1. 信 哉 と 光



 その日、学校から帰宅した信哉は、リビングの床に向かい合わせで寝そべるオージとニコ、それを間近で見下ろしている光。という構図を目の当たりにして一瞬、こめかみをひくつかせた。
「・・・・・・おい、光。きさまそこで何をしている」
「見てんの。天使見てんの」、制服姿の光は唇の前に人差し指を立て、真顔でそう答えた。
「眠って、いるのか」、つられて信哉も声を落とす。
 光は視線を落としたまま静かに笑った。
「うん。熟睡だな、こりゃ。オージかわいい。そんでニコちゃんもかわいい。かわいい子が並んで寝てれば楽園」
「・・・・・・」
「おれ、将来自分の子どもができたとしても今ほど誰かの寝顔で幸せになれるってこと、もう無い気がするんだよなあ、マジで」
「・・・・・・光」
「あ。昼だけどな、ちゃんと全部食べてたみたいだぜ」
「・・・・・・あ? ああ」
 信哉は一瞬、呆気に取られたような顔をした後で頷いた。

 今日の料理当番は信哉だった。
 三人分の朝食と弁当、プラス、現在学校へ行けていないオージのためには昼食を作る。当番は曜日ごとに振り分けられ、担当の曜日は月ごとに変わってゆく。信哉と光とオージがこのマンションの一室で生活を始めるようになってからずっとそういうシステムだ。掃除に洗濯、料理に後片付け。それらすべては平等に割り振られ、オージも例外ではない。もっとも、料理には買出しが付き物なので信哉と光が買って出ることが多かった。二人とも料理の腕にはそれなりに自信がある。自炊生活を覚悟して最初にそろえたのは料理の本だった。信哉は洋風が多く、光は和風が多い。
 オージは食べ物の好き嫌いをしないが食べる量が増えなかった。今日はよく食べたと思った日の夜、トイレでもどしている姿を見たこともある。頭では回復したと思っても体がついていかない。オージは二人の兄にできるだけ心配をかけたくないと考える。オージが無理をすればするほど、耐えれば耐えるほど結果として兄達は心配するのだが。
 オージは女系一家に双子の弟として生まれ、姉・小町の引き立て役として育てられた。同じ日に生を受けた同士とはいえ、双子の扱いにはあえての優劣がつけられた。つまり、ゆくゆくは家主となる小町には最高にして最良の待遇が、弟の大路にはごく一般的な待遇が処された。大路がそのことに不満を抱いたことはない。それどころか小町に比べて自分は自由で助かったと思うこともあったくらいだ。そのままでいけば小町は家主となるはずだった。大路も弁えていた。自分こそ家主に、などと考えない性格だった。
 うまくいって、いたのだ。
 そして、いきつづける、はずだった。
 だが、時間の歯車は壊された。
 小町はいなくなり、大路はいなくならなかった。

「ニコちゃんは、天性なんだな。人の懐に入ってく技」
 よくぞこの逸材を探し出してくれた。そう云って光は信哉に熱い目線を送った。
「偶然だ」
 その視線を振り払う仕草をして信哉はやっと鞄をソファに置く。
「偶然」、信哉の云った言葉を光は繰り返すと顔面ににやにや笑いを浮かべた。
「信哉が【偶然】なんかでオージの遊び相手を選ぶわけないでしょ」
 おれをばかにしてんの、とでも云いたげだ。信哉としてはばかにしたつもりはなく、単に無駄だから云わなかっただけだ。それに、光なら云わなくても分かるだろうという前提もあった。
「信哉は必然しか輪に入れないだろ」
 自信に満ちた光の言葉を信哉はストレッチ運動のように首を捻ってあしらった。
「どうだろう。でも、おれの前にニコが現れたことは偶然だろ」
「いや、それだって必然なんだ」
「へえ?」
「信哉からはそういうオーラが出てる」
「オーラ?」
「第三者に告ぐ。おれオージに無害な奴しか人として認識しないから。的な」
 何だそれは、と呆れたように天井に目をやった信哉は制服のズボンから携帯電話を取り出すとその画面を確認した。アノ表示は無かった。ぱたんと蓋を閉め、再びポケットに直す。
 それを見ていた光は何か云おうとしたが口を動かしただけで言葉にはしなかった。
 そのかわりに別の話題をふる。
「なあ、信哉」
「何だ」
「どっちがいい?」
 一瞬、何のことか分からなかった。
 光を見ると彼は「ど、っ、ち?」とオージとニコを指した。
「バカじゃねえのか泣かすぞてめえ」
 流暢に繰り出される暴言に光は嬉々とした笑みを浮かべる。
「何で何で。分かりきったことじゃん」
「だったら分かりきったことを訊くな」
 オージだろ信哉は、との誘導に信哉は面倒になって頷いた。そんな当たり前のことを何故このタイミングで光が聞きたがるのか知れなかった。
「ふうん。信哉はオージかあ」
 光は体育座りになると膝を抱えて前後に体を揺らした。視界の端で落ち着かない動きをする相手のことが気にかかって信哉はじかに見据える。その瞬間を待っていたように光が、にぱっ、と笑った。
「あ、おれの回答?」
「訊いてない」
「おれはね」
「いや訊いてないから」
「ニコちゃんかなあ」
 信哉が「はあ?」と苛立ったような声を出すのと同じくらいに、光が体育座りから正座の姿勢に持っていったかと思うとそのまま体勢を崩して両手をニコの顔の横につけた。
 何やってんだ。
 信哉がつっこむ暇も無く、光の顔が下がっていく。耳にかけていた黒髪が頬に垂れ、光が何のために咄嗟に体をかがめたのか予測こそさせ、確認はさせないように、ニコの顎から上も隠してしまった。
「あ、ほっぺ、ほっぺ。セーフだろ」
 数秒後、顔を上げた光は固まっている信哉に云い、再び体育座りに戻った。
「・・・・・・何がセーフなのか分かんねえ」
 信哉は苦し紛れにそう呟いたが、光の云いたいことは分かった。
(おれは、オージじゃなくても大丈夫)。
 おれは、もう、ちゃんとしてきたよ。
 信哉はポケットの上に置いた手で携帯電話の存在を確かめるように撫でる。この仕草とそこに込められた思いに光以外の人間が気づくことは無いだろう。だからこそ光は自分がもうすでに回復していることを伝えようとした。

