通学。
がたたん、ごととん、電車が揺れる。
苔の色をした向かい合わせのシートはところどころ毛羽立って。
同じ間隔で立つ電柱が左から右へ流れる。どれもみな左から右へと。
その奥では田園風景がじょじょに住宅街へと移り変わる。
模型に乗っているみたいな。
箱庭の中で生活しているような。
不安な安定。
安定した不安。
あくびも出ないまどろみの中。
どこへも到着しなければいいのに。
そしてそれを願っているのが。
おれだけじゃなかったら、いいのに。


ス イ サ イ ド ・ シ オ サ イ




「……うっわ、あんたのせいで乗り過ごしたじゃねえかっ!」
こいつ、口より先に手が出る。
オージの平手打ちを食らって左頬を赤く腫らしたひめかわはたちまち涙目になった。
「い、痛いっ……オージが、オージが顔ぶったあ」
知るか、と吐き捨ててオージは車掌室の入り口をどんどんと叩く。
白髪の車掌は由緒正しき家に仕える執事のような落ち着きでもってオージの剣幕に対応する。
ひめかわはその様子を息を潜めて見守っていた。
しばらくするとオージが戻ってきて大きなため息とともに肩を落とす。ひめかわの長い脚を気兼ねなく蹴り飛ばしわざわざスペースを空けてそこに座った。
「止まれない。最終まで行くってさ」
はあ、ともう一度大きなため息を吐いたオージは今度は顔を上げ、ひめかわの顔を鋭く睨み付けた。
「責任、取れ」
「えっ?」
顔の前に差し出された白い小さな手を不思議そうに眺めたひめかわは、しばらく非力な頭を回転させた後、ああ、とふいに笑顔になってぎゅっと握った。
「オージ、不安なんだな? だいじょうぶ。おれがずっと握っててあげる」
「……ちっがう!」
うっかり叫んだオージは自分の大声に驚いたように無人の車両内を見回した。
見下ろさなくても、ひめかわの大きな手のひらが上下から自分の手を挟んでいるのが分かる。
たちまち顔が赤くなるのを指摘される前に振りほどいた。上気した頬は苛立ちのためだとしよう。
「……ばか。タクシー代だよ、タクシー代。最終から高校まで行く」
やっと言葉の意味を理解したひめかわは駄々をこねる子供のように、えー、と唇を尖らせた。
「どうせ遅刻じゃん」
「……ああ、中央に着いたら起こすという約束を破ったあんたのせいでな。遅刻確定だな。でも欠席にはなりたくない」
「でも今日おれ財布に三百円くらいしかないけど」
「……つかえねえ奴だな」
そうだ、とオージは閃いた顔をして座席の上に膝乗りになった。歪みが生じて開けづらくなっていた窓をなんとか押し上げようとする。
何するつもりだろ、とひめかわはオージの顔を仰ぎ見た。

春の光がオージに降り注いでいる。
今朝もまたぐしゃぐしゃにかき混ぜられた髪の毛も。
トンボの目みたいに大きくて厚いめがねも。
包み込む。
春の光は生き物じゃないから。
だからこんなに平等なんだ。
そこにいるのが誰であれ、何であれ、ただ降り注ぐ。
生き物にそれはできない。心あるものに、それはできない。

