甘いものは好きでも嫌いでもなかった。
 それを食べて喜ぶ人がいるなら喜んで食べるし、そういった存在が身近に特にいないのならべつに、一生食べないでも生きていける。

 雪の中に少女が立っている。
 両肩に垂らした三つ編に、白い結晶が降り積もっていく。
 ニコは空を見上げた。
 灰色の雲からはらりはらりと氷の結晶が降ってくる。どれくらい高いところから落ちてきてるんだろう。
 ニコは空に向かって舌を出した。
 あんなに高いところから落ちてきてもまだこんなに柔らかくて軽いなんて、すごい。ぶつかってもどこも傷つかないなんて、すごい。
 ニコは顔を正面に戻す。
 さっきまで俯いていた少女がニコを見ていた。
「桐谷くん」。
 か細い声。
 桐谷。自分のことだ。人から名字で呼ばれるのは久々な気がした。
「うん、なあに?」。
 自分の声も幼いことにニコは気づいた。
 一面が白い雪の中、向かい合った、赤いランドセル姿と黒いランドセル姿。
「桐谷くんにね、これ、食べて欲しいの」。
 少女が差し出した物をニコは見る。ラッピングされていたが中味はなんとなく分かる。
 チョコレートだ。
 どうして分かったかは、分からない。
「おれ、甘いもの、」
 ニコが云いかけた、その時だった。
 ついさっきまで静かだった景色にいきなり強風が吹いた。ふわふわ降っていた雪もいつの間にか硬い氷の粒になり、その塊は大きさを増していった。ニコは腕で顔を覆いながら少女に歩み寄ろうとする。
「タカハシ、おい、だいじょうぶか」
 そうか、タカハシっていうんだ。
 目が開けられない。風は勢いを増し、まっすぐ歩くのもやっとなほどだ。視界は白く霞んでいく。進んでも進んでも少女は遠ざかっていくように見えた。
 がむしゃらに手を伸ばしたニコがやっとの思いで掴んだものは、少女の三つ編だった。
「よ、かった・・・!」
 安堵の溜息を吐きながら手繰り寄せる。
 しかし、その先には何も無かった。
 ニコの手には黒い束だけが残っていた。
 気づけば吹雪がぱったりと止んでいる。頭上には太陽が昇っていた。ニコは地面に目を戻す。一瞬、何がどうなっているのか分からなかった。ニコが握っているのとは別の、もう片方の三つ編だけがかろうじて見てとれた。
 震えも悲鳴も随分後からやってきた。
 ニコが見たもの、それは、初恋の少女の轢死体だった。