 おれは、選べる。
 信哉と違って。
 おれはオージを放置できる。
 オージじゃないやつを、選べる。

 だから、あんたも、もう、自分を許せよ。

 そう、伝えようとした。
 挑発に見せかけたエールか、ただの戯言か。
 どちらだとしても大差ない。

「オージだ」
 繰り返される信哉の答えに光はつまらなさそうに眉を上げた。
「あ、そ」
「おれは、オージだ。当然だろう」
 堂々と述べた信哉は慈しむようにオージの寝顔を見下ろした。
 氷だと思っていたものは実はガラスだったのだろうか。そう簡単には溶けてくれそうにない。
 光は今日もまた肩を落とす。
 それでもいつか絶対に訪れるであろういつかを諦めるつもりは、絶対に、さらさらなかった。



2. ニ コ と オ ー ジ  ~ 1 の 一 時 間 前 ~



 光が帰宅する時刻から一時間ほど前、オージとニコはマリオに熱中していた。

 ソファの上に座ったオージは家の中でもフードを脱がない。フードをかぶることで視界を狭め、入ってくる情報量を意図的に減らす。ついでに聴覚もやや不鮮明なものとする。それでちょうど良かった。
 影になった部分から二つの黒い瞳が上目遣いを画面に注いでいる。

 オージの斜め下でニコは床にあぐらをかいて座り、背後のソファに凭れかかっている。彼が着ているのは中学校の制服だったが髪は明るい色に染められている。頬には針の先で引っ掻いた程度の切り傷があった。原因は先週の喧嘩らしい。その時に負った、怪我らしい怪我といえばそれくらいだ。もっとも相手は左腕を痛め首から包帯をつるしている状態だそうだ。ニコの踵を喰らった際に歪んだ鼻筋もいまだ元に戻らないらしい。「頼まれたんだ」。ニコは云う。あっちから頼んできたんだ、喧嘩してくれって、と。光なら笑うだろう。そりゃ仕方ねえな。頼まれたんじゃあな。などと云って。信哉は興味を示さない。オージに危害が無いなら好きにしろ。必ずそう云う。

