「あら、やだ、ごめん。一馬のことすっかり忘れてたわ」
西高の夏服に着替えたひめかわが階下へ降りて行くと洗い物をしていた峰子が振り返っておっとりと云った。
「急がないと遅刻するんじゃないのぉ?」
「間に合わせるっ」
席についたひめかわは味噌汁でご飯を流し込む。良く噛んで食べるがモットーだが優先順位というものがある。今は消化器官よりも制限時間の心配が先だ。
いつもどおりならテレビでは最新のニュースが流れている時間帯だったが映っているのは今日の占いコーナーだった。
「……この年にもなって親に起こしてもらうのかよ」
その声に振り返ったひめかわは食事を終えて余裕の同居人が歯磨きをしているのを見た。
「あ、オージ、おはよっ」
東高の夏服を着た同居人は口の中に歯ブラシがあたってうまく喋れないのかそれとも単に面倒なのか「はよ」と二文字で返事した。
途端、ひめかわは田舎の梅干を同時に十個も口に含んだように顔をくしゃくしゃにする。彼は今、喜びを噛み締めている。
オージが姫川家に居候するようになってから早三ヶ月が過ぎようとしている。オージの異父兄にあたる信哉と光は今年の春からそれぞれが関東と関西の大学に進み、月に数回程度、それこそ目に入れても痛くないほど大切にしてきた弟の顔を見に帰って来る。離れて暮らすことで兄達の気も少しはオージから逸れていくのではないだろうかと楽観的に考えていたひめかわは自分の考えが甘かったことをすぐに知ることになった。実物に会えないぶん余計に心配が募るのか、ひめかわの携帯電話には二人からの着信が三日と間を空けない。内容は至って他愛も無い世間話の様相を呈しているがその実、脅迫まがいの念押しだということも分かっている。
二人とも寂しいのだ。
ひめかわには分かる気がした。
信哉と光がオージに対して崇拝めいた慕情を寄せていることは先の一年間で痛いほどよく分かった。そこには彼らの生い立ちや環境や予期せぬ不幸のあったことが関係しているから単に「あまりに過保護だ無用の溺愛だ」と非難することはできない。彼らにとってはオージをここに残していくというだけで既に「放任」に値するのだ。人の価値観なんて絶対的なものじゃ絶対にない。ひめかわは思う。深海の魚が陸には上がれないように、陸上の生き物が深海では生きていけないように、同じ地球上で生きている命同士だとしても相容れない適応場所を持っている。そんな、もともと切り離せなくなってしまった部分を切り離していったのだから、頻繁に日常の報告を請求してくることや、主治医が患者の容態を気にかけるがごとくにオージの体調や精神状態をうかがってくることは、むしろそれだけで抑制できているのだから余程であるといっそ感心すべきなのかも知れない。
一種の病。
さっきは主治医と位置づけたが、一言で片付けるのならば逆に彼らこそ病を患っていると云えるのかも知れない。と、ひめかわはこのようにも考えてみた。
光はまだ軽症なほうだ。芯でオージを気にかけていることには変わりないが、全てを投げ打ってでも、という切迫は感じられない。勿論、実際がどうであるかは知れない。そういった話を真剣に交わしたことは無いし、ひめかわから質問したことも無いし、したところで真情を回答してくれるような相手では無い。と、思う。とは云え、そう見える、ということは、実際そうである、と同じくらいか、下手すれば、より重要なことだ。生身の人間が気持ちを繕うことは一枚の仮面をかぶるほど簡単なことではない。演者ではないのだ。現実は筋書きの徹底した舞台ではない。ちょっとした仕草や言葉の端々に偽らない感情の起伏の余波が押し寄せてしまうことは誰にも、本人にも制御できない。そもそもそれらは意思の範疇では無いからだ。その点、光はオージに対する執着が比較的淡白なほうだろう。
さて比較相手の場合はどうか。
彼の場合はもう捨て身だ。殺気だ。そう、殺気。
ひめかわは昨夜、信哉から掛かってきた電話の最後のフレーズを思い出してつい身震いした。
「オージのこと、頼んだからな」。
さて。
普通の人ならこの言葉のどこが殺気なのだと訝るだろう。
穏やかじゃないか。柔らかじゃないか。微笑ましいじゃないか。十人中九人まではそう感想を述べるだろう。仮にこちらから訊いたとしてそれに答えてくれたなら、の話だが。
だが違う。
最後の一人、ひめかわは誰へとも無く頷いた。
この言葉にはあちらから頭を下げて依頼するような意味合いはこれっぽっちも無い。もしお前が何らかの不手際でオージを窮地に立たせるのだったらそれなりの覚悟はしておけ。そう翻訳できるのである。信哉は見上げることを知らない。見据えるか見下げるかのどちらかだ。少なくともひめかわはそれ以外の視線を受け止めた記憶が無い。
「頼んだからな」。