シ ロ ッ プ ・ ス イ ー ト ・ シ ロ ッ プ





「・・・・・・ニコ?」
 オージが呼びかけるとニコはゆっくりと目を開いた。
「・・・・・・あ、オージじゃん」
「うん。おれだけど」
「ここ、どこ?」
「学校。屋上。昼休み」
 とぼけたようなニコの質問にオージは淡々と答える。
 ニコは「んしょ」と体を起こした。
 屋上へ上ってきたところまでは覚えていたが、いつの間に居眠りしてしまったのか分からなかった。青い空には白い雲が浮かんでいて、樹が茂った中庭の方角からは蝉の鳴き声が響いていた。こんな季節に、こんな場所で、こんな状況で、どうしてあんな、色んな意味で「涼しい」夢を見たのか、分からない。皮膚は暑さを実感していたが、真ん中の部分がずっと冷えたままの気配がした。心臓がどくどく鳴っている。
「うなされてた、みたいだったけど」
 瞬きの少ない目でオージが云う。ただ、一回にかける時間が長い。だから眼球から潤いが無くなることは無いだろう。
「ああ、悪夢を見てたんだ」
「ふうん」
 オージはさも興味無さそうに頷いてニコの隣に腰をおろすと、さっき売店で買ったばかりの牛乳パックを二つ、供え物のように前に並べた。
 パックの表面に浮かんだ水滴を見下ろしながらニコは話し出す。
「ゴジラサイズのチョコレートが追っかけてくんの。逃げたんだけど、踏み潰されちゃって。そのままショックで気を失いそうになったけど、おれはめげなかった。チョコレートでできた足を裏側から食い破って、アキレス腱から出てきた」
「焼きそばパンとコロッケパン、どっちがいい?」
「コロッケ」
「はい」
「ん、ありがと」
 個々だった水滴の粒が、あちこちで溶け合って、一つになって、重みを増して、アスファルトに落ちて濡らして乾く。
 そうやって世界中で溶け合った水滴が空にのぼって、新しい冬の雪にもなるんだろうか。
 ニコはオージの肩に、ぽてん、と頭をのせた。
「ニコ・・・・・・」
 同年代の男子に比較して小さい体に腕を回す。咄嗟のことにもオージは身動きしなかった。できなかった、のかも知れないが。「あれ、いいのかな? だいじょうぶなのかな?」などと思いながらニコが見上げると、オージはやはりあの目で遠くを見ていた。一日かかっても、一週間かかっても、まだまだ辿り着けないような遠くだ。
「ごめん。オージ」
 謝りながらもニコは体を離すつもりはない。半袖シャツのオージに腕を回したまま、甘えるように見上げてみる。オージの表情はほとんど変わらなかった。
「ごめんね、オージ。おれ、わがままなの。優しくして欲しいから優しくすんの。癒されたいから癒すの。笑い返して欲しいから笑うんだし、抱き締めたら抱き締めてよ」
 それを聞いていたオージの眉が初めて動きを見せた。ぴくん。
「・・・・・・あいつの病気がうつったように聞こえる」
 云われたニコの頭に西高の姫川一馬の平和そうな笑顔が瞬時に浮かんだ。そしてシャボン玉がはじけるように消えた。
「ねえ、オージさあ、分かってる?」
「うん?」
「オージに構ってもらえなくなってさみしいのは、信哉とか光だけじゃないよ。ひめだけでもないし。そのへん、分かってる?」
 数秒後、ようやく意味を解したオージがあからさまに不快な表情をその顔に浮かべて云った。
「・・・・・・お、おれは、べつに」
 後の言葉が続かないものの、ニコにはオージのもやもやした心の部分が分かる気がした。
「うん。熱いよな。ごめん」
 ニコが「えへっ」と笑いながら体を離した時だった。屋上のドアが、ばん、と開かれる音がした。
「ニー、コー、ちゃあんっ!」
 クラスメイトが三、四人、それぞれコンビニの袋や売店のパンや自家製弁当を手に手にわらわらと集まってくる。よりによってどうしてこんな暑い場所にさらに熱い連中が。オージはニコを取り囲むように座った彼らから少し距離を取った。
「なあにサボってんだよ。んな元気そうな顔して」。
「保健室って云っといたからな。恩に着ろー」。
「ハシモト、心配してたぜ。あいつニコのこと疑わないもんなあ」。
「お、今日コロッケパンじゃん。どうしたの。何で買えたんだよ。ちょっと一口食わせて」。
 ニコの周りにはいつも人が集まる。
 ニコというあだ名はもともと本名の桐谷コウの真ん中の二文字からきている。
 キリタ『ニコ』ウ。
 ニコはいつも笑っている。誰に対しても笑っている。喧嘩をする時でも笑っている。自分に向かって心からの笑顔を見せてくれる人に対し、不快な感情を持つ人間は少ない。ニコが愛される理由はオージにも良く分かる。この学校の生徒の中では一番親しい仲だから、ニコの人脈の太さ、幅広さは間近で見ている。教室棟の廊下を端から端まで歩いたとして、オージなら一分以内で終わるところをニコは十分も二十分もかかる。途中で声を掛けられるからだ。廊下の窓が開いていると、教室の中からでもニコを呼び止める者もいる。ニコはどんなに遠くから掛けられた声にも正確に反応する。
「ミヤベに伝えたから」。
「こないだ、ありがとな」。
「週末のアレ、行けそう?」。
「追試だってマジでヤバイよおれ」。
 オージには何のことだか分からない。一つ一つの台詞が短ければ短いほど、それだけ互いが気を許している証であるような気がする。説明の要らない何かが進行中。しかも同時に進行中。
 ニコが誰かと話し出すと、オージはできるだけ静かにいなくなるようにしている。近くで待つのも催促しているようで悪いし、何より自分の居心地が悪い。しばらくするとニコはオージに追いついて、そこでもやはり笑顔になる。ごめんごめん、と謝りながら。そこに邪気は無い。オージは無言で小さく頷く。
(ニコの特別になるのって、むずかしいだろうな)。
 女子にもニコのファンがいることは知っている。信哉や光と一緒に居ることが多かったオージは、異性がどういう仕草で相手の気を惹こうとするのか、そして意中の異性を見る目にどういう力がこもるのかを、悲しい哉、傍観し続けて熟知している。さすがに二人の兄達ほどではないが、ニコのファンも少なくは無かった。三年に進級してからというもの、新しい一年生にとりわけウケがいい。かわいさの混じったかっこよさを備えた外見と、爽やかな笑顔。優しくて明るくて強い。まさに、理想の先輩。そんなところだろうか。好きにならない理由が逆に見当たらない気もする。
(ニコの一番になるのって、むずかしそうだな)。
 ニコの隣で観察していると、ニコが物事に順位をつけない性格であることがよく分かる。友人にしたってそうだ。
 みんな好き。みんな大好き。
 根っからの博愛主義者。
 ニコはいつだって人懐こい子供みたいだ。喧嘩をするのだって遊びの一環のように考えているのではないか。勝敗のつくゲームみたいなものだ。かなり派手に喧嘩した後でも、ニコは相手のことをいつまでも執念深く覚えてはいない。もっとも、負けたことがないからこそ、それも可能なのかも知れないが。

