えようとすると、ひめかわは無条件に泣きたくなる。懐中電灯を手に持って、川の流れに沿って、たった一人で歩いて行くオージ。真っ黒い目で、静かな心で、木の実を捜して、歩き続けた。見つからないかも知れない。そんな確率は問題では無くて、ただ、ただ、自分の足で歩き続けた。
「ちゃんと、あったし」。
手のひらを差し出した時の、不貞腐れたみたいな顔。
若葉みたいに、白くて、ちっちゃい手。

待ち合わせ時刻の二十分前になると、東高の制服姿が改札を抜けて来た。
ホームに入って左右を見渡すと、腕時計で時刻を確認する。
真正面のひめかわには気づかない。
早過ぎた、とかなんとか云って舌打ちでもしているのだろう。しかめっ面になると自動販売機の横に立った。
「……オージ、」
ひめかわが立ち上がりかけた時、間に電車が入ってきた。
オージの姿が向こうに隠れる。
乗客の乗り降りを終えた電車が再び走り出した時、自動販売機の横からオージの姿が消えていた。
きょろきょろしていたひめかわは突然、右のふくらはぎに衝撃を受けた。
「痛っ」
振り返ったひめかわの目線の先にはオージが立っている。
「……何でこっち側に居んだよ、ばかずま……って、うわ、ちょ、離れろバカ、おかしいだろっ」
すごく、不機嫌そう。
表情で、分かる。
それは、伸ばしていた髪を切ったから。ぶ厚い大きなめがねをはずしたから。
強い。
冬の雪を溶かす太陽みたいに、線路に咲く春の草花みたいに、オージは、強い。
「オージ、オージだっ」
「分かった、分かったからっ。か、顔っ。顔、舐めんなっ」
「ごめん無理」
「ごめん無理。じゃ、ねえしっ。舐めんなっ」
「うう、ごめん、ほんと無理。でも、なんか、もう、治まんなくなっちゃった。あはは」
「治まんない、じゃなくて治めんだよ、バカ! ……って、治まらないって何がだ!」
身動きの取れなくなったオージがかろうじて動かせる手でひめかわの鎖骨の辺りを強く殴る。
しかしひめかわはびくともせず愛しげに頬擦りを続けている。
傍から見れば男子高生のふざけ合いに過ぎない。
駅の日常にそれは溶け込み馴染んでいる。世界中のどの場所のワンシーンもそうであるように。そういうものが集まって、一つの風景が出来上がるように、当たり前に。
「……オージ、ありがと」
肩に顔を埋めたひめかわが耳元で囁くとオージの動きが静かになった。一瞬後に抵抗を再開するが、先ほどの勢いは失われている。
「ありがと、って、何がだよ」
腕を突っ張り距離を保ったオージは深呼吸を一つ。
暴れていたからか頬が赤い。
この先何年、何十年と生きようと、これほどの感動に包まれる日はもう二度と来ないだろうと思う。
まだ十七年しか生きていないひめかわは実感する。
確信、ではなく、実感する。
オージの顔がちゃんと見える。
オージがここにいる。
そのことを自分は知ってる。

「おれの前に現れてくれて。ありがと、オージ」

囁くようなその言葉にオージが瞬きした。
肩に掛けていたバッグが足元に落ちた。
あっけなく、すとん、と。
それは、照れているようにも。
何か云い返したいが呆れてしまって何も云えない。
ようにも見えた。
「……あっち行け」
ようやく解放されたオージは歩き出し、その後をスキップするような足取りのひめかわが追う。


「オージ、やっぱ、かわいい」
「……うっせえよバカ」
「おれがバカでもオージはかわいい。これってすごい真実だなっ」
「……ちょっと黙れ」


ある、春の日。


おれは森で眠るひめだった。
それはそれは幸せな場所だった。

きみを呼ぶよ。
きみは奇跡。
チョコレートを持っておれの前に現れた王子。
きみはあの日からずっとおれの奇跡。

幸せになるのは簡単。
不幸せになるのも簡単。
逃れられることはできなくて。
くたくたになったりするけど。

どこでだって立ち止まって幸せを聞くよ。
いつだって手を止めて不幸せを聞くよ。

だってきみが話したいことはおれの聞きたいこと。

きみが願う時、おれは流れ星になって。
きみが祈る時、おれは四つ葉のクローバーになって。

神様みたいな力は無くても、
本当の言葉を近くで受け止めていける、そんな存在になりたい。

果たされない約束みたく、
魔法仕掛けの呪いみたく、
一瞬の中に潜む永遠みたく、
おれはきみにずっと終わらない好きをあげる。


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ちなみにおれは彼女募集中。(by 松橋)