「ねえ、何やってんの? オージ」
ひめかわが眺めているとオージが機嫌悪そうな目を向けた。
「……決まってんだろ。出るんだよ、この窓から。ほら、映画とかでよくあるだろ」
一瞬の間。
ひめかわは、ぷっと吹き出した。
「悪いっ。オージ、東高のくせにこういうところで超頭悪いっ。かっわい」
こみ上げる気持ちを抑制する努力など忘れた。
ひめかわは目の前の体に抱きついた。
オージの体はひめかわが中学まで使っていた牛乳石鹸のにおいがした。さいきんは、ホワイトローズの香り、だの、パッションフルーツの香り、だの香り付きボディソープを使うことが多くなったが、牛乳石鹸のなつかしい香りは何にも勝った。牛の絵のついた箱から新しい石鹸を一番最初に取り出す時のちょっとしたときめきについてひめかわは思い出した。まだ角のある白い固形物をタオルに泡立てて肌に滑らせたときは、えもいわれぬ幸福に満たされたものだった。
思い出と香りはいちばん密接している。
ひめかわはオージの耳の下や首筋に顔を押し当ててふごふごと息を吸った。
「オージ、いいにおいする」
「や……やめろ、バカ、死ね変態っ」
座席から鞄が落ち、オージの顔からめがねが落ちそうになった。
病気だ。
そうは思ってもひめかわは歯止めが効かなかった。
その時。
小さな体の一体どこにそれだけの力を溜め込んでいたというのか、オージの渾身の一撃がひめかわの横腹に叩き込まれた。


ゆらゆらと揺れる。
水底から水面を見上げているようだ。
顔にひんやりとしたものがあてられる。
気持ちが良くて、ひめかわは目を開けたくなかった。
聴覚だけが明瞭な世界で、誰かが泣いている。
ああ、あれはおれだ。いじめられて泣いていた、弱虫のおれ。
級友達は笑って見ている。
自分が泣いているのを級友達は面白そうに笑って見ている。その表情に、悪意や罪の意識などこれっぽっちもない。その表情はただただ楽しそうだ。
そういうのもありかな、とひめかわは思った。ひねくれた考えでなく、裏返しの皮肉などでもなく。 自分の存在がこうやって誰かを笑わせることができるなら、おれは、クラスのアイドルである男子生徒や、テレビに出ているお笑い芸人や、発明家のエジソンや、そういったものと同等なんじゃないか。
それで、いいんじゃないか。
ひめかわはにっこりと笑って、泣いている自分の肩に手を置く。
はっと顔を上げた中学生のひめかわは数年後の自分のことを自分だと分かっているのかいないのか、怪訝そうな目を向けた。
それでもひめかわは微笑む。
「数年経ったら分かることだけど、おまえには好きな子ができるよ」
大好きな子が。
「その子はね、きれいな髪をしてるんだけど毎朝わざとぼさぼさにする。それから、きれいな真っ黒の瞳なんだけど、それも不細工なめがねで隠しちゃう。身長は低くて、そうだ、今のおまえくらいかな。ちょうど、これくらいだ。口が悪くて性格きつくて素直じゃなくて、でも、どうしてかおまえはその子を好きになるんだ」
中学生のひめかわの瞳は未来のひめかわを見上げている内にだんだんと乾いてきた。
涙が晴れていく。
「だから、やめろよ」
そう云ってひめかわは少年のポケットから手紙を取り上げた。
便箋一枚の遺書だった。
何回か推敲を重ねて、結局、短文にまとまった。
「おまえ、死ねないよ」
まっ生きてみろ、というひめかわの言葉に少年は怯えの色を顔に浮かべた。
その頭に手をのせ、ひめかわは、へらっと笑った。
「心配すんな。おまえなら大丈夫だと思うぜ? だって、おれがここにいるんだから」
中学生のひめかわは意味を理解しかねて首をかしげた。
「分かる日はそのうち来るよ。生きてりゃな。だけど、ひめかわかずま。おまえ、絶対、死ぬなよな。死にたいって思うのは全然良いから。でも、ほんとには死ぬなよ」
念を押すうちに中学生のひめかわは段々と勇気を失っていくように見えた。
「じゃ、ひとつアドバイス。おまえ、自分を一番に考えるのやめろ。死にたいって思うのは、自分がかわいいからだろ。どうして自分だけこんな目に。どうして自分だけ不幸なんだ。って、そう思うからだ」
ひめかわは顔の前に指を立て、催眠術をかけるような仕草をした。
「自分よりかわいいと思えるひとに出会うまで、生きろ。そして、そんな自分を好きになれ」
中学生のひめかわは胡散臭いものでも見るような目を向けていたが、やがて、すべてばかばかしくなってきた、といった感じに吹き出した。
なんだこいつおれが心配してやってんのに、とカチンときたひめかわだったがつられて笑った。