 賑やかになった屋上でオージはめまいを感じた。
 この東高に入学してからというもの、いつでもニコが自分のそばにいてくれた理由を考える。庇ってくれた理由、他の誰とも差をつけず隔てなく接してくれた理由、その笑顔を向けてくれた理由。
 オージはその理由を明確に知っている。

 信哉さんに、頼まれたから。

 目の前が霞んだ。
 ニコの周囲にできた輪から笑い声が上がる。オージにはそれが小さな箱の中で小人達が笑っているように聞こえた。慌てて立ち上がると、笑い声が急に大きくなった。最大音量に設定していたイヤフォンを、そうと忘れて耳に突っ込んで、再生ボタンを押してしまった時のような迫力だった。頭の中に、振動が起こる。雑音が渦を巻いている。砂嵐が徐々に像を結ぶように、それらは少しずつ意味のある言葉になっていく。
 オージはうずくまると咄嗟にポケットに手を入れた。
 無い。
 それが分かると動悸が早まった。
 最近久しくこんなことが無かったから、もう大丈夫だと、油断していた。
「オージ?」
 ニコらしき人物が立ち上がるのが見えた。曇り硝子越しに見るように、曖昧な姿だった。しかしオージにはそれがニコだと分かった。東高において自分のことを真っ先に心配してくれる人間。それは、今は卒業した二人の兄を差し置いて彼に他ならない。
 他の生徒も初めてそこにオージがいたことに気づいたように振り返る。
「響、おい、大丈夫か」
 オージはこくりと頷いたつもりだったが、
「大丈夫なわけないだろ」
 前の発言をした男子を別の男子が睨んだ。
 悪い言葉じゃない。
 分かっている。

 あの日、自分に向けられていた好奇の目、テープレコーダーを握った無数の手が、求めているような、回答を欲する言葉じゃない。また別の日、どこかの校長室で、入学を志願するオージを、厄介な物を見るように、あるいは、困惑して見つめていた、大人のあの視線じゃない。同情でもない、憐憫でもない。それらはいつだってオージの上を通り越してオージの身の回りに起こった事件に向けられていた。