「・・・・・・もう無理だと思う。ここ、難しい」
 フードの下からオージが感情の薄い声を出す。
 ニコはそれを聞いて明るく笑った。
「あはっ。早いね、諦め。面白いんだけど」
 オージはニコの、何でも笑いのネタにしてしまう性格を不可解にこそ思えど不快に思ったことは一度も無かった。何故ならニコは嘘を吐いていないからだ。笑いたいから笑っているんだし、笑いたくなければ笑わないだろう。自分の前でありのままに振る舞ってくれるニコはオージにとって久々だった。最近では繕った人間にしか出会わない。それが善人であれ悪人であれどこか無理をしている、と思う。そうさせているのは自分なのだという自覚もある。事件の直後、人々の態度はさまざまだった。同情、憐憫、畏怖、嫌悪・・・・・・。ありのままに振る舞うニコをありがたく感じながらも、すべての人々にありのままで接して欲しくないとも思う。
 過去を消すことはできないし、どうして自分が、と嘆いても現状は変わらない。
 神様はきっと云わない。きみが悪いやつだから、いけないやつだから、だからこういう目に遭わせたんだ。とは、云わない。きみなら乗り越えられるだろうと思ったから、スケープゴートなんだよいわば、格好だったんだ、だからこれが運命だ。とは、云わない。
 神様はただ、気だるそうにその目を上げて云うだろう、「誰だってよかったんだ」。
 その程度だ。
 ニコの頬にある傷も、オージの過去に負った傷も、本当は大差が無い。光だって信哉だってオージ自身だって、そう考えられるようになることを、いや、考えているという自覚さえ失えるほど自然に身につけていけることを、望んでいる。

「もう、無理だと思う」。
 オージがコントローラを放った。上体を倒すとカーペットの上で大の字になる。
 仰向けになるといつも深くかぶっているフードが脱げて、長くて重い前髪が顔を邪魔しなくなって、黒い瞳がよく見える。その瞳にも周りがよく見えていることだろう。
「え、何が?」。
 ニコも真似をしてコントローラを放った。無防備なオージの隣に大の字になると期待で瞬きを繰り返す。
 オージは天井を向いたまましばらく黙っていた。
 その横顔が、土の中で春を待つ、まだ太陽を知らない若葉みたいで、そういった何かを連想させる何か以外の何者でも無くて、ニコはこれからも見守っていきたいと思う。
 芽吹くまで、花が咲くまで、許されるならそれが朽ちるところまでも。
 ニコはこの時の自分に近い感情を例えるならば何だろうと考える。それはもしかすると赤ん坊を腕に抱いた母親ではないだろうか。自分の性別を勘定に入れることなくニコは確信する。うん、きっとそうなんだ、と。
「・・・・・・ニコを、拒絶すんのは」。
 自分の口が云ったことに、オージは微かに驚いた後、ああそうなんだと納得した。自分の気持ちはそうなんだ。できることなら世界を断ちたい。不自由あってもひとりで生きていけるものならその道を選びたい。だけど、それを許さない人がいる。彼らはオージがその道を本当に選びたくて選んだのなら決して文句は云わないだろう。だけど彼らは許さない。オージが寂しい気持ちのまま悲しい気持ちのまま選んだものを、彼らはオージの意志として認めない。
 ニコはテロだった。
 同い年の、赤の他人。
 分かったような顔をしないかわりに、無視もしなかった。
 いつも真っ直ぐに向き合ってくれるから、騙そうとする自分に騙されないでいてくれるから、オージは自分を忘れなかった。捨てないで、殺さないで、済んだ。
「・・・・・・うん。無理だよ」。
 ニコはオージの言葉に静かに同意した。
 仰向けのまま瞼をおろしたオージの目尻が少しだけ赤くなっていて、ニコは、いいのに、と思う。
 もう、いいのに。
 無理でも。
 泣いても。
 生きても。
 全然、いいのに。
「オージ」
「うん」
「クリア、しよう」
「・・・・・・うん」
「ニコはオージを裏切らないから」
 一拍置いて、オージが笑ったような気配がする。ニコが自分のことを自分でニコと呼んだのがおかしかったのだろう。
「だから、オージはニコを、信じるだけでいいよ。信じて、手を出しててよ。おれはその手に、たっくさんの・・・・・・」
「・・・・・・たっくさんの?」
「たっくさんのキノコをあげるっ」
「え、キノコ?」
「うん、キノコ」
「赤い?」
「うん、赤いキノコ」
「緑は?」
「緑はねえ、必要無いと思う。だってさ、おれだよ? どんなやつが相手でも負けるわけないじゃん」
「何それ。すごい自信」
「経験と実績に裏打ちされてますから」

 その後はむにゃむにゃと脈絡の無い会話に流れていった。
 睡魔に誘われて夢の世界に落ちるまで、最強の道連れがいてくれることは、オージにとって頼もしかった。これからも困難が待ち受けている気配は大いにある、その度に自分が驚いて弱腰になることも予想がつく。だけど決して飲み込まれてしまうことはない予感も大いにある、その時に自分が呼ぶ名前はもう、一つだけじゃないことを知っている。

「オージ」
「うん?」
「ニコは味方だよ」
「うん」
「オージ」
「うん?」
「眠いね」
「うん」
「寝ようか」
「うん」
「いっしょに寝ようか」
「うん」
「うん」
「いっしょに寝る」

そしてまた、目を覚ますんだよ。



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