静かな声でそう囁かれたら、信頼に報いなければ、というより、何としてでもこの契約を固守しなければという警戒心が先に働く。そう、これは契約なのだ。ミスは許されない。
姫川一馬。
高校三年生。
健全です。
絶賛試用期間中です。
そんな文字が頭に浮かび、「油断できない」と口元を引き締めた。
「……朝っぱらから変な奴」。
オージがそんなひめかわを横目に洗面所へと歩いて行った。
そのオージの後姿を見送っていた峰子が「オージくんはねえ」と息子の一馬に向かって語り出した。
「朝起きたらお布団をちゃんと畳むの」
「へえ」、ひめかわは返事をする。
「朝食の手伝いもしてくれるのよ」
オージが早起きなのは知っていたが朝食の準備までしていたとは知らなかった。ひめかわは自分の手の中の茶碗に視線を落とした。
「挨拶もちゃんとしてくれるし」、峰子は両手を顔の前で組んだ。
「本っ当にいい子なの!」
その勢いに押されるように僅かに肩をそらせたひめかわは数秒後、ようやく「知ってる」とだけ答えた。
つまりそれが自分に足りないことのだ。
出発地と乗る電車と目的地が同じとなると必然的に一緒に電車を待つことになる。
小さな駅には今年の春から赤いベンチが設けられた。プラスチックの表面はエナメルのように輝いて、寂れた町を踊るように歩いて行く聡明な少女の赤い靴のようだ。つまり違和感があった。浮いていた。似つかわしくなかった。
それでも見慣れてくれば愛着が湧き、座れば尚更。そうやって赤いベンチは日常の一部になっていった。
ひめかわがベンチの真ん中に腰をおろすとオージはその隣に鞄を置き、自分は立ったまま本を広げた。
「もう、何でっ」
頬を膨らませたひめかわはオージの鞄を自分の隣に置くと空いた場所を叩いてオージに座るよう促す。
「……はあ?」
「日中と帰りはバラバラなんだし、行きの電車待つ間くらい喋りたいのっ」
「……家ん中でいっつも会ってんじゃん」
「会ってるだけじゃ嫌なんだっ」
「……十八になる男が駄々こねたって気持ち悪いだけだからな」
ひめかわの請願むなしくオージは一向に座る気配を見せない。
黙っても無駄。
気を引こうとしても無駄。
ひめかわは諦めて背凭れに体を預けた。大きな溜息が出る。それはあおぞらを見ながら自然と行う深呼吸に過ぎなかったかも知れないがオージの気を引いた。
「……だってお前でかいじゃん」
「え、おれ?」
ひめかわが顔を上げるとオージは眉間に皺を寄せた。険しい表情になっているがひめかわにとってはそれも「かわいいっ」の領域である。さすがに今のタイミングで口に出すことはしない。
「……たまには見下ろしてみたい、から」
語尾は怒ったように吐き捨てるオージの横顔を見上げていたひめかわは、ぱあ、と光を放ちそうなほどの笑みを浮かべてオージに擦り寄った。
「……何だよ、寄んな、死ねばかずまっ」
「オージ、オージかわいいっ」
「……ちょ、朝から、も……だっ、はなっ、せっ」
オージは持っていた本の角でひめかわの頭を叩いて覆いかぶさってくる体をなんとか引き離そうとするが効果は見られなかった。それどころか脇から抱えるように密着されて動きを封じられてしまう。
制服に皺が寄る、などと考えながらオージは諦めたように体の力を抜いた。
遠くに目をやると山の稜線がはっきりと見えた。山のむこうにはあおぞらが広がっている。こんなに色彩がはっきりと見えるのは、夏だからだろうか。裸眼だからだろうか。伸びてきた前髪がまだそれほど熱を持っていない風に吹かれる。中央に着けば自分はまた思わずめがねを取り出して掛けるだろう。そうすぐにはうまくいかない。ずっと続けてきたことを突然やめることはできない。それでも、自分の中で少しずつ何かが変わっていることは確信している。いつか、が悪夢ではないことを信じていられる。
(この、ばかの、おかげなんだろうか)。
オージはベンチの上にだらりと体を伸ばして上半身だけ寄りかかってくるひめかわの頭を見下ろした。
当然だが自分の髪質とは違う。癖のつきやすい、柔らかい髪。
少し触れてみようかと思い、そっと右手を持ち上げたオージはひめかわが予感して身構えたことに気づいて諦めた。
触れるか触れないか。
(こんな些細なことに意識を集中させるってことなんだ)。
何かを悟った気分のオージは「何がだ」と自分に質問にした。答えは無い。
「オージ」
「んだよ」
「いいにおいするね」
「そうだな。死ね」
結局、手は触れた。癖のつきやすい、柔らかな髪の、頭に。それを叩くという行為によって。
見上げるとあおぞらが続いていることが分かった。
自分とは無関係のずっと向こうだけが青いんだと決め付けていた観念は、ただ顔を上げた途端、あっという間に覆される。
それを確かめるように、オージは目を瞑ってみた。瞼の裏にもあることを確かめるように、開けたらもう一度、目を瞑って、浅くて長い呼吸をする。
100711