( かわいそうだね。運が悪かったんだろうね。これからどうするんだろうね。金持ちだし親戚だっていっぱいいるだろう。経済的に困ることは無さそうね。不幸中の幸いってやつかしら。殺された女の子にそっくりだったって。双子だから。でも一卵性じゃないのに。わたしたちに何かできないかしら。 力になるよ。 しばらくゆっくりしたほうがいい。事件のことは、忘れて。 何か思い出したらここに電話してくれ。少しずつで良いから。 うわ、悲惨。でもさこういうのって今さら珍しい事件じゃなくね。 すみませんテレビ局の者ですけどお。 もしもし、もしもし? もしもーし?)。

言葉が、流れ込んでくる。

(「被害者」だからっていつまでも調子のんなバーカ)。

流れ込んで、くる。



「・・・・・・いいよ、オージ」

 顔を上げるとニコだった。
 片膝をついて、両手をお椀の形にして、オージの方へ差し出している。まるで何かを欲しがるような姿勢だ。
 オージは朦朧としながらも表情に疑問符を浮かべる。
「うん。いいよ」
 ニコは真顔で頷いた。あ、真顔。とオージは思った。あ、その顔。初めて見た。かっこいい。
「・・・・・・え、なに?」
「いいから、ここに出して」
 ニコの両手が近付いてくる。
 オージはその手の形が何を意味しているのかすぐに分かった。
「ラクになるから」
 迷っている暇は無かった。
 両手の塞がったニコが「あのさ、オージの背中さすってやってー」と呼びかけると、二人ぐらいの手が伸びてきた。
 何だこの統制力。
 こみ上げてくる生理的な涙を目に浮かべながらオージはニコを見上げた。
「なあ、ニコ。何でわざわざ手で受けた?」
 背中をさすっていたうちの一人が、オージと同じ疑問をぶつける。それを聞いたニコは不思議そうに首をかしげた。
「え。だって手っ取り早いじゃん」
 三階のトイレに行って流して来る、と云い残してニコは開け放たれたままだったドアから屋上を出て行った。
 後に残された生徒がオージの顔を覗き込んで具合は大丈夫かと訊ねる。
 オージは、答えずに口を拭った。
 ニコだから、だ。
 こいつだって、ニコに頼まれなければ、おれの背中をさすらなかった。



