おれには弟が二人いる。
一人は名前を信哉。
もう一人は名前を大路という。
暗 い 光
おれたちは大きな屋敷で一緒に育った兄弟だ。
三人とも父親が違う。
長男のおれは自分の父親に、次男の信哉は彼の父親に、末っ子の大路だけがたったひとりの母親に似た。
並んで歩いていても誰もおれたちを血の繋がった兄弟だとは思わないだろう。かと云って友人同士にも見えないかも知れない。
おれと信哉はオージを挟んでしょっちゅう喧嘩した。おれは信哉の過保護なところが気に食わない。信哉はおれのデリカシーの無さが癪に障る。おれには信哉の持っている慎重なところが欠けている。信哉にはおれの持っている楽観的思考が足りない。極端な二人の性格はオージをめぐって小さな戦争を幾度も勃発させた。どちらもまだ怒りをうまくコントロールできなかった。ただしそれは誰に対してもじゃなかった。信哉と同じことを他の誰かにされてもおれは信哉に対してほど怒らなかっただろうし、それは信哉だって同じだろう。
異なる肌と瞳の色は明らかなる混血の証。
持ち主にも第三者にも普遍の事実を突きつける。
同じ非嫡子という境遇が、宮沢家での処遇が、おれと信哉を近づけながら、寄り添わせながらも互いに反発させた。
同属嫌悪。
そんな言葉も思い浮かぶ。
「沈みそうな船があって」。
ある日のことだった。庭に咲いた向日葵を見ながら縁側で、信哉が云った。
夜だった。空は黒画用紙に砂粒をぶちまけたような星空だった。
隣に座る信哉はおれの顔を見ずに云ったから、おれはそれを独り言かと思った。あるいは、詩歌でも諳んじてるんじゃないだろうか、と。
おれは顔を前に戻した。
夜の向日葵はとても恐い。昼、青空を背景に眺めている間はあんなに明るく元気な花は無い、と思わせるのに。陽が沈み夜が満ちた途端、陰鬱な死神の立ち姿に見える。頭を微かに項垂れ、表情の無い面には目も鼻も口も無い。
「光とオージが溺れるんだったら」。
おれはもう一度、信哉の横顔に目をあてる。
おれの浅黒い肌と対照的に内側から白く発光しているようなその肌は、大人しく夜に飲み込まれている向日葵よりもずっと生きているものの存在感があった。それはおれが隣に座る人物を、敵とも味方とも何とも分からないその相手のことを、この上なく意識していたせいもじゅうぶんにあるだろう。
「オージを助けるよ、おれは」。
「……唐突に、何。信哉ちゃんはおれをどうしたいのかなあ? 言葉の暴力で傷つけたいのかなあ?」。
すると信哉は初めておれを見上げた。色の薄い瞳は黄金色に見えた。こんな夜に、いったい何の光をそんなに跳ね返してんだろう。
「そんなもので傷つくお前じゃないだろ」。
信哉の口角が片方だけ吊り上がる。
おれは滑らかな木の廊下に手をついて、胸をそらせた。
「ああ、そうか。じゃ、ただ酔ってんの?」
信哉は眼帯をしていない目を伏せた。「目の上をかすっただけだ」と云っていた。訊いてもいないうちから。だから信じなかった。本当のことならこっちが訊いてから答えたって遅くはないだろう。信哉はおれからの質問を阻むように、余計な詮索をするなと釘を刺すように、先手を打ったつもりでいるのだ。
おれよりずっと後先を考えられる信哉が、おれ以外の人間を相手に喧嘩をする。
無傷でないところを見ると、かなり派手にやったのか、一時的に「とんで」いたかのどちらかだ。
おれは長兄で且つ、そもそもが図々しいから、信哉の意図を汲んで尚それを無視して質問攻めにすることもできた。信哉の性格上、しつこくすればするほど最後には吐くように本音と事実を教えるだろう。だけど今夜のおれは凪いだ海のような気持ちだった。涼しい夜だったからかも知れない。夕立の残り香が向日葵の葉や土にまだ残ってる気がする。
信哉はおれからふと目線を逸らすと髪をかきあげるように下から眼帯を外した。確かに傷は大したことが無い。子猫の爪に引っかかれた程度だろう。ただ、その程度のかすり傷を信哉に与えた相手が今頃どうなっているかは考えたくもない。
「顔に食らうとか。みっともねえのな」。
そんなおれの罠に信哉は引っかからない。分かってる。分かってた。だからおれは少しだけ安心したんだ。
「だけど、それ以外のシチュエーションでなら、あんたのために腹を立ててやることもあるんだ」。
おれは目を見開いた。
信哉は眼鏡を掛けるような仕草で眼帯をはめ直した。
「オージには云うなよ。心配させたくない」。
「でも、眼帯そのままなんだろ」。
「明日になったらはずすから」。
「一晩じゃ傷は消えない」。
「よそ見していて電柱にぶつかったことにしよう」。
おれは思わず吹き出した。信哉は時々真顔でそんな冗談を云う。問題は本人にとってはそれが冗談でもなんでも無いところだ。
「そっちのが心配されんじゃね」。
おれは咽喉を仰け反らせて低く笑った。何がおもしろいか分からず、ただ笑いたいから笑って、顎を逸らせたまま、天井に向かって、ぽつりと呟く。
「で、何だって?」。
「母親のこと。兄弟の色が違うのは、父親が違うからだって」。
そこまでで分かった。いや、もしかするとほとんど分かりかけていたことを今の質問で確認しただけ。
「どうして怒るの」。