起きろ。

ひめかわは再び水底から水面を見ている。
そこに人の顔が映った。
(あ、オージだ)。
ひめかわにはその顔が泣いているように見えた。
(どうして泣いてるんだ? かなしいことがあったのか? なあ、オージ)。

いてもたってもいられなくなり、ひめかわは覚醒した。


小さな駅の待合室のベンチでひめかわは体を起こした。
改札口の外は見慣れない風景。どうやらずいぶんと田舎のようだ。
切符自販機の前にこちらを向いて立ち尽くすオージの姿があった。
袖をまくった腕。その手には濡らしたハンカチが握り締められている。
ひめかわの目がハンカチに注がれていることに気づくとちょうど横にあったゴミ箱に叩きつけるように捨て、
「……ざっけんなよ、おれが他人の心配なんかするわけないだろ、あんたなんか死ねば良いと思ってたところなんだ。はいはい、死ね死ね!」
「え? 何も云ってないんだけど」
「……ざっけんなよ。マジでざっけんな」
オージはまだぶつぶつと云っている。
「えっと、オージ。ここ、どこ?」
「終点だ」
そう答えながらオージは肘までまくっていた袖をそろそろと下ろした。
腕の内側の白いところをぼんやりと眺めていたひめかわだったが、直前までの記憶がほとんどなかった。
「え、終点。あ、そこまで来ちゃったんだ。で、おれどうして寝てたの?」
ひめかわの質問にオージは詰まった。
「そ、それはだな……」
「あれ、オージ、それ」
オージの肌の表面に蚯蚓腫れのように赤く盛り上がった箇所があるのをひめかわは見つけた。
ちょうど手首の辺りだ。
「ああ、これはな、水に濡らすと目立ってくるんだ。気持ち悪いだろ。……ちょっと、待ってろ」
自分で話を切り上げたオージはポケットから財布を取り出し、外の自販機でペットボトルの緑茶を買って来た。
ベンチの上で待っていたひめかわにそのまま渡そうとしたが途中で思い直したように慌てて自分で蓋を回した。
ごくごくと喉を鳴らし、三分の二ほど残す。
残量を確認した後で、ずいっとひめかわの顔面に突きつけた。

「……余ったから、やる」

ひめかわはおそるおそるペットボトルを受け取った。
オージはそっぽを向いている。
凹凸のある飲み口を銜えた。
よく冷えた液体が体の中を滑り落ちていく。

おれ、生きてる。
この、たとえようのない実感。

「……うっわ、気持ちわるっ。なに泣いてんだよ」
「え? おれ、泣いてる?」
「気付けよ」

舌打ちしたオージはポケットに手を突っ込み何かを取り出そうとしたが見当たらず、ゴミ箱のほうを睨んだ。
捨てられてしまったハンカチ。
涙を流し続けるひめかわを面倒臭そうにじっと見つめていたが、やがてつかつかと歩み寄ってくると手を顔にのばした。
皮膚に触れないよう、気をつける。
涙の粒だけをすくって、あんたの泣き顔はみっともないからもうやめろ、と云う。
それなのに、ひめかわの茶色い目からは透明の粒がさらにぼとぼと零れ始めた。
「……なんなんだよ、あんた」
「だって、オージが、オージがおれにやさしいんだもんっ……」
ついにひめかわは声を上げて泣き始めた。
オージはぎょっとしたように後ずさり、離れた場所からひめかわを見た。
なんなんだこいつ、なんなんだこいつは。
「……めそめそすんな」
「ごめん、でも、嬉しいっ」
オージは頬を膨らませた。
あんたは、うれしいのに、泣くのか?