 放課後、ニコとオージは冷房の効いたドーナツショップ内に座っていた。ニコのカフェオレには大量のシロップとミルクが、オージのコップには真っ黒なアイスコーヒーが注がれている。
「におい、つかなかった?」
 オージの言葉にニコは「うん。まったく」と顔の横で両手を振って見せた。
 今日の昼休み、学校の屋上で、オージに向かって両手を椀にして差し出した時の真剣さは微塵も無い。
 それはいつも通りのニコだった。
「暑かったからだよな。気分悪くなっちゃったんだよな。変な場所指定して、ごめん」
 オージは、違う、と否定しようと思った。暑かったから、だけじゃ、なかった。
 だけどニコがそういうことにしておきたいのだと気づいて口を噤んだ。
 店の自動ドアが開いて下校途中の他校の生徒が入ってくる。駅前のドーナツショップには学生が多い。当然制服を着ているので、ちらっと見て、他校のものならばすぐに目を逸らす。
「なあ、オージ」
「・・・・・・うん」
「信哉さん、最初の頃、おれに云ったんだ。オージはどんなに甘やかしてもいいんだ、絶対に足りないんだから、度を越してもいいんだ、って。百で一なんだ、って。そう思え、って。心得みたいに大真面目におれに云ったんだ」
「・・・・・・信哉さん」
 オージはつい一週間前に会った信哉の姿を思い出した。たまたま出掛けていた帰りだったので駅の改札口で出迎えた。信哉の姿は人ごみの中だとより目立つ。身長のせいもあるし、顔立ちのせいでもある。黙っていると冷たく見えることがある。整った容貌はだからしばしば第一印象で誤解を受ける。(もしくは、そこがいい、と受け取られることもあるのだが)。不自然でないサングラスをはずすとオージに気づき、表情を崩す。「すぐに分かった」。オージが信哉に対して思っていたのと同じ感想を信哉は述べる。「オージの視線は一番まっすぐだから、すぐ、分かった」。信哉さんの言葉は、本物なんだと思う。誰から強制されたものでもない。だからオージは何も云えなくなる。ただくすぐったくて、血が温かいということが分かる。そんな時オージはどういう顔をしたらいいのか分からない。顎を引くように頷いて、次の言葉を探している。
「ねえ、オージさあ」。
 信哉のことを思い出してぼうっとしていたオージはニコの声にはっとした。
 アイスコーヒーの中で溶けた氷が、ころん、と音を立てた。今すぐ溢れ出すわけでもないのに、ストローをくわえると、ずずずいっと吸い上げた。
「オージはさあ、おれとかトッキーとか、信哉とか光とか、ひめとか、が、自分に優しいのってどうしてだと思う」
 ニコの目は薄茶色をしていた。
 オージは言葉に詰まった。
「それは、オージが優しいからだよ」
「・・・・・・おれ、優しくない」
「ううん、優しいの。優しくされてる本人が云うんだから信じていいことなんだよ」
 間違いを訂正するように諭すニコの横顔は穏やかだ。
「・・・・・・」
「オージ、信哉と光を助けたことあるんだってね」
 オージは首を傾げた。記憶に無かった。
 いつも助けられてばかりで、守られてばかりで、もどかしいぐらい、二人は強くて、頼もしくて、迷惑をかけたくないと思いながら、やっぱり、どこかで、いつも、甘えていた。
「あ、ほんとだ」
 何が「ほんとだ」なのだろう。
 オージの手首を掴んだニコが、軽くひねるように裏返すと、そこには糸が細く捩れたような跡がいくつか残っていた。
 オージにはそれが何なのか分からなかった。昔からそこにあったから、特に気にもしていなかった。火傷とも違うし、擦り傷を作るような場所だとも考えづらい。