おれは掠れた声を絞り出す。届かないならそれでいいと思った。
だけど信哉の耳はその声を拾った。おれが「届かないならそれでいいと思った」言葉を、適当に流さなかった。
「産みの親をバカにされたらそいつ殴るだろ、普通」。
案外、幼稚なんだな。
おれはそれだけ云った。
他に思いつかなかった。
夜空を見上げていると、あんなにたくさんある星の内のどれをとっても、どれ一つとして、同じ輝き方をしているものは無いのだと分かる。赤く点滅するもの、瞬かないもの、消えそうに揺れているもの、青い光。
この広い世界に自分と信哉以外の誰も、オージさえももう見えなくなったような気がして、背筋が寒くなった。
横にあった手に手を伸ばすと、すぐに温かい感触が得られた。
「信哉。おれは、恐い」。
自分がこうなのだから相手もこうだろうと考えるのは浅はかすぎた。手を握られた信哉は気味悪そうにおれを見ている。それでも振りほどかないのは優しいからじゃなくておれの意志で手を離させるつもりだからだ。そうじゃなけりゃ意味が無い、と思っているようだった。そしてそれは正しい。
「何が恐い?」。
「自分達の、歪さが」。
暗い夜の向日葵。
どれ一つとして同じじゃない遥かの星図。
これだけの回答を目の前にして尚、おれは自分のこの先ごときが恐いのか。
(なんて、弱い)。
弱さを持っていることは弱いことと違う。弱さをさらすことが弱さだ。そう考えているおれにとって、今のおれは惨めになるほど弱かった。嗜虐心を削がれるほどにそうだった。さらしてどうする。笑い飛ばされて終わるぞ。
「大丈夫だろ」。
掴んでいたはずの手に、掴まれていた。
おれは静かに顔を上げる。縋るような目をしているかも知れないという恐怖は、信哉の言葉が放つ頼もしさの前に無力だった、無意味だった。今夜おれは弱い。
「お前が駄目でも、おれがいる」。
そう断言する信哉の世界の中心はあくまでオージだ。いちいちがオージだ。同じ家で同じように育ったのに、おれはこいつほどオージを崇拝的に愛せない。それでもごく一般的な兄弟関係に比べれば、はるかに甘いはずだ。信哉と比較するからおれの異常性は薄れる。
「ここから見える星すべてに名前をつけて、何もかも把握したつもりになっても、掴み損ねた部分は絶対に残ってる。そしてそれはある日突然、夜空を横切る彗星としておれ達の思い込みを覆すんだよ」。
信哉の手のひらが、おれの手をぎゅっと握る。
振りほどかない、のは、振りほどけない、のは、今が夜だからだろう。向日葵が頭を垂らし、星が瞬く夜だから。すべてはちぐはぐ。すべてはあべこべ。
「あ、惚れんなよ」。
おれを振り返って信哉が首を傾げる。
「もう遅えよバカ信哉」。
冗談は真顔で。
これはおれの皮肉だったけど、信哉は何にも気づきはしないだろう。
背後で小さな物音がして振り返るとオージだった。
「・・・・・・眠れないのか?」。
おれが声を掛けるより早く、信哉が立ち上がる。フードをかぶったオージの前に屈むと、うん、と前髪の奥を覗き込む。
おれはそんな二人から目を逸らして両手を握り合わせた。
「・・・・・・、」。
オージの声が信哉に何か返事する。
聞いた信哉が微かに笑っている。
大切なことを諦めたようにどこかもの寂しい。
その表情がおれに向けられることは無い。
流星。
分かりきった世界、と刺繍したつもりのこの世界に、何度でも降り注ぐ冷たい光。
分かった口を利くあたたかさはあてにならない。
「一緒の布団に入るか? そうすれば、寝られるな?」。
信哉がオージに提案しているのが聞こえる。
オージは泣き出しそうな顔を無理にしかめて頷くだろう。
「じゃ、おやすみさん」。
おれもそろそろ寝ようと思い二人の傍らをさりげなく通り過ぎようとしたのだが肘を掴まれて立ち止まった。
「何だよ?」
肘を握るのは、オージに目線を合わせるため腰を屈めていた信哉だった。
「光。貴様も一緒に寝るんだ」
「はあ?」
戸惑うおれを信哉はぐいぐいと寝室まで引っ張っていく。
おかしいだろ、とか、スペースねえから、とか抗議の声を上げていたおれも、だんだん楽しくなってきて、最後には笑い出してしまった。
畳の上に転がる。半身はかろうじて布団の上に乗っているが、翌朝にはすっかり落ちてしまうだろう。
「川の字ってやつか」。
おれが云うと信哉も頷く。
両側を挟まれたオージは寝返りも打たず、静かに仰向けになっている。
何度でもやめない。
何度でも繰り返すよ。
呆れたっていい。
それでも何もやめないから。
オージの体に腕を回そうとすると先客の腕にぶつかった。
「貴様は離せよ」。
低い声が威嚇してくる。
「あいにくそれは出来ないね」。
おれの返し言葉にいつも通りな何かを感じたのか、は、と苦笑のような溜息のような吐息を漏らして、信哉はもう何も喋らなかった。
三人だけの三人で、兄弟は三つ子のように朝まで眠る。
不幸と予感。
墜落と絶頂。
朝と夜。
目に見えないが存在する何かへ。
おまえの口で。
その昏い昏い瞳で。
おれたちの甘く望んでる、暗いだけの光をのみこんで。今。
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