すっかり混乱しているオージに向かって、ひめかわはぐしゃぐしゃの顔で笑った。すると静かに「気持ち悪い」と感想を述べられ、慌てて顔をぬぐった。
こいつが、西高の、アイドル?
ベンチの端に腰掛けたオージはごしごしと顔をこすっているひめかわを下から眺め、解せない、と呟いた。


その後はふたりとももう学校に行く気は失せていた。
改札口を出て小旅行気分に浸ることにした。
違う制服を着た男子高校生が平日の昼間にさびれた商店街を歩いていても気に留める者はいなかった。
海が近いのだろう、潮の香りがする。
犬のように嗅覚を研ぎ澄ませて港の位置を云い当てたひめかわをオージは気味悪そうに見ていたが、やがて海に出ると晴れやかな表情を浮かべた。
あと少しで笑顔になりそうな、だけどまだ我慢しているようなオージをひめかわは隣でうずうずしながら見ていたがとうとう我慢しきれなくなり「かわいいっ」という言葉ともにじゃれついた。
ひめかわの脚を蹴ろうとしたオージだったがつい先ほどのことがあるので我慢し、堪える。
抵抗しないオージにますます調子に乗ったひめかわだったのでオージはその額を指ではじくくらいのことはしてやった。

「五時までには戻らないとな。まこっちゃんが待ってる。今日は廃屋探検の日だから」
堤防に並んで腰掛け、他愛も無いやり取りをしていた時、ふいにひめかわが思い出したように云う。 オージはおもしろくなかった。遠くに小型船が浮かんでいて、それを睨んで気を鎮める。
商店街の駄菓子屋で買った棒アイスにアタリの文字が出たことをひめかわは大喜びしている。自慢げに見せられたが、オージは一瞥だけで済ませた。
「あーあ、オージはどうしてそんなに冷たいのかな」
「……どうしてあんた相手にやさしくしなきゃならないんだよ」
ううん、とひめかわは首を横に振った。
「それがもともとの性格ならおれ云わないよ。でも、だって、オージ、ほんとはやさしいんだもん」
オージから返事はなかった。
黙って水平線を睨んでいる。
「オージ。もっと、オージのこと、好きになってやってよ」
はっ、とオージが鼻で笑う。
「……それじゃただのナルシストだ」
「ナルシストじゃない人間なんているの? ナルシストじゃないと誰も生きてけないと思うけど」
「極論だな」
「うん、そうかもね。でも、もしオージにそれができないなら」

秘めている。
この目の前に広がる海みたいに。
きらきらりと夏に近づく太陽の光を反射して輝くだけの美しさじゃなく。
底には危険な生物やたくさんのゴミを持っている。
海みたいに。

きみがおれにとって親切じゃないもの、安全じゃないものを秘めていること、もう知ってるよ。

ひめかわはオージの横顔に手をのばした。
触れてみると想像よりふっくらとやわらかい頬。
子供みたいにすべすべだ。
めがねを取り上げ、ずずっと体を寄せる。

「できないなら?」
困ったような、諦めたような顔でオージがひめかわを見上げる。
海から風が吹きつけ、オージの瞳があらわになった。

求めていた。
待っていた。
探していた。
欲しかった。

「できないなら、おれがオージのぶんまでオージのことすきになっちゃうよ。いいの?」

ほしかった。

唇は触れ合わなかった。
ほんの少し、掠めただけ。
触れてしまったらもう戻れないことが分かって、貪欲になるにはもう少し段階が必要で、だけど自分はそれを絶対に手に入れると決めたから、変更はありえないから、だから辛抱できる。
作ってゆくもの。
守ってゆくもの。
こうありたいと願った日々について。

頷かなくとも拒否もしないオージをひめかわは力いっぱい抱き締めた。

「……いいよ」

潮風がいけない。
自信満々なようでいてほんとは違う。
赤く染まり小刻みに震える耳たぶに、オージは観念した。


090321
ぎゃー、どうしよう! ダメモトだったのに! でれた! 棚ボタ!(byひめ)