「ほらね、やっぱり、残ってる。ほんとだった。この手が、したことなんだよ」
 ニコは話の大部分を省略している。すべてを明かさないことをわざと愉しんでいるようでもあった。
「だって、なあんにも知らないって顔してるオージ、超かわいいんだもんっ」
 ニコが真似たのはひめかわの口調だった。あまり似ていなかったがそうだと分かったのは語尾だ。溢れる感情の処置に困ったみたいに、もうどうしようもなく大きな何かに圧倒されながらいいわけを練るみたいに、「~もん」。それはひめかわがオージに対して何かを告げる時に多用される。少しは文章を整えてから口にしろ。オージのその考えももっともだが、ひめかわにとっては「それじゃ我慢できないっ」のだそうだ。そういったせっかちな衝動を常日頃から放出させているひめかわを間近に見ているとオージは時々自分がかなりお年を召された老人であるかのような錯覚に陥ることがある。世の中何事も相対的な感想ばかりなんだなと思うきっかけだ。
「信哉、云ってたよ。誰も助けようとしない人間をもし助けたら、助けられたほうは絶対に助けてくれたやつのことを忘れない、って。一生、恩返しに回せる、って。・・・・・・ま、それって明らかに自分たちのことだよねっ」
 あまりに抽象的でオージにはよく分からなかった。
 ニコはオージの不思議そうな反応には構わず、今度はゆっくりと、云い聞かせるように、語りかける。
「だから。だからね。オージは自分に良くしてくれる人のことを、幸運みたいに思っちゃダメなんだよ。奇跡みたいに思っちゃダメなんだ。だって全部オージがしたことなんだから。自分のしたことが、返ってきただけ。まぐれだとか運が良いからなんだとか恵まれてるからだとか、そういう、神様的なものではないんだよ」
 おれのことだって、そうだよ。
 そう云って笑うニコの笑顔が、いつもの、きらきらっと星が飛びそうな種類のものとは少し異なる気がしてオージは、ああそうか、と悟った。
 ニコは分かってる。
 おれがニコに対して考えていること。おれがニコを分かっているように、ニコもおれを分かってる。
「信哉に頼まれたから、とかじゃないよ」
 かなりピンポイントでニコが云う。オージは自分がいつか寝言でも云ったのかもと本日の行動を振り返る。そんな場面は無かったはずだった。
「おれ、自分が納得できなきゃ何もしないもん。もし別のやつのことだったら土下座されたってヤダって云うだろうし」
 ニコは云わないと思うけど。
 オージは何かを拒絶するニコを想像できなかった。
 だから、この言葉だって、ニコはわざと云ったんだろう。
「この云い方が気にさわったら謝るけど、おれ、オージを守るの楽しいもん。・・・・・・それに、半分は、おれのエゴだから」
 後半部分はオージの耳に届かなかった。
 ストローに口をつけたニコは底に溜まったシロップを吸い上げる。甘い、もったりとした感触が冷たさと一緒に口に広がる。甘い。それは、甘い。甘党じゃない人間が同じことをしたら「おえっ」と云いたくなるような、密度の濃い甘さだ。だけどニコは甘いものが大好きだ。甘いものなら、いくら食べても飽きないし嫌いにはならない。
 黒髪が綺麗だった女の子。
 ニコにとって、初恋の同級生。
 今はもう、生きてはいない。
 クラスで目立たない内気な少女が、クラスで一番人気の少年に声を掛ける。
 どれだけの覚悟と勇気と練習が必要だっただろう。
「桐谷くんにね、これ、食べて欲しいの」。
 もう二度と食べられないチョコレート。
 もう二度と受け取れない、甘いもの。
 どうして、ただ、一言を云えなかったんだろう。
 ありがとう、って。

「・・・・・・ドーナツとか、食べる?」
 オージの言葉にニコはこっくり頷いた。
「うん。食べる。ありがと」
「んじゃ、取って来、る・・・・・・」
 椅子を立ち上がりかけたオージの動きがぴたっと止まる。気になったニコが仰ぐとその視線は入口のほうへ注がれていた。
「あ。ひめと松橋だ」。
 ニコとオージはしばらく彼らの動向を観察することにした。
 店内に入るなりひめかわが飛びついたのは、主に子供向け景品の飾られた棚だった。
「わ、ちょっ、松橋松橋っ。今度のハニィシッポすっげえ動くんだけどっ。これ欲しいっ。ねえ、まつばせえっ」
 聞いているほうが恥ずかしくなるくらい弾んだ声だ。
 案の定、他校の女生徒が数名、くすくす笑っている。だがバカにした様子はない。まるで母親が子供を見るような目を向けている。
 アイドルって、お得だな。
 ニコとオージは同じ感想を抱いた。
「あ、オージとニコだっ」
 こっちに気づいてくれるなオーラがかえって存在を一際異質の目立ったものにしてしまったのか、東高生二人はたちまちひめかわに発見されてしまった。
「オージ何食べてんのっ。おれオージと同じ物食べるっ」
「・・・・・・うっせえし、うぜえよ」
「こっち座っていい? いいよね? いっか。うん、座るっ。おーい、まつばせー、こっちこっち」
「・・・・・・よくねえし」
 しかしすでにテーブルは四人体制になった後だった。
「ニコ、ひさしぶりっ」
 ひめかわが瞳をきらきらんっと輝かせる。
「うん、ひめが元気そうで何よりっ」
 ニコも笑顔から星を飛ばす。
 地味顔の松橋が「うおっ」と両手で目を覆う仕草をした。
「オージ、外で見てもやっぱかわいいっ」
 ひめかわから云われてオージは無言だった。
 この春から一緒に暮らすようになっても、テンションが落ちない。素か。そうかこいつはこれが素なのか。オージは「犬のほうがまだおとなしいな」と、眼鏡の奥で目を細くした。
 松橋が持って来た皿のドーナツを一つ取ると、はぐっと食いつく。
 はっと顔を上げるとひめかわが興奮に潤んだ目をして自分を見ていることに気づいてオージはぎょっとした。
「オージ、ほっぺた・・・・・・!」
「・・・・・・んだよ?」
「ほっぺたが、もこもこ、ってしてるっ・・・・・・ああ、もう、オージなら、オージなら絶対おれのハニィシッポになれるっ!」
 預言めいた謎の言葉と共にひめかわは両手でオージの膨らんだ顔を、ぱふん、と挟んだ。オージは徹底的に無視を決め込み、咀嚼を続ける。
「・・・・・・あ、もっ、オージ、そんなに動かしたら・・・だめっ・・・ってばあ・・・。ああもう限界オージかわいすぎるっ!」
 はーい、アウトー。
 オージのアッパーより先にニコのやんわりとした制止がひめかわの暴走を止める。
「えろいってば」
 ニコに諭されてひめかわはおとなしくなった。
 さすがニコ。
 感心したオージが視線をひめかわから隣にやると、真顔で黙っていた松橋の鼻から一筋の血が流れていた。

 紙ナプキンを差し出すひめかわ。
 何で今ので、とつっこみながら笑い続けるニコ。
 ようやく自分が鼻血を出していることに気づいてうろたえる松橋。

 オージは眩しい物を見るみたいに目を細める。
 すべてを享受していいのか分からず、制限をかけるみたいに。
 
 でも。

 オージは瞼を上げた。

 これをおれが共有したっていいんだろう。
 そう思えるくらいに大切な時間を、一緒に過ごしたことで、おれの中に確かに、シロップみたいに甘いものが溜まっていって、いつかそれを彼らに返せる日がくるのなら。そして繰り返されていくのなら。何も遠慮は要らない。もらった分だけ、いつか返せる。その日は確実に、やってくるから。

「なあ、食う?」

 オージがひめかわに向かって食べかけのドーナツを差し出すと、四人の間に一瞬の完全なる静寂があった。
 直後、ひめかわが歓喜の声を上げ、何故だか松橋の鼻血は止まらなくなり、彼らをコントロールすることを放棄したニコはストローの先でカフェオレの甘みさを調節することに熱中する。

 ありがとうありがとうオージありがとうっ。
 
 西高で彼はアイドルなんです。
 今ならそう云っても誰も信じてくれないだろうなと松橋が思うくらいにのろけて緩んだ笑顔で、ひめかわはオージの方へ身を乗り出した。オージは特に面白くも無さそうな顔でひめかわの口にドーナツを押し込んだ。
 氷の窪みに溜まったカフェオレを吸い上げていたニコはそんな二人を見て笑った。
 まだ口の中にドーナツが残っているにも関わらず、ひめかわが「も一個、も一個」とオージに向かって口を開ける。
 ヒナか。犬ではなくて鳥のヒナなのかおまえは。松橋が脱力する。動物的なんだよ、ひめは。
「・・・・・・ニコも、食う?」。
 再びコップの底に視線を落としていたニコにオージから声がかかる。
 顔を上げると一口分にちぎられたドーナツが食べられるのを待っていた。その奥でオージが、自分が何故こんな慣れないことをしているのか分からない、と困惑に頬を染めている。
 ほんとになんで。
 ニコが「なんで」と口にする前にひめかわが「なんでニコにも同じことするわけっ」と叫んだ。
「え。なんか、なりゆきで・・・・・・」、オージの返事にひめかわの視線がきっとニコを睨みつけた。
 突然上がった火花に松橋がぶるっと震えた。
 勝敗はすぐに決まった。
「うん。おいひい。ありがと、オージ」
 ニコが云うとオージは「べつに」と口ごもりながらやはり、おれは何をしてるんだろう、と自問自答に悩んでいる様子だ。何でこんなことをしているんだ、と。だけど答えは分かっている。答えはいつだって分かっている。それを実行できるかできないかの違いだけだった。だからつまり、正確には、何で今日は実行できたんだろう、という疑問を抱いている。
 自分のしたことは自分に返ってくる。今日それをニコに教わった。とすると、今のも自分のため、になるんだろうか。おれはそんなに自分がかわいいんだろうか。自分のためを思ったからこそ、実行にうつせたのだろうか。
 悶々。
 オージは難しくない問題を難しく考えてしまう。
 好きだからでいいじゃん。
 噛み砕けば何だって屁理屈になるよ。
 自分じゃない誰かなら、こうも考えるかも知れない。じゃあそういうことにもしてみよう。
「「なあ、オージ」」。
 ひめかわとニコの両方から同時に声を掛けられてオージは「もうしない。もう終わりだ」と首を横に振る。
 すると斜め前に座っていた松橋が「えっ」と泣きそうな顔をした。
「・・・・・・何なんだよおまえら」
 オージは皿からドーナツを取ると雑にちぎって松橋の口に押し込んだ。
「良かったね、松橋っ。んじゃ今から食べさせあいっこ開始ー」
 ニコの掛け声にオージは「はっ?」と呆れた顔を向けるも他の二人は早速乗り気で「開始ー開始ー」とアホの歌を歌いながらドーナツをちぎり始めた。
 しねえし。絶対しねえし。勝手にすればいいんじゃねえの。ばっかじゃねえの。
 オージが孤独な反旗を翻していると、入口が開いて見たことのある姿が向かってきた。
「おー、揃って何やってんだ? 外から楽しそうなの見えたからついつい入ってみた」
「エース!」
 ひめかわが椅子を増やしてエースに事情を話す。
 かくかくしかじか。
「・・・・・・というわけで、エースも、はいっ」
 ドーナツを受け取ったエースは「ガキだな」と鼻で笑った。これは自分の味方になってくれるかも知れない。オージがそう期待したのも束の間だった。
「まあ、嫌いじゃないが」。きりっ。エースの目に光が宿った。
 あんたもか。
 オージは肩を落とした。実はなんとなく予想できていたことだった。

 男子高校生が五名ひしめき合うテーブルで、うち四名がドーナツをちぎり、残りの一名だけが苛立ったような表情を浮かべているという、奇妙な光景。
 
 周囲の人間を味方につける能力に長けた友人達。その中にいるとオージは、彼らの言動や子供っぽさに呆れることも多いが、安心することもある。今日の昼休みのように、時々自分を襲うあの夜の鮮明な映像、頭の中で響く不特定多数のノイズ。時にそれらは強い頭痛や吐き気を催す。時間がかかるんだ、と馴染みの主治医が云っていた。だけど何も無かったことにはできないことも教えてくれた。自分のためでもいいんだ。オージはその考えを今度はすんなりと受け容れることができる。誰かに何かするのは、自分のためでもいいんだ。だって何もしないより、何かしたほうがいい。

 
いいよ、オージ。


 あの時ニコが手を差し出してくれなかったら、地面にもどしていただろう。そのままにしては去れないから、雑巾やバケツを取って来て掃除することになったはずだ。ニコならきっと手伝ってくれる。むしろ率先して片付けに協力してくれるだろう。平気平気。そう云って、やっぱりにこにこしながら。
 自分がより申し訳ない気持ちになるのはどっちのシチュエーションだ。
 考えるほどでもなかった。
 ニコのやったことは最善だった。

 
ここに、出して。


 信哉さんに云われたからじゃ、ないんだ、本当に。
 オージは隣で嬉々としてドーナツを一口サイズにしているニコを見上げる。気づいたニコが、ん、と差し出したかけらを、オージは抵抗無くもらうことができた。
「あ、ニコ、ずるいっ。ぬけがけだっ」。
 ひめかわがフェイントだフェイントだと抗議する。
 この街でもっとも幼稚でくだらない遊びが今、始まろうとしている。
 店員に注意を受ける、三十秒前。



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